【歴史】『徳川将軍家へようこそ』展、東京・江戸東京博物館で今日(11 日)から開催 [無断転載禁止]©2ch.net
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徳川家に伝わる美術品や絵画を集めた「徳川将軍家へようこそ」展が、東京・墨田区の江戸東京博物館で11日から開かれます。
「徳川将軍家へようこそ」展には、初代将軍の家康から大政奉還した15代将軍の慶喜、その跡を継いだ家達にまつわる品々が展示され、当時の生活様式や文化、美意識の移り変わりを読み取ることができます。
徳川記念財団・徳川家広理事:「(江戸時代は)日本が独自の文明になった時代だと思います。それを支えた人たちにまつわるものですね」
江戸時代後期の絵師・酒井抱一の描いた「武蔵野富士図」は、ススキやリンドウなどを描き込むことで、江戸から見た秋の富士山を表現しています。また、14代将軍の家茂に嫁いだ皇女・和宮の使っていた調度品なども展示されます。この美術展は来月24日まで開かれます。
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引用元にニュース動画もあります
http://news.tv-asahi.co.jp/sphone/news_society/articles/000107504.html >>74>>304
それでも植民地に原爆は落とされないだろうし
大空襲もむしろ玉砕もなかったとしたら
膨大で悲惨で焼け爛れた空爆での死者も戦死もなかったかもだし
そもそも植民地なら連合も違えばアメリカが対戦国かどうかもわからず
その後のオーストラリアやニュージーランドから香港のようになっていったかも知れないし
日本語で日本人で日本であったらよかったどうかは
終戦のお盆のこの時期戦争で死なずに無惨に殺されたくらいならとっくにイギリス人になるのも悪くないとは思うわ >>431
だから天然痘である物的証拠を出してごらん。
>>436
孝明天皇が一般的な天然痘を患ったことは確か
こいつ真逆のことを平気で言ってる。 >>460
孝明天皇の急死の状況は一般的な天然痘では説明できない。
一般的な天然痘の回復段階で砒素により暗殺されたとするのが毒殺説。
一般的な天然痘ではなく紫斑性痘瘡・出血性膿疱性疱瘡という特殊な天然痘で亡くなったとするのが病死説。
つまり崩御の直前の激烈な症状をどう説明するかが問題。
病死説はあくまでも紫斑性痘瘡等で症状激変を説明できるかもというだけでその物的証拠はない。
あると断言するなら出してみればいい。
御九穴より御脱血し七転八倒に苦しんで急死する病気が宮中で流行してたなら何らかの記録があるはず。
それが出せないなら毒殺か病死かの問題は未決着だし、討幕派による毒殺で説明する方が合理的なんだよ。
「孝明天皇紀」「中山忠能日記」に見る孝明天皇の臨床経過
12月12日 高熱を発し、苦痛を訴える。(前駆期)
12月15日 手に一対の吹き出物が出来る。(発疹期−紅斑)
12月16日 吹き出物が顔にも出来る。
12月17日 典医十五名は正式に疱瘡と発表。
12月18日 吹き出物が変色して落ち着く。(発疹期−膿疱)
12月20日 食欲、便通も順調、吹き出物の経過も良好。
12月21日 吹き出物から膿が吹き出し始めてさらに楽になる。
12月23日 食欲ますます進み、吹き出物の膿も出てしまい乾燥しはじめた。(発疹期−結痂)
12月24日 この日も葛湯、お粥、ほしいいをとり、便通もあり、天皇の機嫌はますます良好。
12月25日 天皇の様態は前夜から急変、激しい嘔吐と下痢におそわれ、顔には紫の斑点が現れた。
さらには「御九穴より御脱血」、七転八倒の苦しみのうちにその夜遅く亡くなった。 >>461
また天然痘であることの証明を逆に言っている。
経過
1.毒殺説「ヒ素で死んだのだ」
↓
天然痘の症状
↓
「天然痘が治りかけの時にヒ素を飲まされたのだ」
↓
証拠なし+天然痘の普通の症状
↓
天然痘と判明、ヒ素説を語るものは消滅
>一般的な天然痘ではなく紫斑性痘瘡・出血性膿疱性疱瘡という特殊な天然痘で亡くなったとするのが病死説。
>つまり崩御の直前の激烈な症状をどう説明するかが問題。
これはウソ。誰も特殊と言っていない。言っているのは捏造歴史流布で知られる小説家のみ。 >病死説はあくまでも紫斑性痘瘡等で症状激変を説明できるかもというだけでその物的証拠はない。
>あると断言するなら出してみればいい。
>御九穴より御脱血し七転八倒に苦しんで急死する病気が宮中で流行してたなら何らかの記録があるはず。
>それが出せないなら毒殺か病死かの問題は未決着だし、討幕派による毒殺で説明する方が合理的なんだよ。
これもウソで、物証がないのは毒殺説の人間だった。天然痘はお前自身も認めたことだ。
ID:DO2rkCJX0よ、歴史捏造はお前だけにしておけ。 >孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたことである。
>孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)の
>当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、
>その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
>『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
>光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、
>これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
>さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。
>「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、
>痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
>伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、
>さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。
>前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。
>岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
>匂当内侍だった高野房子。
>中御門経之の娘で典侍だった良子。 >>464
また否定された文章を出す嘘つきID:DO2rkCJX0よ。
その文はとっくの昔に検討され破棄された。
石井孝も不明を恥じ撤回している。
そして岩倉具視だけでなくその周囲も皇室に接近する状況にない。
尊王攘夷派公家の復権は、王政復古の夜の前、昼に関白二条が決定したことなんだよ。
歴史知らずがでっち上げで粘ったところで、天然痘に依る死だったことに変わりはない。
ウソはやめることだ。 >>462
>証拠なし+天然痘の普通の症状
天然痘の回復期に「御九穴より御脱血」は普通の天然痘の症状じゃない。
だから病死派の原口は紫斑性痘瘡・出血性膿疱性疱瘡を持ち出したんだよ。
>>465
毒殺・病死論争に決着はついていないよ。どちらも物的証拠がない状態。
将来、天皇陵の学術調査ができるようになれば毒殺の証拠が出るだろうね。
現時点で天然痘による病死を断言するなら証拠をどうぞ。 ようこそ徳川パークへ
すごーい!天下取りが得意なフレンズなんだね >>458
日本の近代化、中央集権化は徳川幕府が進めてた既定路線だから、
明治維新がなくとも幕府主導で近代化し日本が植民地化されることはない。
そもそも長州人の松岡洋右がドイツとの三国同盟を結ばなければ、
日米全面戦争は起きず、大空襲も原爆を落とされることもなかったわけで、
薩長による倒幕がその後の日本の敗北の遠因になってる。 >>466
>天然痘の回復期に「御九穴より御脱血」は普通の天然痘の症状じゃない。
これがウソで、一般的な症状だったから例示されている。
>毒殺・病死論争に決着はついていないよ。どちらも物的証拠がない状態。
これもウソで、当時の文献で比定されている。
ちなみに毒薬説は死の状況と全く違っていたので、
「毒薬を飲まされたのだ」→「天然痘の治る直前に飲まされたのだ」と勝手に改変した。
>現時点で天然痘による病死を断言するなら証拠をどうぞ。
証拠がなかったうえに全員撤回済み(死因とかけ離れていた)のウソが毒薬説なのだよ。
ID:WqYbytW80は「ない証拠を出せ」という嘘つきで、このような人間を佐幕とは呼べない。 >>468
幕府の排除した人材が明治新政府で活躍しております。
諸般の統合に旧幕府は失敗し、二度と帰ってこない。
まあ、嘘つきID:WqYbytW80でしょうが、あなたの説はこれまで全てデタラメでした。 佐幕を名乗るにしては,
事実関係が史料とすべて違うID:WqYbytW80=ID:/9QCTImC0
歴史捏造はいけません。 >>469
キミの言ってることは支離滅裂。
>>天然痘の回復期に「御九穴より御脱血」は普通の天然痘の症状じゃない。
>これがウソで、一般的な症状だったから例示されている。
そもそも天然痘に色々種類があることを知ってる?
キミの言う「一般的症例」とはなに?
一般的な天然痘の回復期に「御九穴より御脱血」で急死することはないし、
病死派の原口でさえそんなことは言ってない。
なお「御九穴より御脱血」は急性ヒ素中毒による吐血・下血で説明できる。
>「天然痘の治る直前に飲まされたのだ」と勝手に改変した。
改変もなにも、そもそも毒殺説は疱瘡の回復期に砒素で暗殺されたとする説。
崩御の際に激変した症状が毒殺なのか天然痘なのかが問題なんだよ。
その前段階の天然痘の回復過程は>>461のとおり。
LOBQfBGb0はこの単純な構図が理解できず堂々巡りをくり返してるけどアホすぎる。
ちなみに原口の病死説は「孝明天皇の悪性痘瘡死という予断があって、
史料を極度に歪曲し、予断に合致させるという空しい努力を重ねている」
と石井に批判されてる。 >>472
ID:/9QCTImC0の言ってることは支離滅裂。
>そもそも天然痘に色々種類があることを知ってる?
>キミの言う「一般的症例」とはなに?
>一般的な天然痘の回復期に「御九穴より御脱血」で急死することはないし、
>病死派の原口でさえそんなことは言ってない。
普通に一定割合であることですが?ID:/9QCTImC0は知識がない。
>改変もなにも、そもそも毒殺説は疱瘡の回復期に砒素で暗殺されたとする説。
>崩御の際に激変した症状が毒殺なのか天然痘なのかが問題なんだよ。
>その前段階の天然痘の回復過程は>>461のとおり。
>LOBQfBGb0はこの単純な構図が理解できず堂々巡りをくり返してるけどアホすぎる。
当時の病状が明らかになるまで毒殺説の人は「最初に天然痘にかかって治る時に」なんて言ってなかったんですよ。
病状が天然痘だったので慌てて付け足した、急造説なんです。
>ちなみに原口の病死説は「孝明天皇の悪性痘瘡死という予断があって、
>史料を極度に歪曲し、予断に合致させるという空しい努力を重ねている」
>と石井に批判されてる
これは真っ赤なウソ。指摘を受けて石井は撤回してますから。
ID:/9QCTImC0は嘘に嘘を重ねてどうしたいのやら。嘘つきは佐幕には要らない。 >>473
>普通に一定割合であることですが?
あと数日で全癒の段階なのに、御九穴から血を吹いて突然死する割合は何%?
正確なソースをどうぞ。
>毒殺説の人は「最初に天然痘にかかって治る時に」なんて言ってなかったんですよ。
当たり前だろ。ここで問題になってるのは崩御直前の様態急変をどう説明するか。
その前に疱瘡が快癒に向かってたことは前提条件で誰も否定してない。
キミは知能が低すぎる。
>指摘を受けて石井は撤回してますから。
正確なソースをどうぞ。 薩長が幕府の物知りを上手く使ったから日本は文明国の一員になれた訳だな >>474
おまえ相手の問いに対して答えないで質問投げ返すのは反論とは言わない。
自分の意見を言わずに質問返しても相手の意見を否認したことにはならない。
おまえが論破された状態だけどバカなの? >>474
>あと数日で全癒の段階なのに、御九穴から血を吹いて突然死する割合は何%?
>正確なソースをどうぞ。
症例として記載があるから論議されたのです。ID:/9QCTImC0は答えられずに逃走ですね。
>その前に疱瘡が快癒に向かってたことは前提条件で誰も否定してない。
>キミは知能が低すぎる。
「快癒に向かってたことは前提条件で誰も否定してない」があなたのウソです。孝明天皇のような例がありますからね。
>指摘を受けて石井は撤回してますから。
>正確なソースをどうぞ。
これも文献に記載されていることであり、逆のあなたの文章がどこにも見当たらない。
ID:/9QCTImC0は嘘に嘘を重ねる自称佐幕だが、そんな嘘つきは藤村新一や小林よしのりと変わらない、要らない。 佐幕と名乗る人間の中に、ウソをついて貶めればよいとする人間がいるのは嘆かわしい。
ID:/9QCTImC0はこの世の恥だ。 藤氏長者をそそのかして歴史を江戸まで巻き戻そうと運動するものが居る >>477
>症例として記載があるから論議されたのです。
だからその「症例」とは?
完治寸前の状態から9穴から血を吹いて突然死する一般的な症例が存在するならソースをどうぞ。
>「快癒に向かってたことは前提条件で誰も否定してない」があなたのウソです。孝明天皇のような例がありますからね。
また意味不明な文章。バカなの?
>これも文献に記載されていることであり、
だからその文献は何だよ。
>逆のあなたの文章がどこにも見当たらない。
石井孝「近代史を視る眼」 >>480
言うに事欠いて「何時何分何秒か100桁まで答えろ」に逃げた嘘つき、それがあなたです。
>石井孝「近代史を視る眼」
これは近作じゃないよね。彼の昔の本から引いていたのか。嘘とばれましたな。 ID:/9QCTImC0は論拠まで昔の本だったと暴露、
どうしようもない嘘つきだったと自ら明かした。
これで最終ですね。 >>481
快癒段階なのに9穴から血を吹いて突然死する症例が一般的だと強弁してるから、
その根拠を求めてるだけだよ。
これは一種の背理法でキミが何も答えられないことは最初からわかってる。
病死説を説くならせめて原口の本を読め。
石井が過去の自説を全否定したならそれでもいいけど、
そのソースをぜひ知りたい。教えてくれ。 >>483
>快癒段階なのに9穴から血を吹いて突然死する症例が一般的だと強弁してる
これもあなたのウソ。一般的な症例の中にこのようなものもある。
>これは一種の背理法でキミが何も答えられないことは最初からわかってる。
回答を拒んでいるのはあなたです。既に石井氏まで撤回したことを昔の本で彼の持論のように言ったのだから。
>病死説を説くならせめて原口の本を読め。
読んでますね、そしてあなたが石井氏の本を読んでいない。
ウソの塊毒殺説は、ID:/9QCTImC0の妄想の中にしか既にありません。 >>484
>一般的な症例の中にこのようなものもある。
何の根拠もなく「ある」と断定されても困っちゃうよ。
ちなみに原口は、天皇が患ったのは極めて悪性の疱瘡で、
一般的な疱瘡が快癒してるかのように記載してる史料が間違ってるとの立場だよ。
>既に石井氏まで撤回したことを昔の本で彼の持論のように言ったのだから。
「昔の本」と言うけど、もしかして石井孝の死亡年月を知らないの?
いずれにしろ「昔の本」 を撤回した最新の本を知りたいからソースをどうぞ。 >>486
また繰り返すのもなんだから、石井孝氏の言を一つ載せておこう。
「堀川は当時宮中におらず、暗殺などできない」
ID:/9QCTImC0は論理無視の毒殺説で佐幕派を汚した。
何一つ史実と符合しないではないか。 もう毒殺説は>>486のように史料と逆のことを唱えるのみ。
ウソの塊ID:/9QCTImC0は佐幕派ではない。このような嘘つきはいらない。 堀河紀子は文久3(1863)年に落飾して寺に入り、2度と宮中に戻らなかった。
石井孝氏も指摘する毒殺説の矛盾ですな。
岩倉具視:宮中立ち入り禁止中(解けるのは王政復古の夜の直前の昼)
その他尊王攘夷派公家及び女官:やっぱり立ち入り禁止
堀川も孝明天皇の死の3年前に寺に入ってしまった。
犯人という指弾がことごとく外れたのは当然で、死因は天然痘だったから。
ウソの塊毒殺説とID:/9QCTImC0は世間の笑いものなわけです。 徳川家康のようなのにウットリするようでは、未だ、民草根性から抜け出し
きれてない。それは愛国心ではない。単細胞で愚直な馬鹿でしかない。 >>490
徳川家康は、豊臣からの政権奪い取りは悪辣でしたが、
当時の淀殿の専横を考えると、徳川家康に声望が集まるのは当然です。
豊臣秀頼が成人する時には、既に徳川政権が固まりつつあったし。
ですので徳川家康公は実力以下の評価しか受けていないと思います。
まあ、徳川家光らが日本の発展を阻害し、徳川幕府自体に悪いイメージが付いてしまった。 一般的には信長さんカッコイイ!と褒めながら
家康さん目指してるのが日本の社長 家康は三河政権たる室町幕府中の人ラスボスであり、下克上される側である
猿吉は、三河から逃げて、天下を取ったと思い込むタダの間抜けである
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平 おう、これは行ってみよう!
オネーチャン、興味あるかなぁ〜w クソバカ佐竹をよこしやがった徳川は末代まで恨んでやる >>41
谷中にある徳川慶喜公のお墓はいつ行ってもガラガラ
やっぱ家康公じゃないと有り難味無いのかな 大政奉還をもっと早くにしていれば徳川は存続できた
薩長の裏工作のほうが一日早かった、で賊軍にされてしまった だから存続しているつーの
家格が上級公家と同等になり、現代社会においても君臨している
何回言っても分からん猿共だな
皇族以外だと宮内庁的には徳川恒孝徳川家第18代当主と前田利祐加賀藩主第18代当主が別格なんだろう
http://tamutamu2011.kuronowish.com/yogohoritu5.htm
>平安時代の古装束(そうぞく)に身をまとった読書役の元児玉幸多学習院大学長が日本書記の一説を朗読、
>続いて同じ装束の鳴弦役の徳川恒孝(つねなり)徳川家第18代当主(日本郵船副社長〈61〉)と前田利祐(としやす〈66〉)加賀藩主第18代当主の2人が、
>「おっ」との掛け声をかけながら邪気(悪いもの)を払う呪(まじな)い(破魔)として気合を込めて弓の弦を鳴らす
前田利家は元々は足利一門に仕えていただろう三河武士
加藤清正は、尾張の鍛冶屋のカトちゃんの息子
家康とやらにしてみれば、前田利家は仲間だが、加藤清正は縁もゆかりもない鍛冶屋の息子
これが前田と加藤の処遇の差の裏事情だ
家康が伊賀越えの際、三河に上陸し滞在した寺には前田利家の先祖の墓伝わる鎌倉時代の墓があり、その事情を家康とやらは把握していた
この清浄院の隣の寺には前田利家とやらの伯母さんの墓もあるらしい
清浄院(三河県碧南市)
http://s.webry.info/sp/asitahaharerukana.at.webry.info/201406/article_10.html >>499
いや、徳川慶喜にとっては大政奉還自体が不要であった。
諸藩代表で諸侯会議を開き、諸侯会議の盟主として国家元首になったと宣言すれば済んだのだから。
土佐藩や雄藩の歓心を買おうとして、将軍位を手放して朝廷に置いたから、
薩摩が「なら、朝廷を押さえたら我々が政府じゃん」としたのだ。
「大政奉還には王政復古を制止しようとする意図があった」と一部の人は言うが、正反対であり、大政奉還に乗じて王政復古が起こったのだ。 誰が、東京みたいなガチの核汚染地帯に行くんだよwww 平成の世の中に徳川家の催し事など見て何になる、余程の暇人か好事家しか見に行かんぞ 脱糞した将軍という歴史的に唯一無二ともいえる存在が >>455
日光東照宮の下を掘り返すのは無理なんっだけ? >>455,456,506
無いわ
戊辰戦争で大鳥圭介と旧幕府歩兵は、実際は日光東照宮に入場していない。
宇都宮での敗北後、軍勢を今市で休息させ、
大鳥圭介と数人の幹部のみで東照宮に日帰り参拝して、会津西街道を北上し会津に入った。
これはお話の上では
「板垣退助が日光東照宮が灰燼と帰すのを嫌い、説得したのだ」
「板倉勝静が日光東照宮が灰燼と帰すのを嫌い、説得したのだ」
「秋月登之介が補給地として会津が近いと進言した」
「会津藩と仙台藩が一斉蜂起の戦力として囲い込みを図った」
などとあるが、結論的には日光の僧が受け入れ拒否をしたとなっている。 つまり日光東照宮に行ったのは幹部数人だけだから、東照宮に埋める人員も時間もない。
少なくとも東照宮じゃありえないわけだ。
ちなみに東照宮埋蔵金説は、明治以降延々と語られた結果、講談仕立ての変な由来まで作られてしまった。
その中に出てくる「古来境内で鳴らされていた七つの鈴に財宝の在処が隠された」に沿って、鈴まで登場したのだが
江戸時代の日光東照宮には、お参りの時に正面で鳴らす鈴などない。
当時は仏神混交であったため、木鐸(魚の形をした板)と叩く棒があった。
つまり無いものを後世、詐欺師が宝探し勧誘用にでっち上げたわけだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています