城柵の跡が見つかった赤井遺跡での現地説明会
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 古代牡鹿郡を統括していた役所跡とされる宮城県東松島市の赤井遺跡で、大和朝廷の軍事施設である城柵「牡鹿柵(おしかのさく)」とみられる塀や溝の跡が見つかった。市教委が16日、現地説明会で公表した。史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記述される牡鹿柵の存在が裏付けられ、市教委の担当者は「東北の古代史に影響を及ぼす発見」と話す。

 市教委によると、遺跡南東の外周部から、直径20センチ前後の丸木を並べた材木塀跡と塀に沿った溝跡が、それぞれ東西に120メートル確認された。蝦夷(えみし)の反乱に備えた城柵の外郭施設に当たるという。

 材木塀は、丸柱材を深さ60センチほど埋め、隙間なく並べてあった。高さは約2〜3メートルと推定される。材木塀は3列あり、地中の柱が劣化する約20年間隔で、新たな列に建て替えた可能性があるという。

 溝は年代ごとに三つ見つかり、材木塀に沿って延びていた。

 続日本紀には、古代牡鹿郡には役所の「牡鹿郡家(ぐうけ)」と軍事施設の「牡鹿柵」が設置されたとの記載があるが、牡鹿柵跡はこれまで発見されていなかった。

 16日の現地説明会で、市教委生涯学習課の横田竜巳学芸員(28)は「塀は蝦夷の侵入を防ぐ牡鹿柵の可能性が高く、大和朝廷のとりでだったのだろう。郷土史の価値だけでなく、東北全体の古代史に影響するだろう」と話した。

 赤井遺跡は東西約1.7キロ、南北約1キロ。飛鳥時代末期から平安時代初めまで営まれ、現在の石巻地方を統括する役所と、東北地方有数の豪族道嶋氏の豪族居宅の推定地とされる。

河北新報 2017年12月17日
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