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【歴史】「なぜ神武は纒向ではなく橿原に宮を建てたのか」 日本最初の「元旦」と結びつく「神武天皇」の正体★3

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2018/01/06(土) 10:43:30.86ID:CAP_USER9
新潮社 フォーサイト 1/4(木) 6:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180104-00543183-fsight-soci

 日本史上「最古の元旦」の記録は、神武天皇(神日本磐余彦=かむやまといわれびこ=)の即位にまつわる『日本書紀』の記事だ。「辛酉年(しんいうのとし、西暦紀元前660年)」に畝傍山(うねびやま、橿原市)の東南の麓に橿原宮(かしはらのみや)を建て、王位に就いたのだ。「辛酉」は1260年に1回めぐってくる特別な年で、中国の讖緯説(しんいせつ)によれば、革命的事件が起きるとされている。だから『日本書紀』編者は、初代神武天皇の即位年にふさわしいと考えたのだろう。

 そこで今回は、神武天皇の即位に注目してみよう。

■神武天皇と「九州の海人」

 近年、神武天皇は次第に軽視されるようになってきたと思う。まず、今から2600年以上も前に即位したという『日本書紀』の話は、明らかな作り話だ。弥生時代(あるいは縄文時代)に国の中心がヤマトに存在したはずがない。

 一方考古学の進展によって、ヤマト建国の詳細が分かりはじめてくると、神武の謎はむしろ深まった。三輪山(奈良県桜井市)山麓の扇状地に、3世紀から4世紀にかけて、政治と宗教に特化された都市・纒向(まきむく)遺跡が出現していて、ここにヤマトが建国されていたことが分かってきたが、そうなると「神武天皇は橿原に宮を建てた」という『日本書紀』の設定にも、疑念が湧いてくる。実在の初代王は第10代崇神天皇で、神武と崇神は同一人物と通説は言うが、それならなぜ、神武は崇神と同じように、盆地の東南部、纒向遺跡の近くに宮を建てなかったのだろう。

 それだけではない。天皇家が九州からやってきたという話も、ここに来て疑わしくなってきた。ヤマト建国黎明期の纒向遺跡に集まってきた土器は、東海地方や近畿地方のものが大半で、九州のものは、ほとんど含まれていなかったからだ。

 また、ヤマト建国の前後、近畿地方や山陰地方から多くの人々が九州に流れ込んでいたことも分かっている。だから、「邪馬台国は北部九州にあって、それが東に移ってヤマトは建国された」というかつての常識は通用しなくなったのだ。そうなると、ますますもって、「九州からやってきた神武」は、影が薄くなる。

 しかし、神武の存在を否定してかかることもできない。神武が創作とすると、かえって分からなくなることがある。

 たとえば神武天皇のまわりに「九州の人脈」が集まっていたという謎がある。

 連載の中で紹介してきたように、神武天皇の母と祖母は姉妹で、海神(わたつみ)の娘だったが、彼女たちは奴国(なこく、福岡市)の阿曇(あずみ)氏と縁が深い。また、橿原宮の周辺を固めていた大伴氏、久米氏、忌部(いんべ)氏たちは、九州の海人(あま)の末裔だったようで、顔に入れ墨をしていたという記事が、『日本書紀』にある。「魏志倭人伝」には、九州の海人が水に潜ってアワビなどを捕っていること、入れ墨をして大きな魚(サメなど)から身を守っていると記録されている。南方の習俗が縄文時代に日本に伝わっていたと思われる。この海人の風習を受け継いだ人たちが、なぜか橿原宮のまわりに集住していたことになる。これは何だろう。

 畝傍山が天皇と強くつながっていたことは、中大兄皇子の大和三山の歌(『万葉集』巻1-13)からも分かる。

「畝傍山が雄々しいので、耳成山と天香具山がキサキの地位をめぐって争っている。神代からすでにそうだったという」

 とあり(異なる解釈もあるが、割愛する)、畝傍山は男王を象徴していたことになる。それはなぜかと言えば、「初代王が畝傍山麓で暮らしていた」という伝説が生きていたからではなかろうか。

続きは>>2
2018/01/10(水) 22:55:59.42ID:8aeH3TF20
戸数と距離や日数を考えると九州説は無理だね。
南九州に北部九州奴国以上の戸数の国が複数入る場所はない。
畿内説は方角がネックだがそれも方角間違い例なんて
沢山あるから問題無し。
今来てる北朝鮮の木造船団でさえ流されて秋田や北海道までくるんだからな。
746名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/10(水) 23:00:14.10ID:wwij8ihG0
745創価学会による組織的な嫌がらせの手口 簡略版
文中にある被害者とは、創価学会の嫌がらせ行為の被害者の事です

■組織的な嫌がらせ行為に住民等を巻き込む方法
・被害者の居住圏の住民と、被害者の職場の同僚や上司に、創価学会員がデマを吹き込み、被害者への嫌がらせ行為を正当化すると同時に
 嫌がらせ行為への加担を依頼して協力者にする
・創価学会員が多くの住民組織で役員を務め、住民組織を動かせる状況を悪用して、被害者を不審人物や危険人物にでっち上げて
 住民組織と地域住民が地元の警察署と緊密に連携を図って行なっている、防犯パトロールの警戒対象者にしてしまい
 防犯パトロールを行っている住民達に、被害者に対して、尾行や監視、付き纏い行為等を行わせる(創価学会による嫌がらせ行為の代替行為)
・防犯パトロールに関与する地元警察署の警察幹部等を懐柔し、創価学会の協力者として抱き込む

■組織的な嫌がらせとして行われる具体的な行為
・(24時間体制の監視)被害者の自宅を、創価学会員や近所の住民らに共同で監視させる。被害者が外出した場合には、指定された電話番号に通報する
 指名手配犯のような監視網が敷かれており、住民らに被害者を見かけたら通報するようにとの情報がいきわたっている為、
 仮に創価学会員と近所の住民が気付ない間に外出しても、目撃した住民が指定された電話番号に通報する仕組みが出来上がっている
・(定点監視)被害者の位置情報が協力者に一斉送信され、被害者の位置に近い場所にいる協力者は、家の前に出て立ち話をするふりをしたり
 ごみ捨てのふりや歩道の草むしりのふりをしたりして被害者を待ち伏せし、自宅前を通過すると、その旨を指定された電話番号に通報する
・(移動監視)被害者の位置に近い場所にいる協力者は、通行人やジョギングの人間、自転車で被害者とすれ違う
 ※防犯活動として行われている為、建前上、被害者が犯罪を犯さないか監視する名目で行われているが、実態はただの付き纏いであり嫌がらせ
・(創価学会による監視と付き纏い、尾行)上述の二点とは別に、創価学会が会員を使い、定点監視や移動監視(付き纏い)、尾行を行っている
 車両による監視も行われ、その際には、被害者を盗撮し、その画像を協力者達にばら撒くという犯罪行為も行われている
・つまり、監視者の通報により、被害者の位置情報が正確に把握されており、その情報を基に、複数の人間で連携して監視するのが手口である
・被害者の位置情報を完全に把握している事を利用して、近くにいる警察車両を急行させて、被害者と故意に遭遇させる
 この被害に遭っている被害者は、外出時に必ず一台は警察車両と遭遇する(警察側は防犯効果を狙ったものと弁解するが、実際はただの付き纏い)
・被害者のところに警察車両、追加で消防車や救急車を急行させた際、緊急時でもないのに、赤色灯を回転させて、サイレンを鳴らす
 被害がもっとも激しい時だと、一度の外出に五台も六台も警察車両と遭遇し、全てが、赤色灯を回転させてサイレンを鳴らしている状態で
 こうした事が連日続き、その期間が三週間以上続く事もあり、何もしていないのに警察から付き纏われる精神的ストレスから
 被害を受けた人がノイローゼになったり、ストレス性疾患を発症する事もある(指示を出している警察幹部はバレたら懲戒免職)
・被害者が通り過ぎる際に、協力者にドア・引き戸・網戸等を音が出るように強く閉めさせる、咳やクシャミをさせる
 表向きは人が監視している事に気づかせて、防犯をしているとされますが、実際には被害者にこうした行為を続けて、音を聞かせ続ける事によって
 最終的には聴覚過敏症を引き起こさせると同時に、故意に行われる嫌がらせと自然音の区別をつかなくさせて、そこに過重ストレスを与える事で
 被害者に統合失調症を引き起こさせる事が狙いであると考えられています
 尾行や監視、付き纏いを含むその他の嫌がらせも、故意に行われる嫌がらせと偶然の区別がつかなくさせるのが目的(統合失調症発症の誘発が狙い)
・ストーカー行為で得た被害者の情報を利用して、その内容を想起させる言葉を協力者に喋らせたり、動作を取らせる事で、監視の事実を告げる嫌がらせ
・その他には待ち伏せさせた車両でハイビームを浴びせる、片目ライトの車を頻繁に遭遇させる、道を塞ぐ嫌がらせ、店舗内での嫌がらせ等
747名無しさん@1周年
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2018/01/10(水) 23:02:38.83ID:Kj9RbBi+0
そしてホケノ山古墳が新しいものになったと言って特に何か大きな変化が起こるものでもない

寺澤氏が提唱している纏向型前方後円墳の発展過程の初期段階からホケノ山が外れるくらいの物
この説もまだまだ発展途上で細かい部分に修正が出るのくらいは特に不思議でもない
特に大勢に支障がない

むしろこの流れを絶対視して「この後に出た箸墓はもっともっと新しいはずだ」とか言う話を主張してる人が見受けられるが見当違いとわかる
2018/01/10(水) 23:02:39.32ID:vlS1CiS+O
戸数とか大袈裟に行ったとか有りうるけど?何せ中国人は昔からこうじゃん
けど現地の風習と対立国とかを間違えるはないだろ
2018/01/10(水) 23:03:33.45ID:LvCXi3ug0
>>725
現代の朝鮮人は新羅の末裔で、新羅の人達は3〜4万年ほど前に遊牧民となる系統と別れ
悪魔の門の洞窟の葡萄人からほぼそのまま変質するのこと無くアムール川の近辺で暮らし、どこかでエベンキ(ツングース)系のウリチ(キエフ・ルーシのウリチとは異なるので注意)族と別れ朝鮮半島東部にたどり着いた人達だと
DNAからほぼ特定されたとロシアの研究機関は断定している
ほぼ完全に特定の民族集団として一万年ほど前には確立されていた集団のようだ
2018/01/10(水) 23:07:40.30ID:vlS1CiS+O
足利尊氏は源頼朝にしようとする研究なってんな
確かに足利は源氏なんですよ!
という論理展開なんだよなぁ

邪馬台国畿内説はさ
2018/01/10(水) 23:22:30.95ID:p57/dz/s0
ホケノで思い出したがこれわかる人いる?
ホケノから小形丸底鉢が出てることをもって布留0か布留1とする人がいる
一方このサイトの一番下の表を見ると小形丸底鉢の出現は纏向2類に当てており庄内式土器の出現より前の時期
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
纏向編年が見直されたときに小形丸底鉢の年代も見直されたということなんだろうか?
もしそうならホケノが布留0とか布留1の主張には根拠がなくなり、公式発表通り庄内3が正しいことになる
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html#hokeno
2018/01/10(水) 23:44:15.12ID:1i7QBy010
>>718
神武東征の記述と地質学の調査との一致はあるそうだが。
753名無しさん@1周年
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2018/01/10(水) 23:46:16.98ID:1OwVlF260
記紀では神武天皇の正室や兄弟や子孫たち、重要人物たちも巧妙に捏造されているから
日向族が二度と復活しないように、歴史から消し去ろうとする強い意図が感じられるね
神武天皇の父君や伯父さん・叔母さんたちはは他人と差し替えられているし
神武天皇の正室はイスケヨリ姫であり、歴史から完全に抹消されている
記紀では、媛蹈鞴五十鈴媛命が正室として崇神系列がここに割り込んでくる
2018/01/10(水) 23:57:45.29ID:vlS1CiS+O
創価スレで集団ストーカーの話をすると
逆に電磁波による思考盗聴を創価はしてるよね的な方式か
755名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 00:41:51.35ID:W6fQYOyn0
>>752
本当に地質学調査と一致があるなら出してみろ
2018/01/11(木) 01:17:05.05ID:5+IWpiGv0
>>755
船で漕ぎつけ上陸して戦闘をしたという日下の楯津が弥生時代は河内湖(河内湾)の沿岸だったことがわかったのは有名な話だが。
https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/11/pdf/11_2_4_1.pdf
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015072600070/
http://www.gsi.go.jp/common/000063255.pdf
2018/01/11(木) 01:41:33.72ID:gFZ7so9y0
上で記紀の欠史八代で海外交渉が書いてないってスレがあったけど、
欠史八代ではないけど文明(近代学では農耕と都市)を初めてもたらした話は書いてあると思う。
文明を初めて開いた大国主命。
権力(王権)を肯定的に考えた場合、飢えや戦いの不安を無くすということですね。
この2つを書いた記紀の出雲神話。
先ず農耕を大国主命(オオナムチ)と後の宰相の名称スクネの元であろうスクナビコで書かれ、戦いの解決を天神との国譲りで書いている。
スクネが役名ならオオナも役名ではないか?意味合いとして王様って事ですね。
オオナムチのムチの意味合いは何か?
他にオオヒルメムチという名称もあって貴いの尊称って事になってますが、現代語との関連が無くピンと来ない。
でも何かあるで言葉散歩をしてみると、先ずオオナと関連してヘビでマムシのム、ムシ(虫)は地を這うって意味があるかも知れない。
少し関連してムロ(室)やムシロのム。湿地とか湿度を高くする洞窟のような人工蔵ですね。やはりピンと来ない。
次に本命のムネ(胸、宗、棟、正)のム。
一番判りやすいモチ(持ち)の母音変化もありますけどね w

で、マキムクのムクは、身体語胸が語源である正面に「向く」で良いと思いますが、実を顕すの剥くのムクもあるかも知れない。
これは剥ぎ(ハギ)、ハゲとは違う意味合いがあるでしょうね。
758名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 01:42:19.51ID:bXrHo3J50
>>732
>宋代に編纂された新唐書の日本伝の冒頭は「日本は古の倭奴なり」だぞ。
>用明天皇をタリシヒコだとしている。
587年に用明天皇が亡くなって、
推古天皇と同時代の607年に多利思比孤が隋の煬帝に使者を送ってるんだけど。

>それは隋書からの引用。旧唐書でも引用してる。
すまんレスの意味がわからん。
論点は新唐書の記述が「王年代紀」からの引用なのか、
若しくは日本の使者からの伝聞なのかってとこなんだけど。
そして新唐書には、国王自らがそう言ってると書いている。
759名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 01:47:53.01ID:W6fQYOyn0
>>756
弥生時代まででなく5世紀頃もそうだろ
河内湖2の時代
2018/01/11(木) 02:09:07.58ID:QcogWiSo0
三輪王朝、葛城王朝の話をせずにこんなところでもどうでもいい邪馬台国の話かよ
2018/01/11(木) 02:14:42.66ID:5+IWpiGv0
>>758
史書の編纂は当代の記録だけでなく過去の史書も使うんだよ。
新旧唐書は隋書も引用しているってこと。
2018/01/11(木) 02:16:32.40ID:5+IWpiGv0
>>759
古墳時代は湿地帯になって湖面が遠のいているんだよ。
http://kaiyo2014.up.n.seesaa.net/kaiyo2014/image/15-1.jpg?d=a73010125
2018/01/11(木) 02:20:19.65ID:hbtINo1a0
>>757
欠史のうち西日本一帯での逸話が残るのは孝霊なのは間違いない。
特に出雲で伝承を残したり、江戸時代まで富士山とセットで語られたり
する事から本来は倭の王的立場なんだろう。
妃の名がオオヤマトクニアレヒメ、大倭を産んだ姫という意味で
娘がモモソなら、やはりモモソが卑弥呼に一番可能性としては高い。
しかもモモソは瀬戸内海で女神扱いされてるからね。

オオナムチの意味はアナムチ、簡単に言うと鉱山持ちでしょう。
屯鶴峰のある穴虫なんて地名はその名残かもね、洞窟もあるし。
ちなみにトンツルは本来の意味はガンチなんじゃないかと
最近は思ったりします。色々調べたらね。
764名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 02:42:00.45ID:W6fQYOyn0
>>762
河内湖2の時代が湖ではなく湿地帯になっているという根拠は?
その画像にも河内湖と書かれている
そもそも白肩之津という地名を記紀編纂者がどうやって知りえたか?
神武という人物が実在して、かつて津であった地名が津でなくなった後世にも伝承されたなんて非現実的な妄想
記紀編纂の時点でもそこは津であったと考えるほうがはるかに現実的
2018/01/11(木) 02:51:34.82ID:5+IWpiGv0
>>764
河川の中洲だったところは島がつく地名になることが多いが、河川の流れが変わって中州ではなくなっている
ところは沢山ある。
この程度の知識もなく非現実的な妄想と言うお前のそのレスが妄想以下の屁理屈だよ。
766名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 03:05:32.44ID:W6fQYOyn0
>>765
で、湿地帯の根拠は?
ひたすら言い張るだけか?
2018/01/11(木) 03:14:57.44ID:5+IWpiGv0
>>766
>河内湖2の時代が湖ではなく湿地帯になっているという

なあ、>>762の画像と「湿地帯になって湖面が遠のいているんだよ」の言葉を見て、どうして湖が完全に消滅した
と解釈したんだ?
AとBでは河内湖の面積が変わっているのはわかるだろ?
2018/01/11(木) 03:24:27.20ID:5+IWpiGv0
ID:W6fQYOyn0 に対してこのアラル海の変化の図を見せて「砂漠化しかつての東岸からは湖面が遠のいた」と言うと、
https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/img.imidas.jp/topics/wp-content/uploads/2017/09/05231709/D-40-107-16-01-1_sp.png
「湖ではなく砂漠になっているという根拠は?その画像にもアラル海と書かれている」と言うのだろうな。
769名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 03:27:23.14ID:W6fQYOyn0
>>767
こっちが言ってもないことを捏造してイチャモンやめろ
日下周辺が湿地帯になっていた根拠を出せばいいだけだ
出せないならおまえは妄想をひたすら言い張っていたで終了
770名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 03:33:44.15ID:W6fQYOyn0
>>768
全く関係ないものを持ち出して難癖
大阪平野の変遷を研究した人が5世紀は河内湖の時代だと言ってるのに
おまえが勝手に湿地帯だと言い張ってる
研究が間違ってると言うなら根拠を出せばいいだけだ
2018/01/11(木) 03:36:03.21ID:5+IWpiGv0
>>769
>こっちが言ってもないことを

764 名無しさん@1周年 2018/01/11(木) 02:42:00.45 ID:W6fQYOyn0
>>762
河内湖2の時代が湖ではなく湿地帯になっているという根拠は?
その画像にも河内湖と書かれている
772名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 03:42:24.40ID:W6fQYOyn0
>>771
ほらおまえの捏造だった

“湖が完全に消滅した”
こんなこと一言も言ってない
湿地帯だと言うから湿地帯の根拠を出せと言っただけ
2018/01/11(木) 03:50:45.85ID:5+IWpiGv0
>>770
古代地図と軟弱地盤
http://mbp-osaka.com/oado/column/21026/
>こうして見ると上町台地以外は近世まで湿地帯・砂洲などで出来ていた軟弱地盤である事が伺えます。

https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html
>仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
>そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。
2018/01/11(木) 03:51:36.34ID:5+IWpiGv0
>>772
「河内湖2の時代が湖ではなく湿地帯になっている」は湖がなくなっているという以外にどう読めと?
2018/01/11(木) 03:55:19.75ID:5+IWpiGv0
「河内湖 湿地帯」で検索すれば、河内湖が大和川の土砂の堆積で埋め立てられ湿地化していくという
過程が共有されているのがわかる。
776名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 04:00:14.76ID:W6fQYOyn0
>>773
近世の話だろが
5世紀に湿地帯になっていた根拠は?
2018/01/11(木) 04:01:27.39ID:5+IWpiGv0
そもそも、河内湖があった辺りは近代になって大和川の付け替え工事をするまでは、その流域の湿地帯として
知られていた場所なのだが。

大和川の歴史
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015072600070/
>さらに周辺は低湿地であるため、一度洪水が起こると、なかなか水が引きませんでした。
2018/01/11(木) 04:02:09.35ID:5+IWpiGv0
>>776
本当に日本語が理解できないんだなw
2018/01/11(木) 04:03:25.05ID:xKVKK1Fp0
神話と現実がごちゃごちゃになって狂った歴史を信じてしまい修正が効かなくなった悲惨な低知能おじさんの巣窟スレ
2018/01/11(木) 04:04:24.24ID:28CjJ/BE0
>>757
飛騨の伝承によると

ヒル=昼の様に明るい
メ=女性
ムチ=尊い人

だそうだ
ムチで終わる神様は三輪系に多い名前らしい

オオナムチは

オオ = 大きい
ナ = 土地
ムチ = 尊い人

タミール語のモチ(年上の賢い人)が語源ではないかと
タミール語起源説の学者は言っているが
あくまで憶測だね
2018/01/11(木) 04:04:29.48ID:5+IWpiGv0
>>779
どのレスがそうなのか指摘してくれよw
782名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 04:09:58.54ID:W6fQYOyn0
>>778
根拠のない拡大解釈で妄想の正当化はやめろ
5世紀以降では時期を特定できないなら、河内湖1の時代でも十分
1600年前すなわち西暦400年で湖だった
783名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 05:02:34.58ID:r9uzWpHr0
横からなんだけど河内湖は徐々に細く浅くなり
途中からは人の手も入ってその傾向は更に加速するんだよね
船で何時まで日下の蓼津つまり生駒山の麓まで行けたと思ってるの?
古墳時代には湖と言っても河口はふさがり湖底は浅く
自由に航行できる状況じゃなかったと思うんだけど
784名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 05:17:45.25ID:X8lUVfuW0
畿内信者は頭がおかしい奴ばかりだな
2018/01/11(木) 06:54:35.76ID:28CjJ/BE0
河内湾が完全にふさがれて河内湖になったのが
弥生〜古墳時代の間と言われている
日下町って石切の近くなので電車で通ったことあるが
ちょうどあのあたりから傾斜続き
紀元前600年〜700年はまだあのあたりまで
海岸線が来ていたとしても不思議ではない
本当に神武東征が紀元前660年だったらの話だけど
2018/01/11(木) 07:24:56.98ID:kEF5lUEX0
纒向って大和川の水運を利用して西日本から物資を運んでいたんでないのか?
亀の瀬あたりは船で遡れないだろうから降りてロープみたいなので引っ張ってたかもしれんが
787名無しさん@1周年
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2018/01/11(木) 07:27:01.28ID:RvUY2woq0
日本書紀を書いた渡来人 天孫族

(1)渡来人の特徴として確定しているのは以下の事項
 ・寒冷地適応済みの民族だった
 ・文字(漢字)を持たない民族だった
 ・中国語とは違う(朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった


(2)日本人のルーツは大雑把に分けて二つ
 @寒冷地適応する前の縄文人 
 A寒冷地適応後の弥生人   

https://i.imgur.com/BRdvUlH.jpg
https://i.imgur.com/lClIoyD.jpg

https://i.imgur.com/1mxEhnm.jpg
https://i.imgur.com/O7aHT1Z.png

https://i.imgur.com/tU0yFoG.jpg
https://i.imgur.com/bZ5RQka.jpg
788名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/11(木) 07:48:27.55ID:bXrHo3J50
>>761
新唐書
国王の阿海(あめ)氏が自ら言うには、
神武天皇の父親の彦瀲まで三十二代、筑紫城に住んでいた。

宋書
其の年代紀に記す所に云う。
初めの主は天(御)中主と(号)す。 
次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。 
次は天八重雲尊。次は天彌聞尊。次は天忍勝尊。次は贍波尊。次は萬魂尊。
次は利利魂尊。次は國狭槌尊。次は角魂尊。次は汲津丹尊。次は面垂見尊。 
次は國常立尊。次は天鑑尊。次は天萬尊。次は沫名杵尊。次は伊弉諾尊。 
次は素戔烏尊。次は天照大神尊。次は正(哉)吾勝速日天押穂耳尊。 
次は天彦尊。次は炎尊。次は彦瀲尊。凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
789名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/11(木) 07:53:32.68ID:9fFqtawH0
>>788
王年代記で23世だったのが新唐書で32世になってるのは、多利思比孤が言い間違えたのかな?
790名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/11(木) 07:59:49.47ID:uLbjxc+V0
筑紫城いたのか筑紫の日向宮にいたのか
大和洲を統治したのか移ったのか
どっちなの?
2018/01/11(木) 09:07:52.14ID:hbtINo1a0
>>780
だからオオナムチは鉱山持ちでいいんだろう。
モチは知識その他持つ人の事。つまりオオモノヌシ。
ヒルメはまぁそのままだね。
モロとムロは同義、宇陀の室生口大野だと鉱物搬出場所の意味かな。
室戸だと阿波の水銀産出場所だろう。
2018/01/11(木) 09:16:22.56ID:hbtINo1a0
>>786
亀の瀬じゃなくても北に上がって奈良市北部の木津川から水運を使える。
木材等大型の荷はこっち経由だろう。
だから鏡も大量に出土した椿井大塚山古墳がこの辺りの豪族の象徴になる。
793名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/11(木) 09:22:55.32ID:dGOaoTQC0
よくわかんない。
2018/01/11(木) 09:31:09.01ID:kEF5lUEX0
河内湖でググった知識によると、4世紀?5世紀ごろには草香江(くさかえ)と呼ばれていた。
日下のあたりが一番最後まで残っていたようだ
2018/01/11(木) 09:47:54.60ID:UxeO+7b30
歴史書は時の権力者の都合に合わせて書き換えられるからね
橿原の方がいろいろ都合が良かったんだろうな
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