【歴史】「大和朝廷は中華思想」「周辺は夷荻」「未服従の遅れた人々だと位置づけ」 蝦夷と坂上田村麻呂の足跡 ヤマトの外に独自文化
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清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
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坂上田村麻呂公園内にある墳墓=京都市山科区勧修寺東栗栖野町で、戸田栄撮影
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本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。
「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。
井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。
経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。
それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。
さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。
アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。
これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。
田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。
近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。
続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra >>354
ならなんで邪馬台国の支配層が刺青してたんだ?
Y染色体(男系)の方が縄文人の遺伝子が多いんだ?
駆逐されたのになんで日本人の殆どが縄文人の遺伝子を持ってるん? 天津神とかってあるべ?
中国の天津 やられちゃったべ >>359
なんどもうるせーんだよ倭人
中身のない話をなんどもするな
おしゃべりがすぎるわ こういうことを言う人は、お互いがお互いを殺し合ってたことを
意図的に無視するからなあ・・・
蝦夷は度々大和を襲撃してた歴史があるのに >>361
つまり邪馬台国の時にはすでにハイブリットが進んでて、縄文人も支配層だったって事
むしろY染色体と核ゲノムの比率から考えて、一夫多妻制当時支配層は縄文系が多かったのかもしれない >>363
呪術を信じた人たち、ってこと
主に蛇からの害とかを免れる為だっけ?
違ったっけ >>352
それで、別所、というか越境近辺に
けっこうB落が置かれたのですよね >>324
邪馬台国が九州でも機内でもどっちでもいいんだがとっかかりそのものが魏志倭人伝に準拠してるってだけだろ
つまり魏が承認した親魏倭王の話しでしかない、じゃあその親魏倭王さんはどんなもんだったんだかと考えれば
その話の中だけでも紛争があり別の政治勢力が存在するし
卑弥呼は共立された邪馬台国王出身の女だし、死ぬし
違う男系政権はできるし
その男系政権が新しく女を立てるし
こんだけ見ても複数の政治勢力があって、卑弥呼ですら
その実務的政治勢力任命された王だってのが解るし
その後の男王や政治不安から擁立されたとされる女王が邪馬台国出身なんて事は書いてないし
更には冊封下での国家権威の象徴な大事な大事な金印さんはどっか行ってるし
権威を継ぐべくして中華さんに参内したなんて話もないし
親魏倭王なんて後ろ盾を必要なしとする国家が誕生してる可能性の方が高いよ >>370
目を以下の人にすりかえても気づかないね
↓
島田紳助、間寛平、谷亮子
きちがいボクシング三兄弟の父親 >>324
邪馬台国は九州だけど邪馬台国時代に九州人が畿内人を皆殺しにして滅ぼして畿内で大和政権を作ったって言うのが大昔の本に書いてあるらしい >>371
>後ろ盾を必要なしとする国家が誕生してる可能性の方が高いよ
その根拠は?
可能性高いなら根拠しめせるよね? 渡来人の支配
三国史記 百済本紀
(阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。
太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。 >>375
昔は九州説が有力だった
でもその後畿内は
・黒塚古墳の33枚の三角縁神獣鏡
・都市整備された纏向遺跡
・卑弥呼の死と年代が一致する箸墓古墳
と完璧な条件が揃って、九州説を唱えるのは小説家ぐらいになったw
考古学者の殆どがもう畿内説 相手を夷などで中華思想を言い出すと大和朝の大元が帥升・卑弥呼になるんだけどね。
土蜘蛛やハギなど天神思想になると、シットホール発言のトランプになって
文明支配=階級構造と中央集権で組織の効率で負担を減らし豊かさを目指す一般(普遍)的な考えになる。
日本について文明は支那から借用だけど、ギリシャ・エーゲからローマと文明や神話の流れ以上に違いがある。 >>358
なるほど。。。で、その暴力団員の殆んどはチョン。 未開の地では産業なども遅れ口減らしが、普通におくれていたのは見なくともわかる
今の感覚では中央もかなり遅れていたろうが未開の地に比べればいくらかマシだったのではないか
動物に毛が生えた程度の生活を送っていたのは見て取れる
平均年齢30歳前後ではなかろうか 今日本人を駆逐したい人達が自分たちがこれから為そうとする侵略の罪を軽くするために、足掛かりにするべくやってる運動がこのスレだろう ヤクザもチョンも火病だしな
理性を持っていない獣だよ
穴があったらなんでも入れたいって奴 つまりヒミコはイセ神宮のミコ
初代斎王さま、ヤマトヒメ 卑弥呼って、壮大なサセコだったんじゃね?
それだと大和朝廷の支配層に縄文Y遺伝子がいるのも納得できる 7世紀に完成した5畿7道大宰府〜畿内〜多賀城がシルクロード >>1は華夷秩序を知らんのか?
近世まではたいていの国家でこの思想、制度があったわけだが
中華思想()痛いなあ >>385
つーか産業って農業、漁師、猟師だろ
農業以外は未開の方が良いんだから問題ないどころか好都合 弥生文明は北九州から日本海側をあっという間に北上し大和朝廷が侵略する以前に青森
まで到達していましたが。
だから、大和朝廷VS弥生の東北人の方が正解なんだよね。
そもそも、北朝鮮の船がいっぱい東北に漂着するように北朝鮮から流れつくようになってる。 >>1
陸奥守は朝廷から派遣された中央官僚であり蝦夷ではない。
陸奥の黄金は東大寺大仏造立の時に発見されたので、それ以前から東北の経済を支えていたわけがない。
奥州藤原氏の仏像は京都で製作し運ばれたという史料があるように、地方の仏師が作ったものではない。 >>397
漁具も農具も作れなかっただろうと
寒い冬を乗り切るのも大変だったろう 田夷と山夷に分かれていたし、人も結構行ったり来たり、また、ヤマト側から移住した者たちも多く手工業者や鍛冶も居たよ ルサンチマン扇動が命のメディア徒党ネットワークのルーチンワークみたいなものでしょ >>1
ま、その通りだけどな。
神武東征の前に、奈良に住んでた人もエミシだから。
非朝廷勢力。
大和朝廷とエミシの関係は、東西ドイツや南北朝鮮みたいな関係だよ。 >>384
チョン目というか遊牧民性の強いツングース目だと思う 男たちが山野に陣を構える間に里を襲い女子供をさらって人質にする作戦でようやく勝った前代未聞の卑怯者が田村麿。 大和朝廷とは数ある朝鮮王朝の一つでしかないってことだ >>410
百済・新羅って日本の属国だったんだけど
広開土王碑
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。
而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
百済と新羅は高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて
百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。
隋書 巻八十一 東夷伝 倭国
隋書 原文
右4行目から五行目
「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」
「新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い
仰ぎ、つねに使いを送り、往来している 」 既に社会性を持って小国家化しつつあった縄文集落が
ポツリポツリ流れてくる先進技術を持った渡来人を積極的に招くことで集落の優劣がついてきた時代だね >>9
ぷっw 隋書倭国伝より
新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來
新羅と百済は、どちらも、倭は大国で珍しい物が多いと考え、敬い見上げている。常に使者を通わせて往来している。 >>265
それは神道の穢れ(気枯れ)思想から。
死を悪として生(成長)を正として、死体に接する、処理する、肉を食うものを悪としていたから。
ちなみに神社で犬を入れるのを嫌うのは、腐肉を食べるかららしい w >>471
最初はエミシとの関係も上下関係なく、古事記神武東征誌によると、エミシを「愛瀰詩」と表記してたのな。
愛瀰詩、愛をあまねくするポエム。いい名前だろう。
中華思想が入ってきて、東側の外国人に東夷とか蝦夷と呼ぶようになったけど、蔑視感情ではなく、
勇猛果敢との印象から、蘇我蝦夷とか小野毛人とか佐伯今毛人とか鴨蝦夷とか、普通に貴人の氏名にも使われてた。
蔑視感情に変わるのは、桓武以降。 >>1
1000年以上も昔、そういう思想だったんだろうね。だから何?
ちなみに21世紀の現代でも、まるっきり同じ思想のままの国が潜水艦繰り出してるよね。
その国の現在の人権弾圧政策はどうするのさ、「世界人権問題研究センター」さんはよ?ww これもまた単なる想像・フィクション・どうとでも言える勝手な自己主張 >>415
清水寺縁起絵巻みると、エミシ軍が「日の丸」付けてるんだよな。 >>1
蘇我蝦夷や佐伯今毛人などの例から、
「えみし」は単なる蔑称ではなく「辺境の勇猛な部族」のような意味があった。 >>409
常陸風土記でも普通にある。
大陸を席巻した蒙古や今ではテロ・ゲリラや北鮮みたいなもんだな。
武士の形成(武力同士のルール化)と封建制(多武力配下のルール)で影は薄くなるが、戦いではどうしても蛮性は必要になる。 なるほど
ヤマト王権が征服王朝なのは理解していたが
渡来人としては朝鮮半島由来の人たちかと思っていたが
中国大陸系の人たちだったのかな 農耕民族が狩猟民族の領地をジリジリ奪っていったのは中華思想じゃなく世界的なもの >>424
人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。
他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める
魏志倭人伝
ですってさ >>406
「火怨・北の英雄 アテルイ伝」2013年
地上波でもNHK総合で放送していたそうだ。 >>208
蝦夷を征伐した京都政権の坂上田村麻呂が拝領した管外官の征夷大将軍が
京都から権力を奪う鎌倉幕府以降に使われるとは
皮肉なものです >>122
何が右傾化だよ、キチガイパヨク屋。
保守と言え、保守と。
何でもウヨクにしやがって 文字を持ってなかったのが一因だろうな。
文化があっても遠隔地に伝える手段がないと理解されない。 比較文化論で古代日本の北方文化学んだが、完全に独立国だったらしいね >>9
残念だったな
韓国が誕生したのは70年前だw 捏造乙
はるか昔は違う民族が住んでたから朝鮮は無関係な >>442
だから、朝廷が日本統一したとなるんだよね 普通に朝廷軍が蝦夷と戦うと勝てなかった。
なぜなら、エミシの武装がすごかった。
刀:蕨手刀、舞草刀←(湾刀=日本刀原型)
馬:奥州馬←(大型)
弓矢:夷(=弓と人)
鎧:蝦(=甲殻)
朝廷は、まともに戦ったら勝てないから、村々を焼き尽くした(=焼夷)。
昔の歴史家は朝廷軍が放火魔だと思いたくないからか、焼け焦げたエミシ遺跡のもみ殻をみて「焼き米」文化だと思ってたらしい。 ちなみに、坂上田村麻呂は金髪碧眼な。
当時の大和朝廷は大和朝廷に忠誠を誓うのなら、白人でも貴族になれた。
なお、邪馬台国に入れ墨の習慣があり、大和朝廷にはないことから、政権としての一体性には疑問符がついてるな。
なお激変説論者によると、「女王国の東、海を渡ること千余里で、また国々があり、これからもすべて倭種の国である。」が東日本島、
「また侏儒国はその南にあり、人々の身長は三、四尺で、女王国と四千余里離れている。」が北海道島だそうだ。
そして、東日本と西日本で色々違いがあるのは、そこに根があるという考え方。
その説だと、大和朝廷と蝦夷の争いも、いきなり地が乱れ(今風にいうとプレートの大移動がおき)、終わってみたら習俗が違うお隣さんができたとなるので、争いが起きて当然だわな。 ジャップはよく欧米人は原住民狩りをしていたから野蛮な国だとか言うけどさ、日本だってやってたということだよね
★「中国の伝統」(?) よくある質問★
Q)チンクっぽいのが「日本文化は支那(中国)文化を模倣したものアル!」ってわめいているけど
A)かなり違います。そもそも根本的な話として「中国」(中華民国)という言葉ができたのは
1910年代とかなり最近です。大陸の現地住民を懐柔するために帝国陸軍が使い
広まっていきました。それまでユーラシア大陸東南部は日本では「唐(から)」と
呼ばれていました。1500年以上前に日本が遣唐使送って参考にしたのは
モンゴル文化の濃い「唐」であり鮮卑族のその国は907年に滅んでいます。
いまの漢民族主体の中華人民共和国とは何の関係もありません。
Q)民族も国も違うのに一緒くたにされているんだ
A)ユーラシア東南部の支配民族は変わりまくっています。漢民族が支配した期間は短く
極最近です。こうした連中に何も教わっていません。それどころか「議会」とか
多くの言葉を日本が漢民族に教えています。
Q)「支那が起源アル!」なんてよく威張っているけど、ごまかしなんだ
A)印刷技術などもも周辺国が作ったのを自分が作ったように宣伝しているだけ。
餃子はアフガン→満州経由、拉麺は中央アジア→北部支那、炒飯も西洋のピラフが元です。
連中にそんな力はありません。いまと全く変わっていません。
Q)そういえば「中国」って民族名のような地名のようなとても曖昧だ
A)連中は意図的にこの辺りを混同して政治的に有利なように宣伝をしています。
「XXは支那(中国)が起源」と現支那人はよく言いますが、よく調べると違うことが多いです。
気を付けましょう。
===
★「支那」(ユーラシア大陸東南部)の歴史
19-21世紀 国民党/支那共産党(漢族)
17-19世紀 清王朝(満州族)
14-17世紀 明王朝(漢族)
13-14世紀 元王朝(モンゴル族)
10-13世紀 分裂時代
07-10世紀 唐王朝(鮮卑族)
03-07世紀 分裂時代
*2-03世紀 漢王朝(漢族)
BC2世紀前 分裂時代
【参考】 民族の言語 「ありがとう」 ※全く異なる点に注目※
モンゴル語 バヤルララー Баярлалаа ※鮮卑もモンゴル系
満州語 バニハー(baniha)
北京語 謝謝(xiexie) >>446
朝廷が統一した後は蝦夷を防人とかに採用したのは、馬を使った戦いに長けてたからなぁ 古代史や中世史何だから、当時の人間は劣ってると思ってるに決まってるだろキチガイ
今の尺度を古代史に持ち込むなよ。糞
頭の悪い奴は、すぐ歴史に現代の尺度を持ち込む
封建主義と近代の違いもわからない糞 阿多隼人は縄文時代後期から
九州北部〜九州西部〜沖縄を結ぶ貝製の腕輪の交易路を持っていたようです
海洋民は思ったより行動範囲が広いですね
それでは定例コピペ
これは対宮崎用なのでもうちょっと日向神話の文化人類学的考察や
大和朝廷への近習辺りを入れたものに変えたほうがいいかも
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>452
対大陸戦用に訓練された既存の兵士じゃ太刀打ちできなかったんで、対蝦夷戦用に生まれたのが武士の起源だしな。 宮城県の多賀城が正式な国境で、福島あたりまでが緩衝地帯だったかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています