【歴史】『徳川将軍家へようこそ』展、東京・江戸東京博物館で今日(11 日)から開催 [無断転載禁止]©2ch.net
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徳川家に伝わる美術品や絵画を集めた「徳川将軍家へようこそ」展が、東京・墨田区の江戸東京博物館で11日から開かれます。
「徳川将軍家へようこそ」展には、初代将軍の家康から大政奉還した15代将軍の慶喜、その跡を継いだ家達にまつわる品々が展示され、当時の生活様式や文化、美意識の移り変わりを読み取ることができます。
徳川記念財団・徳川家広理事:「(江戸時代は)日本が独自の文明になった時代だと思います。それを支えた人たちにまつわるものですね」
江戸時代後期の絵師・酒井抱一の描いた「武蔵野富士図」は、ススキやリンドウなどを描き込むことで、江戸から見た秋の富士山を表現しています。また、14代将軍の家茂に嫁いだ皇女・和宮の使っていた調度品なども展示されます。この美術展は来月24日まで開かれます。
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引用元にニュース動画もあります
http://news.tv-asahi.co.jp/sphone/news_society/articles/000107504.html >>484
>一般的な症例の中にこのようなものもある。
何の根拠もなく「ある」と断定されても困っちゃうよ。
ちなみに原口は、天皇が患ったのは極めて悪性の疱瘡で、
一般的な疱瘡が快癒してるかのように記載してる史料が間違ってるとの立場だよ。
>既に石井氏まで撤回したことを昔の本で彼の持論のように言ったのだから。
「昔の本」と言うけど、もしかして石井孝の死亡年月を知らないの?
いずれにしろ「昔の本」 を撤回した最新の本を知りたいからソースをどうぞ。 >>486
また繰り返すのもなんだから、石井孝氏の言を一つ載せておこう。
「堀川は当時宮中におらず、暗殺などできない」
ID:/9QCTImC0は論理無視の毒殺説で佐幕派を汚した。
何一つ史実と符合しないではないか。 もう毒殺説は>>486のように史料と逆のことを唱えるのみ。
ウソの塊ID:/9QCTImC0は佐幕派ではない。このような嘘つきはいらない。 堀河紀子は文久3(1863)年に落飾して寺に入り、2度と宮中に戻らなかった。
石井孝氏も指摘する毒殺説の矛盾ですな。
岩倉具視:宮中立ち入り禁止中(解けるのは王政復古の夜の直前の昼)
その他尊王攘夷派公家及び女官:やっぱり立ち入り禁止
堀川も孝明天皇の死の3年前に寺に入ってしまった。
犯人という指弾がことごとく外れたのは当然で、死因は天然痘だったから。
ウソの塊毒殺説とID:/9QCTImC0は世間の笑いものなわけです。 徳川家康のようなのにウットリするようでは、未だ、民草根性から抜け出し
きれてない。それは愛国心ではない。単細胞で愚直な馬鹿でしかない。 >>490
徳川家康は、豊臣からの政権奪い取りは悪辣でしたが、
当時の淀殿の専横を考えると、徳川家康に声望が集まるのは当然です。
豊臣秀頼が成人する時には、既に徳川政権が固まりつつあったし。
ですので徳川家康公は実力以下の評価しか受けていないと思います。
まあ、徳川家光らが日本の発展を阻害し、徳川幕府自体に悪いイメージが付いてしまった。 一般的には信長さんカッコイイ!と褒めながら
家康さん目指してるのが日本の社長 家康は三河政権たる室町幕府中の人ラスボスであり、下克上される側である
猿吉は、三河から逃げて、天下を取ったと思い込むタダの間抜けである
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平 おう、これは行ってみよう!
オネーチャン、興味あるかなぁ〜w クソバカ佐竹をよこしやがった徳川は末代まで恨んでやる >>41
谷中にある徳川慶喜公のお墓はいつ行ってもガラガラ
やっぱ家康公じゃないと有り難味無いのかな 大政奉還をもっと早くにしていれば徳川は存続できた
薩長の裏工作のほうが一日早かった、で賊軍にされてしまった だから存続しているつーの
家格が上級公家と同等になり、現代社会においても君臨している
何回言っても分からん猿共だな
皇族以外だと宮内庁的には徳川恒孝徳川家第18代当主と前田利祐加賀藩主第18代当主が別格なんだろう
http://tamutamu2011.kuronowish.com/yogohoritu5.htm
>平安時代の古装束(そうぞく)に身をまとった読書役の元児玉幸多学習院大学長が日本書記の一説を朗読、
>続いて同じ装束の鳴弦役の徳川恒孝(つねなり)徳川家第18代当主(日本郵船副社長〈61〉)と前田利祐(としやす〈66〉)加賀藩主第18代当主の2人が、
>「おっ」との掛け声をかけながら邪気(悪いもの)を払う呪(まじな)い(破魔)として気合を込めて弓の弦を鳴らす
前田利家は元々は足利一門に仕えていただろう三河武士
加藤清正は、尾張の鍛冶屋のカトちゃんの息子
家康とやらにしてみれば、前田利家は仲間だが、加藤清正は縁もゆかりもない鍛冶屋の息子
これが前田と加藤の処遇の差の裏事情だ
家康が伊賀越えの際、三河に上陸し滞在した寺には前田利家の先祖の墓伝わる鎌倉時代の墓があり、その事情を家康とやらは把握していた
この清浄院の隣の寺には前田利家とやらの伯母さんの墓もあるらしい
清浄院(三河県碧南市)
http://s.webry.info/sp/asitahaharerukana.at.webry.info/201406/article_10.html >>499
いや、徳川慶喜にとっては大政奉還自体が不要であった。
諸藩代表で諸侯会議を開き、諸侯会議の盟主として国家元首になったと宣言すれば済んだのだから。
土佐藩や雄藩の歓心を買おうとして、将軍位を手放して朝廷に置いたから、
薩摩が「なら、朝廷を押さえたら我々が政府じゃん」としたのだ。
「大政奉還には王政復古を制止しようとする意図があった」と一部の人は言うが、正反対であり、大政奉還に乗じて王政復古が起こったのだ。 誰が、東京みたいなガチの核汚染地帯に行くんだよwww 平成の世の中に徳川家の催し事など見て何になる、余程の暇人か好事家しか見に行かんぞ 脱糞した将軍という歴史的に唯一無二ともいえる存在が >>455
日光東照宮の下を掘り返すのは無理なんっだけ? >>455,456,506
無いわ
戊辰戦争で大鳥圭介と旧幕府歩兵は、実際は日光東照宮に入場していない。
宇都宮での敗北後、軍勢を今市で休息させ、
大鳥圭介と数人の幹部のみで東照宮に日帰り参拝して、会津西街道を北上し会津に入った。
これはお話の上では
「板垣退助が日光東照宮が灰燼と帰すのを嫌い、説得したのだ」
「板倉勝静が日光東照宮が灰燼と帰すのを嫌い、説得したのだ」
「秋月登之介が補給地として会津が近いと進言した」
「会津藩と仙台藩が一斉蜂起の戦力として囲い込みを図った」
などとあるが、結論的には日光の僧が受け入れ拒否をしたとなっている。 つまり日光東照宮に行ったのは幹部数人だけだから、東照宮に埋める人員も時間もない。
少なくとも東照宮じゃありえないわけだ。
ちなみに東照宮埋蔵金説は、明治以降延々と語られた結果、講談仕立ての変な由来まで作られてしまった。
その中に出てくる「古来境内で鳴らされていた七つの鈴に財宝の在処が隠された」に沿って、鈴まで登場したのだが
江戸時代の日光東照宮には、お参りの時に正面で鳴らす鈴などない。
当時は仏神混交であったため、木鐸(魚の形をした板)と叩く棒があった。
つまり無いものを後世、詐欺師が宝探し勧誘用にでっち上げたわけだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています