維新後に編纂した当時の租税の計帳で、旧長州藩が101万石となっている異常性
町からの上がりを石高に換算しているのは解るが、その実態としてどう開発しても米としては40万石〜50万石が限界であろう山口県
のこり半分はどっから来てるのか、それと上海で接触していた大英帝国と長州藩下級武士への工作が無かったかどうかは今後の研究課題

譬え何かが解ったとしてもただそうであるとだけ教えればいいだけだけどね