>孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたことである。

>孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)の
>当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、
>その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
>『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。

>光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、
>これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
>さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。
>「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、
>痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」

>伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、
>さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。

>前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。

>岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
>匂当内侍だった高野房子。
>中御門経之の娘で典侍だった良子。