「もうひとりの自分」は彼にとってどんな存在か

彼は一連の犯罪について、外形的事実は概ね認めていたのだが、細部については曖昧にしたり、殺害時の状況についてもやったことは認めながらも実行したのは
「もうひとりの自分」だという主張をしていた。
そこは宮崎勤を理解するうえで大変重要なポイントなのだが、私には外形的に犯行を認めながら、そこで「もうひとりの自分」を持ち出すのは、
ある意味で自分が罪を犯したことを認めたくないという意識がどこかに残っているためではないかと思う。

小林薫や宅間守の場合は、自分の犯行を語る際にためらいが全くないのだが、宮崎勤はそこが違う。
それがいけないことだという意識、罪の自覚と呼んでもよいような意識が彼の内面には存在し、それがそうさせているのではないか、と思えるのだ。
宮崎の説明の中で、犯行現場に登場する「もうひとりの自分」や「ネズミ人間」は、そうした彼の内面の葛藤が生み出した存在ではないかと思う。

これについては、『創』連載で香山リカさんがこういう解説をしている。

「『自分が自分である』といういわゆる自己同一性がさまざまなレベルで障害される『解離性障害』については、その完成形ともいえる
解離性同一性障害(いわゆる多重人格)が司法の場でしばしば問題になることがある。
鑑定医の意見が分かれたことが話題となった幼女連続殺人事件の宮崎勤死刑囚の精神鑑定書のひとつにも、この診断名が記されていた。
解離性障害は、躁うつ病や統合失調症のような精神疾患、つまり“脳の生物学的な不調”とは違い、基本的にはトラウマに対する心の防御反応として起きる反応性の障害である」
「わかりやすく言うと、トラウマを与えられたとき、人間の心は完全な崩壊という致命的事態を防ぐため、より軽度な障害を起こしてバリアを張ろうとするのだ」
「『こんなひどい目にあったのは私ではなく、別人のナンシーさんだ』と別人格を作り出してトラウマを“他人事”にしようとするのが、解離性同一性障害だ」(07年11月号)
この説明によると、幼女殺害という精神崩壊につながりかねない現実を受け入れられずに精神的なバリアとして「もうひとりの自分」が登場するという理解だが、
私が宮崎と接していてわからないのは、その防御反応が彼の中で無意識に生じるのかそれともある程度意識しながらそうしているのかということだ。
告白文の主である今田勇子や犯行時に現れる「もうひとりの自分」は、宮崎勤にとってはどの程度意識された存在なのか。
宮崎勤が何かを語る際に別人格に仮託するというのは、どの程度意識して行われている行為なのか。