<明智光秀>反信長派への密書の原本発見 本能寺の変直後、室町幕府再興を目指していた★6 [無断転載禁止]©2ch.net
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9/12(火) 3:00配信
<明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ
本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】
藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。
鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。
書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。
書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っていたが、原本は縦11.4センチ、横56.8センチで、細かな折り目がついていた。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられる。
本能寺の変の動機では、2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書などから、光秀と懇意で信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こした「四国説」も浮上している。
光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされる。藤田教授は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。
光秀は書状の日付の翌日、備中高松城(岡山市)から引き返した羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃げる際に命を落とした。
◇発見された書状の現代語訳
◆本文
仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。
一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。
一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。
一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。
◆追伸=書状では冒頭にあり
なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。委細につきましては(私からは)申し上げられません。
訳・藤田教授
【ことば】本能寺の変
天正10(1582)年6月2日、京都の本能寺に宿泊中の織田信長が謀反した明智光秀に襲われ自害した。信長は羽柴秀吉の毛利攻め救援で出陣する途中だった。秀吉は急きょ引き返し、京都・大阪府境で起きた山崎の戦いで光秀を破った。光秀の動機は信長の隙(すき)に乗じ天下を狙った「単独謀反説」や「怨恨(えんこん)説」など諸説ある。
1が建った
時刻:2017/09/12(火) 03:23:37.93
前スレ
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505229291/ 織田天下でも最終的には徳川とあまり変わらない体制下で
進んでいく道程になってた可能性は高いわな。
信忠は堅実路線にいきそうだし。 信長は本能寺がなかったら毛利に討たれてる。
たぶん。 >>162
秀吉は後継者が幼かったので勝っていたのに退却に追い込まれたけど、
信長の場合はそのまま唐入りが続くからそのまま明征服するので問題ないよ。
南蛮貿易といっても実際は火薬や鉛の材料を中国や東南アジアと交換しているだけなので、
別に南蛮なんて排除して直接支配してしまえばいいだけだし。 信長生きてたら朝鮮は無くなってたな
流石に明やインドは無理だろうが
今の北のミサイルも無いのになぁ おまえらまだやっとんたんか。
歴史に無知なようだから教えてやるわ。
信長公は本能寺ではしんでないで!
地面から剣無数に出せるし禍々しい黒いオーラ剣から放出しよるからな。
足軽雑兵が束になっても勝てへんで。 >>131
緒形直人の信長で
いちいち世話を焼くと
女っぽく弱弱しくなるから
奇妙と茶筅が喧嘩しても
放っておけとか指示出してる場面があったな
刃物を持ちだしたら叩いてでも止めよとか
教育パパ的な信長って新鮮だった >>170
あのドラマはあまり評判は良く無かったけど
俺は好きだったな
最後の方は緒方演じる信長も中々貫禄が出てきて
良かったし
個人的には緒方の信長と的場浩司演じる池田恒興が
廊下がキチンと磨かれてるか2人して床に顔付けて
調べてるシーンが良かったな 光秀なんて人望ないだろうしなぁ
謀反起こしても天下取れなくて当然な気が >>167
その代わりおれらの顔もエラ張ってたかもしれんぜ?
>>168
無双厨おつw >>58
明智一家は悲惨だよな
嫁の照子に先立たれるし光秀も山崎の戦い後に殺されるしさ
それに残った玉も最後には人質拒否で殺されるし >>165
あの飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長が毛利ごときに負けるとは思わんが 『本能寺の変 431年目の真実』 明智憲三郎
『惟任(これとう)退治記』とは、本能寺の変からわずか四ヵ月後の天正十年(一五八二)十月に羽柴秀吉が召し抱えていた御伽衆の大村由己(ゆうこ)に書かせた二十頁程度の短い書物で、
本能寺の変の発端から結末までをコンパクトに描いた、いわば事件報告書だ。
御伽衆とは主君の話し相手を務める側近のことだが由己は文筆の才を買われて、現代の広報官のような役割を務めていたのである。
「惟任」とは光秀が朝廷から賜った名字で、それを退治したという題名が示すとおり、光秀を山崎の合戦で滅ぼした秀吉の宣伝書である。
この書が事件後、最も早く世に出た本能寺の変の願末記であり、秀吉による本能寺の変の公式発表だった。
この書で秀吉は、本能寺の変は光秀の単独犯行であったこと、謀反の動機は個人的怨みによること、そして光秀は天下取りの野望を抱いていたことを公式化した。
秀吉は『惟任退治記』を使って徹底した世の中の常識づくりをしたのだ。
一つはっきりしていることは、秀吉という人物は伝わっているイメージとは違い、
信長の忠実な家臣でも、信長を慕っていたわけでもないということだ。
『惟任退治記』を読み通して気付くことは、信長を崇め奉るような記述が一切ないことだ。
それどころか、信長に可愛がられたと伝えられている秀吉の印象からはほど遠いものがある。
書の冒頭の安土城での信長の栄華についての記述の中では、信長は夜な夜な美女と楽しみに耽っていたと書かれている。
最期の本能寺の夜も、信長は同様の振る舞いで、さらに襲撃を受け自分の死を前にしては、
信長はその女性たちを「ことごとく刺し殺した」とまで書かれている。
一方、太田牛一の『信長公記』には信長が「女はくるしからず、急ぎ罷(まか)り出(い)でよ」
と言って、女性たちを逃したと書かれている。
牛一はこのことを本能寺から逃れ出た女性本人から取材して書いているので間違いない。
信長は自分の死に直面しても他人を思いやる心の持ち主だったのだ。
ところが、秀吉は明らかに一つの意図のもとに粉飾した。
信長は淫乱で残忍な人間だったと。 そりゃ建前でもそんな事言わなけりゃ誰もついてこないもんな 明智なんとかさんの妄想をそのまま信じる素朴な人が多くて困る 仮に信長存命の未来でもいずれ信長はバテレンと対立し虐殺、怒った本国と戦争になるか断交してると思うがー
そもそもこの時期のスペイン、ポルトガルは、地球分割(布教と領土の両方)の競争で極東に来てるので、
布教、貿易、侵略が完全に一体化してる
信長には知性があると、極めて仲よしのイエズス会のフロイスは褒めてるが
その信長が邪悪なポルトガルの意図に気づかないはずがなく
本能寺の変がなければフロイスだってどんな迫害を受けたか分かったものではない
ちなみにフロイスの日本史は本能寺の変の翌年頃から一気に執筆されたもので
当時の布教の歴史と大名や戦争の詳細を描くが、
おそらくはローマに対して、地球分割条約に関係する東アジア布教の権利の正当性を証明する目的であろう
これは裏を返せば領土獲得の権利の主張でもある 慌てて作った後付けの理由のような気もするが、
一つの裏切り理由の証拠にはなったな。
室町幕府の再興って無理ゲーすぎ。 そういやイエズス会黒幕説なんてのもあったな
信長はキリスト教を保護してたけど警戒もしていた
そりゃ大王である信長の上にキリストがいちゃ困るもんな
それを察知した宣教師どもがガラシャを通して光秀をそそのかしたなんてありそうではある
娘が熱心なキリシタンなので宣教師たちも光秀のほうがマシと思っても不思議はない
何でも信長の真似をする秀吉がキリスト教弾圧したのも日頃信長のキリスト教に対する考えを聞いていたからかもしれんね 再興するって旗に集まるという算段でもあったのか。
根回しは全然してなかったんだろう。 これは絶対に味方を増やしたいが為の嘘、方便だよ。
本気で室町幕府を再興したいなら
義昭が京から追放される前にやるか
義昭を擁する毛利と信長が直接対決するときに
信長の背後を撃つ筈。
室町幕府再興の為の決起としては遅すぎたか、早すぎた。 秀吉と太田とフロイス(イエズス会)で、本能寺の変における信長の立ち振舞いが微妙にあるいは大幅に違ってるのは面白いが
太田は伝聞や再伝聞なのは間違いないから、
偶然にも近所で見ていたイエズス会と、家臣トップとして機密情報に接した秀吉のほうが信頼性は上であろうな >>187
近所で見ていただけで中の様子なんかわからん
秀吉の大本営発表はいわずもがなだわな >>161
でも一般サラリーマン家庭で育ちながらワタミグループをつくり上げた「有能な」ワタミの創業者を叩くんだろ?
信長はこの人よりはるかにひどいパワハラを行っていたのに。
パワハラどころか物理的に殺したりしている。 >>179
仲間を増やすには主君殺しの大義名分が必要だもんな
ホントは単に天下人になりたくて信長を殺したとしてもそんな事は口が裂けても言わないだろうし >>183
ガラシャがキリスト教徒になったのは光秀死んでからだよ
絶対にない
フロイスは光秀は仏教の大いなる庇護者だと語ってるし
そのせいでフロイスの光秀評はとても辛辣 先ほど地球分割条約と書いたのはトルデシリャス条約、サラゴサ条約等で、将来獲得される可能性のある海外領土をスペイン、ポルトガルが、ローマ教皇の調停のもと事前に分割した条約を指す
もっともあくまで事前取り決めであり、実際には先に到達し布教すれば有利になるからあくまで目安とも言える
偶然にもサラゴサ条約でこの世界分割線が日本の上にのっかる形となったからポルトガルは必死で日本に布教したとも言える
カトリックにおける領土と教皇の関係は日本人には理解しにくいが
そもそもどんな土地であれ教皇から認めてもらわないと正式な領主にはなれないから、新領土の予定地では布教に必死になるわけだ 1580年から1584年にかけイエズス会には衝撃的な出来事が立て続けに起きた
一つはイエズス会と仲の良いポルトガルがスペインに本国で負けてスペイン国王がポルトガル国王に即位した同君連合になったこと。ポルトガルは国家独立は維持しながらも常にスペインの領土政策に協力させられる屈辱的な時期であった
二つ目は最大の庇護者である信長が死んだこと
三つ目は一つ目の関連でもあるがスペインが平戸に到達し、宿敵と言えるフランシスコ会がスペインの庇護で自由に布教する下地が出来てしまったことである
ザビエルがサラゴサ条約の関係で死ぬ気で日本イエズス会を立ち上げたのにフロイスの時代には日本から追い出されるのではないか、
そんな危機感がフロイスを膨大な日本史執筆に向かわせたと思われる ゲームとかアニメでの戦国武将の女人化はいいかげんやめてほしい >>187
日本側に残る文書は
豊臣政権では豊臣政権に都合の悪いものが
破棄されるか改編されて
徳川政権では徳川政権に都合の悪いものが
破棄されるか改編される。
奇跡的に破棄も改編もされないものがあっても
書いた当事者の立場、利害関係が文書に反映されて
書いた人に都合の悪いことは触れられなかったり
都合の良いことが誇張されているだろう。
その点、外人の書いたものは後の政権による検閲も受けず
書く人も日本人同士の利害関係やしがらみから
自由な立場で書けるから
より客観的、第三者視点での記録が残せる。
資料的な価値からすると外人による外国に残された文書の方が
数段上だと俺は思う。 やってみたものの喜んでくれたのは朝廷の親しい公家衆くらいで、
大名衆や庶民は思ったよりも冷淡だったので焦った、
なんとか賛同する大名などを増やそうと言い訳、後付けの理屈で室町幕府再興を言い出した、
末期には動かない細川幽斎に対して、
信長を討ったのは婿の細川忠興に天下を譲るためだ、と懇願するような書状も送りつけてる。 本能寺の変に呼応して土橋重治が長宗我部の支援で
雑賀を掌握してるのが面白い
タイミングがあまりに良すぎる さてイエズス会黒幕説であるがもちろんトンデモ説なのは前提として検討してみたい
本能寺の変の二年前、本国でポルトガル国王が死去して1580年にスペイン国王がポルトガル国王に即位する
これによりイエズス会は独占的な日本布教権を事実上失うが逆に言えば当時世界最強のスペイン艦隊がイエズス会のバックにつき、フィリピンとの関係も緊密になる効果もあった
1581年日本イエズス会のナンバー2にコエリョが就任する。
彼は日本をスペインが征服し、スペイン領土となった暁には日本から中国へ攻め込むと吹聴したらしく、軽率すぎるとして上司に1587年に叱責されている
もっとも1582年の本能寺の変の前にそのような吹聴をした証拠はないのであるが、これがイエズス会の偽らざる本音であるのは当然だろう
よって信長が仮にイエズス会とスペインの本音に接したとすれば激怒してバテレン追放令を出したであろうことは当然であり、ここにイエズス会黒幕説が出てくるのである >>197
これからも計画的じゃなく衝動的なのは確定的に明らかなんだよな >>187
> 偶然にも近所で見ていたイエズス会
絶対偶然じゃないっつーの >>200
ニホンとニッポンの違いについて歴史的観点から述べよ(ヒント・・・ヤマト政権、出雲王朝、筑紫倭國 本能寺の変から4ヶ月後に惟任退治記を側近に書かせた秀吉もすでに天下人の気取りで大したタマだと言える
逆に言えばこれが真実だと世間に宣伝する必要があったことになる 明智光秀が変後に送った檄文が見つかりました
そこに書いてあった大義名分は室町幕府再興でした
ただそれだけの話でしかない >>204
ニホンとニッポンの違いについて歴史的観点から述べよ(源氏、平氏を使用すること >>7
>>10
核戦争で地球生物リセット
地下に住んでるバクテリアから生物やり直し 光秀の私怨を利用した朝廷陰謀説かなと思うんだけどその後の光秀の動きが合わない
だから公家の誰かに騙されたのが真相
「信長討ったら、お上に信長討伐の詔勅を出してもらうから謀反ではなく大義、安心しろ、全国の大名はお前に従う」
と言われて実際に討ったら
「そんな話したっけ?お上が謀反を命じるわけないだろ」と梯子を外されたというのが真相だと思う
実際そういう後ろ盾がない限り信長軍が帰ってきたら簡単に鎮圧される反乱 >>207
北朝の朝廷が絡んでるのは当たり前でしょう。 >>207
>
>光秀の私怨を利用した朝廷陰謀説かなと思うんだけどその後の光秀の動きが合わない
アイヒマンみたいなもんじゃない
忠実なる下僕みたいな感じ
もっとも本当に忠実だったか疑問だけどな
ナチはユダヤ人の命と引き換えにアメリカから
有利な条件を引き出そうとしたのに
アイヒマンはユダヤ人を死なせ続けた
人の心は分らんな >>38
でもお市と信長は近親相姦してたろ?
ええ、にわか知識ですがw >>207
いやだからそうなんでしょ。
だから 足利義昭 が黒幕で終わり。
むしろ証拠でてきてまだ わからんぞ! とか言ってる奴は謎すぎる。
。 室町幕府再興を目指していたというより
自分の家を生き延びさせる為には室町幕府にさえすがった
と言う感じだな。 今となれば、多くの歴史学者や歴史ヲタのおかげで
謀反する理由が沢山あることがわかり
歴史ミステリーでもなんでもなくなってきたな。
謀反起こさないほうが不思議なくらいの明智光秀さんの環境 。
最終的に光秀が公家の誰かにそそのかされて行ったとしても、
黒幕が 足利義昭 なのは特に変わらない。
原因がだれかっていえば同じ意味だからな。
その中の誰かって中心人物は足利義昭ってだけだしな。 >>213
多くの歴史学者や歴史ヲタはトンデモなんだぞ そもそも謀叛動機不明説は戦後に急激に盛んになった
江戸時代だと信長イコール暴虐主君の代名詞だから誰も不思議に思わない 鹿之助「勝久殿、勝久殿は尼子家を最高する石はお持ちでござるか」
勝久「えっ」
鹿之助「尼子家最高の石でござる」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「勝久殿はまだお若いですからな。
…それに勝久殿の境遇を考えれば仕方のない事か」
勝久「いくつになったらもらえるんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「としをとればもらえるということなんでしょうか」
鹿之助「何がでござるか」
勝久「最高の石が」
鹿之助「いえ、最高の石とは人から譲り受けるものではなく自らが生むものでござる」
勝久「なにそれこわい」
鹿之助「えっ」
勝久「うむのはいたくないんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「ああ…確かに我々には七難八苦があるでしょうが
その先にあるのは尼子家最高でござる」
勝久「そうなんだすごい」
鹿之助「……勝久殿、どうか我々に力を貸してくださらぬか」
勝久「なんだかおもしろそうだからいいですよ」
鹿之助「おお勝久殿、ついに尼子家を最高する石を持ってくださったか!」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」 光秀が信長の命で家康暗殺に動いていたってのがどうなのかなー >>219
光秀側の武士だった奴が 家康を討伐するために
京都に入ってると思ったってのがあるね 明智光秀の思いは、三河政権たる室町幕府のラスボスである家康が叶え、光秀は源氏の日光の坊さんになったのであった
めでたしめでたし
頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝 >>207
その「信長軍が帰ってきたら」の部分が問題。みんな簡単に帰ってこれないんだから。
彼らが帰ってくる前に、畿内を完全に掌握し、大軍で持って有利な地形で、遠征で疲労も消耗もしている相手と戦う。
これなら、十分勝機がある。
そもそも、明智の考えでは、滝川一益も秀吉もまともに動けないはずというのがあった。
丹羽長秀は自前の軍隊を持たない文官よりの武将。
明智軍が有利な状況で柴田勝家軍と戦い、これに勝ちさえすれば、十分行けるという判断はあったろう。 >>207
あの戦国の世で公家にそんな力があるなら信長も苦労せんよ。公家に夢見すぎ。
光秀の心の内はわからんけど、本能寺の変は信長を殺せる最高のタイミングでは有ったのは間違いないから
その誘惑に負けて反乱を始めたことは間違いない。ただその後に秀吉だけでなく柴田勝家や家康とも対決する
為の備えをしてたとは到底思えない>>197みたいな手紙の数々が、光秀の底の浅さを露呈してる。今回の手紙も真筆だとしてもその一つに過ぎない。 関西も源氏だけど
三河の源氏な
■元弘の変(1331〜1333年) 室町幕府の支配層 三河武士■
【岡崎市】
・足利氏:大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
【浜松市】
・今川氏(足利一族):将軍御一家、九州探題、守護職(遠江、駿河、丹後、但馬、因幡) 431年目の子孫の方は中国からたったの10日(未満)で引き返した行路を検討して物理的に不可能な日が2日あるとして
逆に言えば通説より早く密告した上層部の内通者がいるとした
これは、なかなか説得力が
ある気もする
これを前提とすれば、まだ信長の年忌も済まない4ヶ月後、自己宣伝の書である惟任退治記を急遽側近に書かせたのも
中国大返しを部分捏造するのが最大の目的とみられても仕方ないし
同書における信長が女に目がない馬鹿と言わんばかりの間抜け武将になってるのも
もはや遠慮なく積年の本音を言えるトップ経営者になったとの自己アピールでもあろう >>220
当時畿内では家康粛清の噂が
あったってことだな。
堺を見物していけとわざわざ
指示出したんだから中国出陣に
合わせて始末するつもりだっ
たのかもな信長は 家康は光秀が信長を討ったことを聞いて安心して伊賀越えしたんだな >>21
さすがにあり得ない
誤解なされているようだが、信長の野望のようなゲームの影響もあるのだろうが、いわゆる当時の信長の掲げた天下統一事業と言うのは日本全国を木瓜の家紋で埋め尽くすことではなかった
要はある程度の軍事力を示して京の帝から役職を賜れば天下統一なのである
義昭が執拗に信長に差し出した自分に次ぐ手持ちの肩書きを信長が固辞し続けたのは、義昭は所詮は足利幕府の為政者に過ぎず、義昭の頭越しに万世一系の帝から拝命される役職の方が当時としては全国の反目大名に対して破格の効き目があり、
ましてや帝に矢を向けるなど収まる戦乱も収まらなくなる
時の斜陽の将軍・義輝が四国の田舎大名に暗殺されても天下は仇討ちに動かなかったが、まかり間違って帝を討ったら最後、その大名は全国の寺社仏門から民衆から犬猫からあらかた目の付く生き物全てからただの賊として目され、何をやるにも立ち行かなくなる 当時の信長に勝てる見込みあったのは
上杉謙信しかいないからな、農民兵士は出稼ぎ限定なので長期戦になれば勝ち目薄いが >>192
>偶然にもサラゴサ条約でこの世界分割線が日本の上にのっかる形
>となったからポルトガルは必死で日本に布教したとも言える
いやいや正確な地図も描けない当時はそんなことわからなかったから。
あくまで今だからわかること。 >>231
信長にとって南朝は正統なんだから問題はないであろう >>229
あの時点で、家康暗殺して三河とことを構える気が信長にあったかねえ。
丹羽長秀を実質的な司令官にして、四国征伐に行かせる直前だった。
丹羽長秀が行ってしまえば、織田家の重臣で残っているのは、畿内を守る明智軍だけ。
三河に派遣する司令官がいない。
北条氏と完全に同盟して滝川一益を戻せる状態にするか、上杉を完全に滅ぼした柴田勝家が戻ってくるかしないと、
三河を攻めに行くのは無理だろう。 フロイスの日本史によれば当時信長は近畿中部を身内で固め、有力家臣は遠国に行かせて支配体制を確立し、
その後明朝征伐をするとの話が出てくる
いくら高位のバテレンでもそんな機密情報を知ってるとはおもえないから京都の風聞かと思われるが、
勝頼が数ヶ月前に死してから既に無敵状態になりつつあり、
誰に遠慮もなく権勢を誇示し出した信長を視てそう感じるのは誰でもごく自然であろう >>235
それに信長には天下統一後の夢があったよね
世界ですよ世界進出の稀有壮大な大仕事
秀吉のような大陸へゴリゴリと兵を押し出すどんくさい話じゃあなく、要は宣教師たちが辿ってきた海のルート、つまり航海の基点となる
港を抑えて回れば効率的な世界征服が出来ると夢想していたフシがあったよね
だから関東東北まで力でねじ伏せて回っていられなかった
もの凄く急いでいたと思う これが本当だとしても単純に信長を討った正当性を他の武将に示すだけのためだろ。
ある意味錦の御旗が欲しいだけの話。 方便だろ。 光秀はアホだな
信長とともに毛利に攻め込んで、そこで裏切ればいいものを。
最低でも1年は生き延びれるはず。 岩下尚史
春風亭小朝
市村正親
鶴見辰吾
坂東三津五郎
萩原健一
村上弘明
マイケル富岡
五木ひろし
寺田農
石濱朗 吹雪満
和泉元彌
三谷幸喜
モロ師岡
玉置浩二
青山裕一
市川團蔵
篠原大作
津村隆 >>240
むしろ行き当たりばったりが証明されて光秀の評価が下がる資料だよな >>229
本城惣右衛門覚書ってのに書いてあるんだけど
まあ 当時家康が上洛してて、兵を京都に向かわせるのは家康しか思いつかなかったってのも
あるんじゃない 羽柴秀吉「瀬兵衛、骨折り」
中川清秀「猿め、はや天下を取った気でおるか」 学生時代に授業脱線するタイプの先生の授業で、先生の私的考察と朝廷の陰謀論や怨恨説、秀吉による計画説とかいっぱいあって面白かったな。 >>38>>45
どうせなら機長黒幕のほうが・・・
イトコで相思相愛だったという説もw フィリピンにはスペインがいるしもうすぐオランダイギリス来るから
信長存命でもやはり朝鮮明朝と泥沼の戦争したと思う
てかそもそも秀吉の政治は信長の拡大コピーの面がある >>230
伊賀越えだって死に物狂いで越えてったか分からない >>32
最近一番ワロタのが「信長黒幕説」だったwww
光秀に家康を殺させるつもりが自分が殺されたという・・・ >>255
アルマダの海戦もまだ起きてない時代だよ?
オランダが外洋に出始めたのは17世紀に入る直前
まだまだ先の話だよ まああの戦乱の時代に、室町に戻って落ち着こうという勢力がいるのはむしろ当たり前だよな
信長は歴史的には面白いけど、リアルタイムでいたら日本人の大半が忌み嫌うタイプだと思うよ
家康は日本人らしいというか、家康が現代日本人の基準になったからそう思うのかもわからんが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています