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 明治時代になり、明治政府はそれまでの「蝦夷地」を北海道と改称し、一方的に日本の領域のなかに組み込みました。戸籍を作ってアイヌを日本の国民とみなす一方で、「旧土人」として和人とは区別しました。

 政府は、北海道の開拓を推し進めることを優先し、先住者であるアイヌの権利や生活を無視あるいは黙殺しました。例えば、場所請負制は廃止されましたが、多くの漁場は和人の経営者によって独占され、シカ猟や川でのサケ漁も禁止されていきました。また、土地は開拓者や和人の資本家に対して優先的に払い下げられるなど、それまでのアイヌの生活の基盤は急速に奪われていきました。

 このような状況に対して政府は、1899(明治32)年に「北海道旧土人保護法」を制定し、アイヌに一定の農地を下付することなどを定めました。しかしながら、多くの場合、その面積は和人の農民に比べて狭く、農耕に適さない土地があてがわれた例や、もともと暮らしていたアイヌの人々のための土地よりも鉄道などの開発計画が優先された例が多くみられるなど、生活基盤の浸食は進み続けました。

 20世紀に入ると、アイヌの人々の中から、このような社会への批判や同族の呼びかけを新聞・雑誌などの論説や文芸を通じて行う動きや、有志による組織をつくって活動するという動きが見られるようになります。白老でも、森竹竹市のように、鉄道に勤めるかたわら、1920年代から短歌や詩などの創作活動を行い、鋭く社会を問う著作を発表した人が知られています。

 やがて日本は戦争の道を進んでいきました。アイヌも和人と同様に徴兵制の適用を受け、多くのアイヌ兵士が出征し、戦争によって命を落としました。軍隊内部での差別も少なくなかったと言われています。

 アイヌと同じような歴史的立場に置かれている人々(先住民族)は、世界各地に存在します。
先住民族の権利の回復を求める動きは各地で活発になってきており、国際連合には先住民族の権利の問題を協議する場も設けられています。
 北海道アイヌ協会の代表をはじめとするアイヌの人々も、こうした会議に出席するなど、国際的な議論の場に参加し交流を進めつつあります。

明治時代の政府は「蝦夷地(えぞち)」を「北海道」と名前をかえて、強制的に日本の領土としてしまいます。
同時にアイヌも強制的に、日本人として取り込みますが、アイヌを「旧土人」として、和人とは区別しました。

明治政府はアイヌの生活習慣や様式を無視して、和人と同じ生活をするように、「同化政策」を推し進めます。

名前も和人風のものを与え、シカ猟やサケ猟を禁止します。
土地もほとんど和人のものとなってしまいます。アイヌの習慣であった、耳輪や刺青、その他の儀式も「野蛮」であると禁止されています。

この状況に対して、さすがに、このままでは反発が強まると思ったのか、1899年(明治32年)に「北海道旧土人保護法」を制定します。

これはアイヌに一定の農地を与えることを定めたものだったのですが、面積は和人の数分の一程度しか、与えられませんでした。

しかも、管理能力不足を理由に土地の売買や譲渡なども禁止され、所有権に制限もありました。