【明治維新150年】なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか 反"薩長史観"本が相次ぎ刊行 ★13 [無断転載禁止]©2ch.net
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最近よく聞かれるようになった「薩長史観」という言葉がある。明治維新を成し遂げた薩摩・長州(薩長)の側からの歴史解釈ということである。要は「勝者が歴史をつくる」ということであり、「薩長=官軍=開明派」「旧幕府=賊軍=守旧派」という単純な図式で色分けされた歴史観だといわれる。明治以来、政府の歴史教育はこの薩長史観に基づいて行われ、国民の「通史」を形作ってきた。
ところが、ここにきて、この薩長史観に異議を申し立て、旧幕府側にこそ正義があったとする書籍が相次いで刊行されている。原田伊織著『明治維新という過ち』を皮切りに、『三流の維新 一流の江戸』『明治維新という幻想』『明治維新という名の洗脳』『大西郷という虚像』『もう一つの幕末史』『明治維新の正体』といった書籍がさまざまな著者により刊行され、ベストセラーになっているものも多い。雑誌でも『SAPIO』(小学館)9月号が「明治維新 150年の過ち」という大特集を組んでいる。
来年の「明治維新150年」を前に、反「薩長史観」本がブームになっているわけだが、そもそもこの「薩長史観」とは何なのか。なぜここに来てブームになっているのか。このたび『薩長史観の正体』を刊行した武田鏡村氏に解説していただいた。
■「薩長史観」により偽装された幕末維新史
薩長史観――明治維新から太平洋戦争の敗戦まで日本人の心を支配し続けてきた歴史観のことである。それは、薩摩と長州が中心となって成しとげた明治維新は、頑迷な徳川幕府を打ち破って文明開化をもたらし、富国強兵によって世界に伍する国家を創り上げた、とするものである。
だが、薩長史観は明治新政府がその成立を正当化するために創り上げた、偽装された歴史観であることは、意外に知られていない。
それは、薩摩や長州が幕末から明治維新にかけて行った策謀・謀反・暴虐・殺戮・強奪・強姦など、ありとあらゆる犯罪行為を隠蔽するために創られた欺瞞に満ちた歴史観である。
(続きは 東洋経済オンライン で)
https://news.nifty.com/article/magazine/12208-20170908-187322/
2017年09月08日 13時35分
https://i.imgur.com/YaJJqxw.jpg
敗者となった会津藩をはじめとする「旧幕府側」からの、「もう一つの幕末維新史」とは?(写真は会津若松城:shira / PIXTA)
★1が立った日時 2017/09/08(金) 20:09:53
※前スレ
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1504998303/ >>34
幕末歴史ヲタが知識をひけらかし、それに朝鮮キチガイが絡んでるからw 徳川幕府の功績:
日本を開国させる
近代化を進める
公武合体による平和的な近代国家への移行を模索
横須賀製鉄所造船所を建設
樺太を守り抜く
明治政府の功績:
廃仏毀釈・廃城令でお寺、文化財、お城を徹底的に破壊
江戸市民文化を全否定し文化遺産を消失させる
華族士族という特権階級をつくる
鹿鳴館で外国人に媚びまくる
日本史上最悪の不平等条約を結ぶ
樺太を二束三文でロシアに売り渡す
日本の富を朝鮮にばらまく
日本を朝鮮人だらけにする 攘夷攘夷言って政権強奪したら即開国して文明開化の音がするって何の冗談なのよw 松蔭は清朝を倒して大アジアに雄飛するという妄想に支配されてたからね
その悪夢は70年ぐらいで現実になり国民全員が餓死しかけたのだからワロえない >>49
多分イギリスの代わりに対外戦争はしてない。 >>49
日本を植民地化しようとした列強はないよ
局地の租借はあり得たかもしれないけど 帰化人一族である岸家の真実とは?
岸家と佐藤家にまつわる余談の挿話だが、「郷里田布施の選挙戦のとき佐藤派はなんとかして岸信介にケチをつけたいと頭をひねった。
思いついたのが、土地に古くから言い伝えられていた“ガン”の故事である。もともと岸家は悪代官の家系ではないかとだれかが言い始めた。
というのは、毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人
であったという。
周防長門を手中におさめた毛利公は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。
ところがこれが悪代官で、年貢はきびしく取り立てるし、女を囲う、金を貯める。
このガンの子孫こそ、ほかならぬ“岸(がん)”ではないか、というのであった。選挙戦となると、佐藤陣営はこの昔話を“岸家”にこじつけて“岸信介は悪代官の子孫だ!”と、喚きたてた。
龍太郎も最初のうちは、そうだ、そうだ、と同調していたが、しだいに照れくさくなって言わなくなった。
…考えてみると信介が岸家に養子にいったのは事実だがそれ以前に信介栄作の父佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来た男である。
栄作にも、そして龍太郎にも岸家の血が流れている。悪代官の子孫だ、と佐藤派の者が叫ぶたびにヘンな気がしてきたという。天にツバするとはこのことか。
岸家と佐藤家は、異なるようで同じく、同じようで違う。両者“悪代官”の果てかどうかは定かでないが、
この挿話は両家の関係をよくあらわしている」[110]という。
引用 110] ^岩川隆 1984, pp. 58-59.忍魁・佐藤栄作研究 (徳間文庫) てか、薩長史観なんて呼ぶ程、西南雄藩の主張ばかりでは無いと思うけど
それこそ、旧幕府、史談会速記録、京都守護職始末、会津戊辰戦史、戊辰庄内戦争録等々、佐幕派から見た幕末戊辰の史料や資料は明治初期から第2次世界大戦までの間に色々と出ているのに 長州の乃木希典も帰化人。
乃木家が朝鮮人とする下関市立長府博物館所蔵「藩中略譜」(文政年間作成)と添田仁『壬辰・丁酉倭乱における朝鮮人被虜の末裔――乃木希典の由緒』(神戸大学大学院人文学研究科海港都市研究センター『海港都市研究』一号 二〇〇六年三月)を読め!
「但馬國某ノ村ニ乃木谷ト称スルアリ、朝鮮国ノ人、豐太閤ニ従フテ帰化スルモノ古田織部ノ管護スル所トナリテ乃木谷ニ居リ、其土人ニ通シテ一男子ヲ得タリ、其子長シテ自ラ佐々木三太夫源冬純卜称ス(或ハ云、母ノ家ヲ佐々木ト称ス)
冬純金山豊春ノ女ヲ娶リ一子ヲ得タリ、醫ヲ学ヒテ佐々木瑞昌ト称ス、瑞昌当藩ニ仕フ、乃木傳庵ト改ム、傳庵男子無シ、宗對馬守ノ臣打它壽庵ノ子瑞心ヲ養フテ聟ト為ス、母ハ加島権八ノ女ナリ、
(對馬藩)瑞心二子アリ、兄ハ道伯、弟ハ隨陽、道伯ハ重就公ニ従フテ萩ニ入ル、隨陽匡敬公ノ小性ニ召出サル、新右衛門ト改称ス、以テ瑞心ノ家ヲ此藩ニ存ス、後チ故アリ断絶ス、
更ニ松平豊後守ノ藩医烏山松周ノ子ヲ以テ道伯ノ嗣ト為ス、是ヲ壽伯庸貞ト称ス、壽伯死シテ嗣子無シ、藩人宗岡慶隆ト称スル者江戸ニ在リ、以テ壽伯ノ嗣ト為ス、是ヲ乃木隆伯ト称ス、
隆伯三子アリ、第一文國病アリテ家ヲ續カス、第二栄次郎国嶋傳右衛門ノ養子ト為ル、第三龍玄(或ハ隆玄ニ作ル)家ヲ続ク、子無シ、乃木次郎左衛門希健ノ三男希幸ヲ萩ヨリ迎へ以テ嗣トナス、因テ医業ヲ免ス、惣吉ト称ス、又子無シ、
其弟喜十郎希吉ヲ以テ嗣子ト為ス(希幸ノ母内藤備後守ノ臣嶌田松秀女ナリ、希吉ノ母ハ大久保安藝守ノ臣野村才右エ門利久ノ女ナリ)、
希吉ノ子希次源太郎ト称ス、母ハ隆玄ノ女ナリ、希次家ヲ嗣クニ及ハスシテ死ス、希吉射ヲ善クス、弓馬ノ事ニ於テ悉ク其故實ヲ窮メ蘊奥ニ至ラサル莫シ、元義公ヨリ仕入テ四世ニ至ル、
其間亦清末侯ニ傳タリ、後妻ノ子三男アリ、第一(後闕) 」 >>40
朝鮮支配が復活っていうか
明治から連綿と続いてるよ 明治時代の首脳陣が朝鮮帰化人なんて証拠はない
必死に日本の輝かしい歴史を否定する反日どもよ >>63
清和会支配だな。
清和会の事務局はずっと李王家邸だったなw >>49
日本が植民地になる危機があるとすれば、それは日露戦争だよ。
日本は戦費がないので主要港湾の徴税権を担保に差し出し、
英米から巨額の借金をしてロシアと戦った。
辛勝できたからよかったものの、万が一負けてたら、
日本は英米露の植民地になってたはず。
日露戦争の戦争目的は朝鮮と朝鮮人をロシアから守るためなんだけど、
日本が国家破滅の危険を冒してまで朝鮮を守る必要性がある?
明治政府の中枢が汚鮮されてなければ、常識的にありえない選択だった。 >>64
明確なのは開戦時の外務大臣の東郷重徳。
もとは朴重徳。 >>66
正しい。
いま、集団的自衛権で同じことしようとしてる。 >>64
朝鮮キチガイの脳内には「朝鮮」の二文字しかない
それ以外の思考はできないという、器質的欠陥があるんだw
薩長はチョン
会津もチョン
朝廷もチョン
幕府もチョン
もう、日本じゃなくて「東朝鮮」に改名する運動でも起こせばいいのにw >>64
高杉晋作や奇兵隊の顔写真をよく見ろよ。
日本人じゃないことは一目瞭然だよ。 >>66
脳内ソースじゃなくて、史料、文献で説明してみろよ、キチガイw 帰化人一族である岸家の真実とは?
岸家と佐藤家にまつわる余談の挿話だが、「郷里田布施の選挙戦のとき佐藤派はなんとかして岸信介にケチをつけたいと頭をひねった。
思いついたのが、土地に古くから言い伝えられていた“ガン”の故事である。もともと岸家は悪代官の家系ではないかとだれかが言い始めた。
というのは、毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人
であったという。
周防長門を手中におさめた毛利公は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。
ところがこれが悪代官で、年貢はきびしく取り立てるし、女を囲う、金を貯める。
このガンの子孫こそ、ほかならぬ“岸(がん)”ではないか、というのであった。選挙戦となると、佐藤陣営はこの昔話を“岸家”にこじつけて“岸信介は悪代官の子孫だ!”と、喚きたてた。
龍太郎も最初のうちは、
そうだ、そうだ、と同調していたが、しだいに照れくさくなって言わなくなった。
…考えてみると信介が岸家に養子にいったのは事実だがそれ以前に信介栄作の父佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来た男である。
栄作にも、そして龍太郎にも岸家の血が流れている。悪代官の子孫だ、と佐藤派の者が叫ぶたびにヘンな気がしてきたという。天にツバするとはこのことか。
岸家と佐藤家は、異なるようで同じく、同じようで違う。両者“悪代官”の果てかどうかは定かでないが、
この挿話は両家の関係をよくあらわしている」[110]という。
引用 110] ^ 岩川隆 1984, pp. 58-59.忍魁・佐藤栄作研究 (徳間文庫) >>71
これは意見だからソースは不用。
バカにはわからないだけ。 >>3
>>1の結論部分が反日のアベガーのチョンが書いたものだからそもそもフィクションだがそろそろそこを考えた方が良い。本気で信じてるオッサンが多い 薩長が作った旧体制に戻したいって連中は天皇の権威を笠に来て
為政者に文句を言わせない社会を作りたいんだな
軍人が威張る社会というか >>70
耳糞がドライで、一重瞼、鋏状咬合なら、お前も帰化人だよ、バーカw 薩摩長州帰化人支配は小泉、安倍に続いている。あるブログから引用。
ソースは証言だから仮説として後は調べて欲しい。
伏「僕がずっと前から気になっていたことで、ネットにも色々な情報が流れてるんだけど、前の総理大臣の小泉純一郎の実父の鹿児島出身の小泉純也、
旧姓、★鮫島純也★は朝鮮人だって噂があるんだけど、何か聞いてる?。」
東「そうだよ。鮫島純也は加世田の朝鮮部落の出身者で、純粋の朝鮮人だよ。ついでに言えば、鮫島っていう姓は嘘っぱちで、自分で勝手に名乗っているだけだよ。
本当の姓は、はっきり覚えてないけど、朴だったけかな〜金だったけかな〜忘れちまった(笑)、どっちみち朝鮮人は姓の数が少ないからな〜ほら、
よく日本人で海外で詐欺師を働く奴が、近衛や、有栖川とか名のったりするだろう、あの類よ(笑)」
彼は、あっさりと、小泉純也朝鮮人説を肯定した。
いささか、拍子抜けした。
伏「有難う。疑問が氷解したよ。」
東「なに、地元では公然の秘密さ(笑)小泉が総理になってからは、タブー化しつつあるけどね。」
伏「と言うことは、純也は在日朝鮮人なの?」
東「いわゆる、「在日朝鮮人」とは違う。公式記録によると小泉純也は1904年生まれだ。丁度日露戦争が勃発した年だよ。
「在日朝鮮人」とは、1910年の日韓併合後、大日本帝国の臣民となり、日本本土に移住してきた半島出身者で、1945年の日本敗戦で、大日本帝国が消滅した時に、日本国籍を失った人たちだよ。」
伏「よくわかりにくいけど、もっと詳しく説明してくれないか。」
東「小泉純也・・・ややこしいな、取りあえず朴純也としておこう。朴純也が生まれ育った、鹿児島、加世田の朝鮮人部落と言うのは、
日本でも珍しい独特の歴史があるんだ。これは、薩摩藩島津家の公式記録である「島津家文書」にもちゃんと記載されている事実なんだけれども・・・」
伏「どういうこと?」
東「発祥は、豊臣秀吉の時代、安土桃山時代に遡るんだ。秀吉の朝鮮征伐の時に、薩摩藩主の島津義弘、僕たちは維新公と言って親しんでいるんだけど、朝鮮に出征して、1598年に休戦帰国する時に、多数の朝鮮人捕虜を連行して薩摩に帰国したんだ。
その中には李氏朝鮮で武士階級(引用注:朝鮮では正確には武官でしかない)だったもの、職人だったもの、単なる荷駄の運搬に使った労務者もいる。連れ帰った捕虜の中には、手に素晴らしい技術を持つ者がいた。
彼らが後世に伝えたものが、“薩摩焼き”だ。産物に乏しい薩摩藩は、陶芸技術を持つ朝鮮人は、苗代川と言う所に集めて、集落を作らせ、薩摩焼の生産に専念させた。
薩摩焼は、薩摩藩が藩外に輸出して、貨幣を稼ぐ貴重な生産品だったので、藩は彼らを手厚く保護して、集落内は広範な自治を認めたんだよ。
藩から優遇されプライドも保たれた、彼らは朝鮮人であることを隠さなかった。収入も良く、生活ぶりも豊かな彼らは、
明治維新後は、薩摩士族の株を買って、士族になるものもあらわれた。
その有名な例が、東条内閣で外務大臣を務めた東郷茂徳さんだよ。」 >>66
同意。そもそも朝鮮進出あたりから日本を戦争というバクチの担保にしている欧米の思惑があったんじゃないんかな 天ちゃんがイカサマ
それをでっち上げたのが薩長だからや あんまり詳しくないんだけど、一つ不思議なのは、なんで倒幕運動に動いたのが薩長の二藩だったのかってこと。
薩摩なんて西の端っこでしょ。
司馬遼太郎の小説だと清河八郎が遊説したからだとか書いてあったけど。
歴史研究してる学生の友達によると攘夷思想などが薩摩に伝わった経緯は実はよく分かってないと言ってたな。 >>34
まあ色々なことの結節点になってるからじゃねえの?
戦前の日本って言うほど極悪じゃなくね?っていう認識が
だいぶ浸透したし、それを根底からひっくり返したい思惑はありそう。 >>81
焼き物で帰化朝鮮人がいたから。
薩長土肥。
薩摩焼、萩焼、有田焼、土佐焼。 有田焼の誕生は17世紀始めのことです。
豊臣秀吉時代頃、戦乱に明け暮れた武将たちの間で茶の湯が流行っていました。茶の湯の指導的茶人であった千利休はわびさびの茶に導き、
高麗茶碗を珍重していました。秀吉は、そんな高麗茶碗を作り出していた朝鮮半島へとても関心を深めていたようです。
秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀藩主の鍋島直茂は朝鮮の撤退時に何千という朝鮮陶工たちを日本に連れて帰りました。
そうした陶工の中の一人に、李参平(りさんぺい)がいました。和名を金ヶ江三兵衛(かねがえさんべえ)と呼びました。
李参平は、最初のうちは佐賀の多久にて陶器を焼いていましたが、なかなか納得のいくものが出来ず、良質の原料、
すなわち磁器を作るための陶石を見つけるために、旅に出ます。
http://aritayaki.jp/aritayaki/history.html 薩摩の帰化人沈寿官のはなし
慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈 当吉はいた。
沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、その一族は李朝四代世宗大王の昭憲王后を始め、領議政(国務総理)九人、左議政、右議政(副総理)、四人等を出した名門である。
薩摩の勇将島津義弘によって連行された朝鮮人技術者達(製陶、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等)は、見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で、祖国を偲びながら、その技術を活きる糧として生きていかねばならなかった。
陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したのである。それらの焼物は、薩摩産出の土を用い、薩摩土着の人々の暮らしのために作られた地産地消のものであり、それらを『国焼』(くにやき)と呼ぶ。
江戸時代、薩摩藩主であった島津家は朝鮮人技術者達を手厚くもてなし、士分を与え、門を構え、塀をめぐらす事を許すかわりに、その姓を変えることを禁じ、
また言葉や習俗も朝鮮のそれを維持する様に命じる独特の統治システムを創った。
沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人としての家系をたどり三代 陶一は藩主より陶一の名を賜わり、幕末期には天才 十二代 壽官を
輩出した。
http://www.chin-jukan.co.jp/history.html 昔『長州力』っていう朝鮮人のプロレスラーが居てだな・・・・ まだやってんのかwwwwwwwww
どんだけ印象操作したいんだよ
反日プロパガンダはwwwwwwwwwwww
思いつき、嘘で書き込みして
史料文献出せって言われたら
話そらしたり逃げたりするクセにwwwwww
日本第一の桜井さんもラジオで
150年前の事で恨む奴は日本人として
認めないって言ってたけど
まったくもってそうだよなwwwwww
おまえら反日プロパガンダは日本人じゃないわwww ヨーロッパなんてのは、千年以上騎馬民族やイスラムと戦ってきたんだから
世の中が綺麗事じゃないことぐらい分かってんだよ
そして、それと同じくらい綺麗事の大事さも分かっているそれがキリスト教
中国はアヘン戦争と植民地化で目覚めた
世の中はやる前にやらなければ負けることに
共産党の動きはこれで分かる
朝鮮半島も隣に中国、モンゴル、ロシアがいたから綺麗事じゃないことくらい分かっている
日本の場合、地政学的な幸運と何とかなってしまった歴史のため一番分かっていない >>18
しつこいし見えないよ?
毎度毎度なんだよ荒らし? >>87
おまえじゃなく、世間つまりROM専が判断するよw >>29
★1から言い続けてるけどチョンの中でしか流行らない>反町 後に萩藩の開祖となる毛利輝元もまた、秀吉から茶の湯に親しむことを許され千利休や古田織部とも交遊があった大名で、
文禄慶長の役の際に朝鮮の陶工李勺光を、のちに弟の李敬も招きました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ領土を削られた輝元は、安芸の広島から長州の萩へ移ることになります。
輝元にお預けの身となっていた李兄弟もこれに従って萩へ移り、萩の松本村に藩の御用窯を開いたのが萩焼の始まりです。
http://www.hagiyaki-kaikan.com/hagiyaki/index.html >>90
いいのかなあ?
そういう詭弁使っちゃって >>59
実績で言ってもしょうがないだろう
意思の統一が出来なければ他のアジアの国と同じ運命をたどった可能性が高い >>66
ロシアが南下すればイギリスとか中国に権益持ってるお歴々が困るから。
閔妃が親露政策をしてるし。
日本にしても釜山にロシアの艦隊がずらりって事にはしたくないしな。 >>81
>なんで倒幕運動に動いたのが薩長の二藩だったのか
薩長は密貿易で荒稼ぎしてたんだよ。
ところが幕府が開国し各地の港湾で自由貿易が開始されると、
薩長の密貿易利権が消えてしまう。
そのため攘夷を叫んで開国・近代化政策に敵対することになる。
さらに馬関戦争、薩英戦争で欧米にボロ負けしてからは、
割拠を唱え、日本から分離独立し藩単位で英米の庇護下に入ろうとしてる。
結局、藩の利益しか眼中にない売国奴なんだよ。 >>97
反論すること出来ないんだよ。
ずっとそれだけ。 >>90
選挙でるたびに得票1%で供託金没収
支持も伸びずに先鋭化、山岳にこもってゲリラ活動するんじゃないか?
といわれてる桜井(通名)センセのことですか? 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想、広告代理店
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
■TweetTV JPの老夫婦…共産党支持者
■瑞穂の国から出ておいで管理人…社民党支持者
■高橋美智子←星亮一主催の戊辰戦争研究会事務局
2ちゃんねるの削除板で大暴れ
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長 >>31
その人はスレ唯一の日本人だな。質問にちゃんと返せるのその人のみ。あとは同じコピペを無言で貼ってるだけ >>103
その書き込みでおまえがパヨクだと分かるねwwwwww まーた 知識自慢スレになるのか
なぜ現代で薩長史観が叩かれるのか本質には触れないし 大正時代から会津プロパガンダを掲げ、反日プロパガンダのように
鹿児島、山口など様々な地域を中傷し陥れ、日本史を改ざんしてる
福島県会津地方で毎年行われている日本唯一の怨念祭です。
>突いた刀を力づくで抜くと
>まだ突然の突きに放心状態で立ち尽くす
>長州人の背中をやおら左足で蹴り飛ばす!
>「馬鹿め薩長!wwwww」
http://blogs.yahoo.co.jp/kulika_naga/50698473.html
会津プロパガンダ、会津被害者商法、会津事大主義
会津商魂、会津恨文化、日本唯一恨文化繁栄地域
日本唯一怨念地場産業地域、会津WGIPは日本に要らない! >>81
倒幕佐幕はどの藩でもあった
動き出したのがその2藩ということ
始まったら次々参加する藩が増えていった >>104
八幡和郎は滋賀作、原田伊織も滋賀作、松居一代も滋賀作
井伊直弼は近江生まれの近江育ち
キチガイの産地ということでよろしいか?
戦国の井伊家
甲州・上州・信州の武田遺臣と、三州の強兵を合体させた徳川家最強の赤備え軍団。
幕末の井伊家
上方の華美な風土に染まり軟弱化、諸藩から弱兵と侮られてしまう。
あまりの弱さに『(討ち取られていく様子を)遊猟』と揶揄された彦根藩 明治維新の所為で日本が戦争始めて原爆落とされたというのが
国賊会津エタヒニンの主張
もし明治維新がなければ全アジアは植民地化され今も
欧米の奴隷状態だっただろうwww
寝惚けんなよ史実を曲げるシナチョン在日www >>40
日韓トンネルはむしろ推進者は韓国人ばかり マイノリティによる間接支配は白人の統治ノウハウ。
イギリスはイラクで少数派だったスンニ派のハーシム家を担ぎ出し、支配権を確立。1932年にイラク王国として独立させた。
目を付けたのは地下に眠る油田の権益だった。
フランスはシリアで、差別的な扱いを受けていたアラウィー派(シーア派系)を取り込み、多数派であるスンニ派を支配した。
宗派対立を巧みに利用する植民地統治は、アラウィー派を継承するアサド政権下で
起こる凄惨な内戦の原因にもなった。 >>47
会津は薩長から酷い目にあったからね。女はレイプされて子供たちも殺された。
せっかく勝海舟たちの尽力で無血革命なしとげたのに明治政府はブラッディーな禍根を
残したわけだよな。後の陸軍幼年学校出身者にも悪影響は残したと思うぞ。 >>116
安倍も新幹線をトルコまで通すと言ってトンネル支援してる。 >>118
パヨクのおまえが気にする必要はないよねwwwwww >>81
キリシタンとつるんだのがそいつらだからや >>47
なりすましチョンでしたw
自称福島人の不思議な自己紹介笑→
>ちなみに俺は横浜だが先祖は福島とアメリカな。
>中通り
家系図では祖父が第16代当主←(?)
>薩長は女子供を犯し、殺し、野ざらしにしたけどね
間違いなくなりすまし >>116
麻生の先祖は大久保利通なんだけど韓国人扱いしていいの? 会津藩の搾取略奪に苦しんでいた越後の民衆もまた
かつての越後の支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。それにひき比べ
会津は異形はなはだしいゆえか、衆人不服で負け戦の話をきくと
婦女子までがよろこんだ」
(新津市史通史編下巻)
ううっ、会津プロパガンダで美化してる分
カッコ悪いったらありゃしない…(´;ω;`) はいはい解ったから 詳しいねー詳し過ぎるねぇwwwww
知識自慢よりも何で今、薩長史観が持ち上げられるのか?でしょ
日本会議が原因と見てるが 賊軍の東北閥が昭和の日本軍を支配し、無謀な戦争へ引きずり込んだ
■陸軍
板垣征四郎(岩手・盛岡藩)陸軍大臣
東條英機(岩手・盛岡藩)総理大臣・陸軍大臣・参謀総長
畑 俊六(福島・会津藩)陸軍大臣
小磯國昭(山形・新庄藩)総理大臣
石原莞爾(山形・庄内藩)
■海軍
米内光政(岩手・盛岡藩)総理大臣・連合艦隊司令長官・海軍大臣
及川古志郎(岩手・盛岡藩)海軍大臣・軍令部総長
山本五十六(新潟・長岡藩)連合艦隊司令長官
南雲忠一(山形・米沢藩)
嶋田繁太郎(東京・幕臣)海軍大臣・軍令部総長
井上成美(宮城・仙台藩)
おかげで日本は未だに戦後 (´・ω・`) 朝鮮併合までの日本政府の政策は間違っていないと思う。
問題は、満州事変からが明治維新の以降の欺瞞が出てきて、日本を破滅的敗戦に導く。 禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』 >>50
チョンのなりすましですw
自称福島人の不思議な自己紹介笑→
>ちなみに俺は横浜だが先祖は福島とアメリカな。
>中通り
家系図では祖父が第16代当主←(?)
>薩長は女子供を犯し、殺し、野ざらしにしたけどね
酷いなりすましの例 >>89
この糞差別主義者のゲストンキンが。
地震か津波か、核で焼かれて死ねや 寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
会津人による長州人虐殺… 誤解してる人が多いみたいだけど、
>>1で紹介されてる原田伊織は会津じゃなくて彦根人だからね。
井伊大老の功績を調べていけば、どうしても反「薩長史観」になるんだよ。 会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?
唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。
奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。 動物学的に見ると純血よりも、混血の方が優秀で強いんだけどな 会津は「今に会津が江戸になる」と謳い…
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。
西郷は正しかった >>55
・10人位でループ・1のソースは朝鮮人・コピペ工作 白虎隊のことを再確認するためにも、まず白虎隊記念館に立ち寄る。
館内には、史料1万2千点が所狭しと展示されている (有料)。
「会津藩は勤皇なり」の意味も理解できよう。
第2次世界大戦で、奈良と京都と共に、なぜ会津への空爆を
アメリカ軍が避けたのかも納得できるであろう。
http://www.aizue.net/index.html
これ米軍に確認とってるの?
史料があるから避けたんだってて脳内解決だろ(笑)
会津プロパガンダ洗脳者とか制作者って
何で脳内解決しかしないの?
あとさ、会津も新潟爆撃で余った爆撃
落とされてなかったか? >>6,15,1
遂に韓国併合を反省するウヨ誕生w >>35
藩を潰すのはまあわかるけど
旧国名まで変えるあったのかな
人口多い国ならたとえば北武南武東武とかでもいいけど 明保野亭事件の真相を示す貴重な資料
明保野亭で会津藩士が誤って土佐藩士・麻田時太郎を刺した事件がある
不思議な事件で、刺した会津藩士も刺された麻田も切腹した
刺された麻田の切腹理由は、逃げようとして腰の辺りを刺されたため
もう駄目だということで切腹、と伝わっている しかし、今回見つかった
切腹前の供述書では、再三名前を名乗ったとあるが真実ならば
明らかに会津藩士に非があることになる。
そして、他の土佐藩士にこのことが知られると
会津藩ともめる可能性があるため、切腹させたというのが真相と考えられる。
http://www.ryoma-kinenkan.jp/see/kyoto-tosa/
会津側では件の会津藩士が責任感を感じて切腹と
美談気味に伝えられてたが、これを見ると会津の嘘吐きはデフォだったらしい。 >>122
いやいや、お前は気にしてやれよw
おれはいいからさw 家永三郎《日本の歴史4・明治維新》
>若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、
>いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、
>11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、
>政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、
>『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を
>平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを
>要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、
>村役人を新しく選挙した。」
会津農民や領民は会津藩を見放したのである。領民たちは会津武士の死骸から衣服や金目のものを
剥ぎ取って売り、藩士の死体収容すら拒否したのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています