【歴史】「大和朝廷は中華思想」「周辺は夷荻」「未服従の遅れた人々だと位置づけ」 蝦夷と坂上田村麻呂の足跡 ヤマトの外に独自文化
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/01/11/20180111oog00m010020000p/9.jpg
坂上田村麻呂公園内にある墳墓=京都市山科区勧修寺東栗栖野町で、戸田栄撮影
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/01/11/20180111oog00m010021000p/9.jpg
本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。
「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。
井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。
経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。
それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。
さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。
アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。
これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。
田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。
近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。
続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra 江戸の大普請 徳川都市計画の詩学 (講談社学術文庫) 内容紹介より
1603年、家康は江戸に幕府を開きました。しかし、当時の江戸は、東の卑小な要塞でしかありません。そこで、なんとか1000年近い歴史をほこる雅な都、京師に負けない町をつくろうと考えました。
・・・京都の真似をして、東の比叡山「東叡山」こと寛永寺、東の琵琶湖「不忍池」、清水寺を真似た「清水堂」、三十三間堂、大仏などを次々とつくり、江戸の威厳を創出しようとしたのです。 当時の日本が貧しかったのは間違いないが、
聖徳太子がとりあえずヤマトに最大の技術を
注ぎ込み、中国からの使者を招き建築のレベルの
高さを見せつけ中国は日本政略をあきらめた。 >>127
調べたらマジで言ってた
いよいよウリナラ半万年みたいなことになってきたな… >>53
スサノオという中央から派遣された、もしくは政略結婚で来た領主・代官が治水をして成功し、鉄製品(天叢雲剣)/製鉄技術を手に入れた
と解釈するのが一番自然
出雲を武力を以て滅ぼしたってのはないだろうね 伝説なんかだと田村麻呂が討ったのは鬼みたいな書かれ方をしてるな ttp://hitakaminokuni.up.n.seesaa.net/hitakaminokuni/image/030.jpg
こういうアニメが製作されたみたいだけど
東北の人はどのようなイメージを以て捉えているのですか >>3
日本史教科書はおかしくなった
山川出版とか 凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。 それは違う
日本は、諸民族の自立と共存のために戦い、アジアの中で唯一それを実現した国家
アジアにおいて古来から唯一中華を叱れる立場にある国家だったよ 山背大兄王事件、大化改新、壬申の乱等一連の、政治的要因を等しうする事件において、天皇または皇子が旧来の豪族に対抗するときに、東国にそのより所を求め、
その兵力に頼らんとしていることは甚だ興味あることであって、それは大化前代の親衛軍の基礎が東国にあったことからきているのである。
(岩波現代文庫『日本古代内乱史論』北山茂夫/立命館大学教授/和歌山県出身)
・東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじと云ひて、君を一心に護るものぞ(聖武天皇/続日本紀)
・あずまをのこは いでむかひ かへりみせずて 勇みたる 猛き軍卒(大伴家持/万葉集)
東北兵1>近畿兵10
弓馬戦闘、夷リョウ生習、平民之十不能敵其一(続日本後紀)
東北兵1=近畿兵100
夷種衆多、逓相合従、賊徒数万、窮寇死戦、一以当百、難与争鋒(藤原保則伝)
関東兵1=近畿兵1000
戦士勇山東之民一兮当千、豈以皇畿近州之嬰児、対東関蛮夷之勇健乎(吉田定房奏状)
家康17,000 vs 秀吉100,000
家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(「NHK英雄たちの選択/小牧長久手の戦い」磯田道史・岡山県出身の歴史学者)
番組前半と後半で2回言ってたね…磯田先生…
・近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する(国民百科事典・平凡社)
・大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
・朝鮮系の土器の列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多い(『アジアからみた古代日本』)
・河内国(大阪府)は列島随一の渡来人(朝鮮半島)の集住地域(熊谷公男・東北学院大学教授)
・関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い(中橋孝博・九州大学大学院教授)
・関西の3府県で韓国・朝鮮籍の永住者が全国の約5割を占める。(仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授)
佐治敬三「仙台遷都などアホなことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」
大阪サントリー→東北&九州差別 今の中学生に聞いてみ、坂上田村麻呂よりアテルイの方が知名度あるというおかしな習い方になっとるw この人の語り口はともかく、こういう“まつろわぬもの”と言われてた人たちの歴史って面白いよな。 大和飛鳥地域を含む高市郡は、別に今来の郡とも呼ばれた。
宝亀三年(七七二)、坂上苅田麻呂が、
高市郡内には朝鮮渡来の人々がみちみちており、
「他姓の者は、十にして一、二」と述べたくらいである。
大和の飛鳥文化がそれらの人々によって推進されたことは、
まぎれもない事実であった。
河内の飛鳥文化もそうである。
(上田正昭 京都大学教授)
河内飛鳥(大阪府)の文化は百済につながる人々によって創造された百済色の濃い文化であった。
(『河内飛鳥』山尾幸久・立命館大学教授) 古代ギリシャ、古代ローマも中華思想だな!w
近世スペイン、近世ポルトガルも!
ナポレオンもな!ww 奥州藤原家は金鉱山を所有してたから発展してただけで
それ以前は蛮族の地域だった。
坂上田村麻呂が平定しなければ、未だにイノシシを追う生活をしていた。www >>154
戦後に中国政府が自身の正当性を示すために
シナ地域を支配した少数民族政権を自身の歴史に組み込むために作り出した架空の思想
本来満州族やモンゴル系に隷属の立場にあった今の漢人が実は品地域の文化的支配者であるってファンタジーのこと 蘇我氏一門が大権力者にもかかわらず蝦夷、馬子、入鹿なんてろくでもない名前なのが本当の名前ではないのではないかというのと同じく、
不比等なんて名前誰がつけんだって話だよ
「くらぶべくもない」ってこったろ?
どうせ四兄弟が親父の死後に持ち上げて後から付けた名前なんだろう 京都人の井上館長。
いまだに京都以外を田舎者と蔑む京都の人が
古代東北を蛮族としていて何の不思議が。
だから何?としか言いようがない。 奈良や怒るがに長安にならってみやこを作ったし
そら大和朝の模範は中華よ
中華はじめました 巣伏の戦い
789年
場所:岩手県北上川流域
結果:蝦夷軍の勝利
交戦勢力:朝廷軍 蝦夷軍
指揮者:朝廷…征東将軍紀古佐美 蝦夷…アテルイ
戦力:朝廷軍10,000(前軍6,000中軍後軍4,000) 蝦夷軍1,500
損害:朝廷軍戦死1,051以上、戦傷者数不明 蝦夷軍戦傷戦傷者数不明 鋸引きで落とされたんだっけ
突っ張っていても所詮は 坂上田村麻呂の関東土人征伐で
一番最初に寝返ったのは埼玉土人 毎日が騙る歴史
全然普通に伝わらん気がするのは何故なのか >>1
夷荻って毎日の記者はどんだけ低脳なんだよ。
夷狄だろが。 アイヌとかとは関係ないとはいえ
アテルイとかモレとかて名前を聞くとなんとなく容姿が違った民族を想像してしまうな
まあしかし中華思想てのは朝鮮も小中華なんて自負してたくらいだしさすが兄弟だな つーか、制度的には中央集権を図る君主制だけど
中華思想とは言えないからそういう助命嘆願もあったんじゃねえの
田村麻呂だって官僚なんだしその後に参議にまでなってる
昔の参議は最低限な身分は必要だけど
位や官職を問わない天皇のシンクタンクなんだし 隼人って
大和朝廷に恭順してるのを示すために
イヌみたいにおなか出して
おちんちんびろーんしながら
隼人舞踊るんでしょ
ちがうの? 九州南部が朝廷の支配が及ぶようになったのは
班田収受法にさからって隼人の乱がおきてから
隼人の乱がおきる前ははっきりいって
朝廷の支配が及ばなかった地域といっていい
隼人の乱を鎮圧されて、しばらくたって公民と認められてから
班田収受法が適用されるようになった
当の班田収受法自体は制度がひどすぎて
すぐに制度崩壊がおきる 平安時代後期、金の産出により奥州は都を凌ぐほど栄えたそうだ ヤマトに征服して日本人にしてもらえなかった縄文人の成れの果てがアイヌなわけで
まあ土人もいいところでしょ >>87
蝦夷の子孫だよ。
四国に流されて、そこから散った。 現在は蝦夷の反乱政権安倍氏の時代か
下克上もいいとこだな
蝦夷のアベシ この場合の中華っていうのは中国とは関係ない
「自分が中心で華やかでその外側は野蛮」っていう思想って意味だろ もともと東北の蝦夷土人のルーツが
山陰のヤツラだからな
山陰の負け組が
東北へ落ち延びてる
出雲弁と東北弁が似てるのは
そのせい >>161
我蘇りし馬の子はイエスキリストの事だよね
古事記日本書記を鏡合わせで読むと中臣、秦、蘇我、物部も全部同一民族聖書の民と判るよ 三輪王朝国家が地方国家を併呑していくなか
戦で負けなかったのが蝦夷だからリスペクトしろよ
400年前後には朝鮮侵攻した大和王朝でも
東北平定が800年とかどんだけ強国だったのって話 >>181
大和朝廷が近畿で
出雲が島根で
蝦夷が東北なのに
この位置関係でもそうなるの? 秦氏なんてキルギス辺りから出てきた景教キリスト教信者だかんな
日本の仏教や密教なんて中身キリスト教の真似なんだよな >>173
隼人は武器を携帯して天皇近侍のガードマンみたいなことやってたのに
蝦夷に対しては「野性獣心、反復して定まりなし」として処刑
この差は何なんだろうな
帝の先祖が最初に戦った相手が隼人(海幸彦)だったっていう神話のおかげか?
性質が好まれなかったのか? 東北、北海道は雪で人間住めるはずないと思うんだけど。
古代人に板で外と区切る家を作る能力ないでしょ。 日向は恭順したんだから大和朝廷に組み込まれただけの話 蝦夷土人が住んでる場所との境目が
越後だからな
つまり辺境の地が越後
朝廷の公民と認められる田舎もんは越後まで
越後超えたら朝廷の公民と認められない土人の巣なワケ 未開な地の位置づけなら金印送らないだろw
奴国ですら金印送られてるし、邪馬台国も金印送られてる
この歴史資料館長アホじゃね 新潟でも沼垂城より先は
土人が住む魔界
概ね阿賀野川が境になる
新潟には渟足柵がある
コレで土人の侵入をふせいでた
渟足柵は
これより先は野蛮な土人が住んでたことを示す遺構になる 奥州藤原はもっと後だよ。
後三年の役で領地を得た。 聖徳太子の和をもって尊しとなすが全てを表してるんだよなあ >>191
元々の始まりが大陸からジョセフが若者男女3000人ひきつれて来たからかな >>195
今の歴史教科書って近隣諸国条項とか言うのが出来て、本当の歴史を教えられないんだよな
本来は百済や新羅は日本の属国だったのに、同盟国って書かれてるし、任那日本府はなかった事になってるし
しかも日本の古代が朝鮮よりも更に遅い平安までが古代史になるw
なんでそんな近隣諸国(韓国)配慮して嘘の歴史教えるのか疑問すぎる >>184
近畿近縁から押し出されて行ったということかね。
奈良の大神神社の大己貴命と同一とされる大国主命は京都丹波を経由して出雲へ行ったという言い伝えがあったり
大国主の息子の建御名方は長野に逃げたり、日本海側は独自の繋がりがある。
島根というと中国地方だから気づきにくいが、日本海側で、日本海側は海を通じて東北までルートがあった。
島根鳥取は馬鹿のことをダラと言うが、石川富山でもダラと言う。 >>3
「内部対立を煽って日本を分裂させたいです」って素直に書けばいいのにねw 征夷大将軍徳川に平定される以前の関東人なんて
みんな怪物のような醜い土人のイメージ
むしろまだ東北のほうがマシやねんけど 日本そのものが倭国、倭人なんて呼ばれてバカにされた国なんだけど
中華に貢ぎ物してたペーペーだかんな お前らってまるで大和朝廷の貴族や上級武士の純潔高潔な子孫かのように批判するな
実際は泥にまみれて雑穀食ってた田舎の農奴が先祖の奴が大半だろ 田村麻呂の息子の広野の遠い子孫だけど
田村麻呂のこと全然しらねえわ >>210
中国は一文字の国はまともな国扱いやぞ
二文字は見下してる国
倭は自国よりも劣るが対等だったって位置づけやぞ 鎌倉?
なにその田舎
征夷大将軍の坂上田村麻呂が土人しばいて
朝廷が征服するまで未開の土人地域だったからな >>1
>(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)
歪んだイデオロギーで歴史を騙っている時点で内容に価値は無いのに、
それを全国紙の紙面に載せる異常新聞、それが毎日変態新聞
HENTAI騒動の反省もなく、歪曲・偏向報道を繰り返す反社会集団 関東管領なんかは
いなかのヤクザの酋長みたいなもんだからな
みやこの酋長の管領より
遥かに格下 >>209
鎌倉武士って鬼のようなやつらだとおもうがな >>201
三内丸山遺跡のころは今より温暖だったんだろ? 関八州、関東管領はヤクザのナワバリと同じ
広域暴力団の支配ブロックの名残が関東地方になる >>210
ちなみに邪馬台国は金印貰ってます
朝鮮は何印?w
>>217
そう言う位置づけならええよ
近畿のなよなよした貴族よりええわw 日本書記の下敷きが史記なんだから仕方ない
とはいえ、初期の武士が蝦夷の戦術や装備をパクってるという説が広まってて30年前より自由な感じするよ 大和朝廷=ヤクザ
滋賀のちゃんこ屋でクレーム付けて集団リンチ殺人するようにして、全国にひろがっていった 中国の周辺諸国との戦いや文化交流の歴史に比べたらクソよクソ
そのおこぼれをちょっとだけ真似したのが倭人の倭国
仏教学んでくるなんていってキリスト教学んで帰ってくるレベルよ >>224
お前正月のテレ東のとんでも歴史見てただろw
あんなん信じるアホ居たんだ >>177
昔の稲は寒冷地で作るのには適さなかったから北海道まで行く理由がなかった
今は品種改良して北海道は米処 でまたエラの張った偽アイヌや蝦夷が賠償を要求スルニダって言い出すの? >>225
いろいろかわいそうに
倭人はこれだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています