【歴史】「大和朝廷は中華思想」「周辺は夷荻」「未服従の遅れた人々だと位置づけ」 蝦夷と坂上田村麻呂の足跡 ヤマトの外に独自文化★2
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清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
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本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。
「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。
井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。
経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。
それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。
さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。
アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。
これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。
田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。
近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。
続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra
★1が立った時間 2018/01/13(土) 23:52:48.50
前スレ http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1515855168/ 近畿の巨大な古墳とか成金みたいなノリを感じるからな。 アイヌ民族の独立
琉球民族を先住民と認め独立
エミシ、クマソの子孫を先住民と認め独立(遺伝子解析業者で調べる)
日本はアイヌ、琉球、愛瀰詩、熊襲、大和の連合国にする BC3,4万の古モンゴロイド(アイヌ祖)に春秋期揚子江やのち遼東、さらに魏志倭人伝帯方郡影響でヤマト王権、のち百済も交じって古墳文化。
と相場ができてるわな。
蝦夷熊襲文化は日本書紀成立前の縄文、弥生、ヤマト文化と混交済み。 自称アイヌの朝鮮人、
自称リュウキュウ人のシナ人に領土を明け渡せって事ね、
キチガイ学者が日本を滅ぼす、 渡来人は中国や朝鮮系ではありませんよ
漢語を使わない民でしたからね
さらに旧約聖書や原始キリスト教を信じる民でした
蘇我氏が渡来人のリーダーでしたが
サマリアやペルシアから中国と朝鮮を経由して渡ってきただけなのです お前らに本当の歴史を教えてやろう
あの有名な「白村江の戦い」は白村江だけで終わっていない
勝った勢いで唐軍は出雲に攻め入ってきた
当時、倭国は出雲王朝をトップとし、九州王朝
(ヒミカの国)などからなる連邦国家であった
既に戦力ボロボロの倭では戦いにすらならない
太平洋戦争で日本がアメリカに負けたときを思い出そう
東京裁判、新憲法、教科書、様々な政治体制が一新された
それと似たようなことが、白村江の戦後にも起きていた
東京裁判と同様に、出雲王朝の王族は処刑された
当時の唐のトップは女帝・則天武后
その名前をもらった「天武天皇」を擁立し傀儡とした
則天武后の別名を「照」と言い、
女神「天照」を頂点とした国家神道が作られた
天武天皇の指示で新たな歴史書が作られた
それを日本書紀、古事記と呼ぶ
中国では王朝の交代を「禅譲」と言う
革命を自己正当化するため、奪い取ったのではなく、
前の支配層から譲られたことにしたい、というヘンな建前だ
そしてそれを歴史書に書いて史実にしてしまう
「国譲り」神話を日本書紀、古事記という「歴史書」に書く
そういう発想は中国王朝しか思いつかない
また、中国の憲法、法律体系である「律令」を導入したものが
あの有名な大宝律令である
こうして政治・思想・イデオロギーは全て唐のものになった
「大和朝廷が中華思想」なのは当たり前である
「未服従の人々」=出雲王国の生き残り、と考えれば全て理解できる
唐軍の攻撃から生き延びた出雲人は東へ東へと落ち延びていった
だから、東北の人々は出雲人と近い、という話を今でも聞く
4つの諏訪大社に囲まれる長野の諏訪湖周辺も出雲の居留地となった
そうした出雲の生き残りの反撃を恐れ、大和朝廷(唐の傀儡)は
蝦夷と呼んで蛮族あつかいし、徹底的に追撃していった
「ヤマトの外に独自文化」とは、古代出雲王朝、倭国の文化のことである
大和朝廷は、藤原氏=藤氏=とうし=唐氏によって支配され、
その支配がばれない様に、様々な歴史書、遺物が消されたり書き換えられたりして、
日本の歴史は、チグハグで矛盾点の多いものになってしまった つい最近まで樺太あたりの原住民は土人扱いで法律まであったんだから、古代なんかもっとそうだろ >>641
↑
シナに侵略されて属国配の日本省になったときにそのように歴史改ざんする予定アルヨ 自称歴史研究家の「実は」。
100パーこじつけの売名行為だよ。
違うこと言ってみて注目集めたいだけ。 アイヌ、琉球、愛瀰詩、熊襲は住民投票で日本連合国から独立することが出来るようにする 白河以北が一山百文のしょーもない蝦夷地なのは事実やん
とうほぐの蝦夷地はもともと日本やないがな
とうほぐ大震災・頑張ろう日本って
お前ら蝦夷地は日本やないのになんで復興増税されなあかんねん
と思うてたわ 中華思想って思った事なかったなあ
アテルイはガリアのウェルキンゲトリクス的な立場かなと 畿内(京都)を中心とした直線距離
名古屋105km
出雲 277km
広島 311km
東京 368km
福岡 518km
仙台 582km
鹿児島616km
青森 781km
札幌 1018km
那覇 1246km 😊 日本の次の30年は明るい時代なので安心 ♪
> 日本経済には60年の長期周期がある
http://image.slidesharecdn.com/08124-120123045008-phpapp01/95/08124-46-728.jpg
http://kakashi490123.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/02/28/20100227.png
昭和の約60年は前半が経済周期の下側、後半が上側だった。
平成の約30年は下側だった。次の30年は上側の明るい時代。
😊 日本の次の30年は明るい時代なので安心 ♪ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) かつて、アメリカ先住民が海原に旅立ったとの伝承がある。
アイヌと沖縄の人々とアメリカ先住民の遺伝子は共通しているので、先住民が日本列島に移住した後、大陸からヤマト民族(ユダヤ人)が上陸した際に南北に別れた催し。 そりゃまあ
バビロニアにも拡大期があったから、結果バビロンは滅んだわけだろう
拡大期に従う地域が出るのは、
そりゃまあ
支配地域を拡大するねずみ講をねずみ講と見抜いたところで、
従って、守ってもらう側に回ったほうが滅ぼされるよりかは存続するだろう、
と地域の支配者も計算するんだろう こういう歴史を覆すような情報が増えたということは
今もまた権力が移行し歴史を書き換える時代ということなんだろう >>634
私も「阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)」は「悪路王と高丸」のことだと思っていたんだけど、
どうやら「大墓公と盤具公」のことみたいだね。(´・ω・`)
> 蛮賊の酋長大墓公盤具公等は手下の者六百余人を引きつれて官軍に降つたので、
> 田村麿はこの酋長等をつれて都に還り、『この二人をばお許しなされて奥州に帰し、
> 賊徒の押へとなされましたならば、非常な御便益と存じ奉ります。』と奏上したのであつた。
引用元:大町桂月 著『日本百傑 : 少年史伝. 上巻』 >>654
ウガヤフキアエズ子孫の自分、
wktk >>398
藤=とう=唐だからつまり藤原氏は中国の唐がルーツだからね >>408
源氏=げん=元=モンゴル人
平氏=ペルシャ系 >>657
うちの故郷に唐人伝説があるんだけど、
唐人は山で暮らしていて、村人から「大蛇」と呼ばれて忌み嫌われていたよ。 >>657
藤原氏の始祖は「大化の改新」で活躍した中臣鎌足。ここから藤原鎌足と名乗る
中臣氏のルーツを見た方が良いのでは >>657
主な唐からの帰化人は、この人たちだよ。
> 唐の帰化人の後に出でたるものに、清宗宿禰・清海宿禰・嵩山忌寸・栄山忌寸・長国忌寸・清川忌寸・新長忌寸・当宗忌寸・浄山忌寸等あり。
引用元:沼田頼輔 著『日本人種新論』 天皇や藤原氏も含め千年以上も日本列島という島国の中で文化を共有している民族=現代の多くの日本人
歴史の大部分を中国の属国として生きた朝鮮半島に住む民族とはメンタリティが違うのは納得
日本を選んだ渡来人は勝ち組 >>398 >>657
豊臣秀吉をそそのかして明を侵攻させたのは藤原氏、即ち、唐人
白村江の戦い後、唐人達は藤原氏として大和朝廷を操り、日本を支配した
しかしその後、則天武后は失脚し、度重なる内乱の末、唐は滅亡する
唐の支配層は旧知の藤原氏を頼り、宝物を携えて、日本に避難してきた
それが正倉院の宝物である
その後も藤原氏は「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」の苗字を名乗り、
唐人であることを表向きにはせず、大和朝廷、日本を影で支配し続ける
そして、戦国大名が覇権を争う時代となり、
藤原氏はどの戦国大名が自分達の意のままになるか?品定めをした
織田信長は朝廷の脅威となるので誅殺された
藤原氏に選ばれたのは秀吉であった
藤原氏=唐人達の悲願は、中国大陸での復権である
中国大陸は自分達(唐人)のものであり、
異民族によって作られた国家(当時は明)を滅ぼし
唐王朝を復興することが藤原氏の目的なのだ
秀吉は藤原氏の意向を受けて明に攻め入ろうとするものの、道半ばにして没した
秀吉の次に天下人となった家康は藤原氏の正体も陰謀も知っており、
朝廷の言う通りにはならず、かといって敵対もせず、
家康ならではの策略で朝廷を丸め込み、逆に弱体化させていった
そうして150年が過ぎ、幕末
中国大陸は清となっており、欧米の侵略を受け弱体化していた
藤原氏一族は滅ぶことなく貴族として連綿として家系を維持しており
中国大陸に唐王朝を復興する野望も捨ててはいなかった
清が弱体している今こそ、唐王朝を復興する最大のチャンスである!
藤原氏一族は総力挙げて明治維新を画策し、成功させ、
遅ればせながら中国大陸に日本軍を進出させる
そしてついに、満州国を作ってしまう
欧米列強の目的は植民地経営、三角貿易という経済利益のみであり「国を作る」という発想は無い
国を作るという発想は、中国大陸に王朝を復興する野望を持つ藤原氏一族だからこそなのだ >>664
戦国時代に暗躍した、宣教師という名のイエズス会工作員達のことに全然触れないのはなぜ? 藤原鎌足や藤原道長の嫡流の子孫である華族トップ近衛文麿の最期の地は
東京都杉並区荻窪(おぎくぼ)にある荻外荘(てきがいそう)。近衛文麿の自宅。
>>452
>夷荻って杉並区かよ
ありそうな町名だよねw
区内に荻窪・南荻窪・上荻・西荻北・西荻南・井荻は存在する。
でも杉並区は都内随一の意識の高さとトップクラスの大卒率を誇る地域だから
荻窪は特にブランドアドレス >>668
杉並は表向きはサヨクに見えるが
2005年、右派が作った「新しい歴史教科書」を全国の公立校で初の採択をしたのは杉並区
韓国人団体や左翼が各地から集まり抗議して区役所を取り囲んだが、構わず杉並は採択。
朝鮮人や中国人の割合も23区でトップクラスに低い ついにこういう話が表に出てくるようになったか
感慨深いねえ
ま、略して言うなら、連立政権で国を一つにしましょう、大いなる和という理念で、大和朝廷と名付け、その後難癖付けて攻め滅ぼし、独裁政権に移行したという話だな笑
だから古事記と日本書紀以外は認めませんという事
中国の文革を、日本は弥生時代のあたりに経験済みなわけだ
さてさて、今後もっと突っ込んだ話も出てくるだろう
独裁制が固まってからは、番頭がコロコロ変わっていっただけの話だしな
時には武士で、時には徳川で、時には薩長で…とね そもそも「天皇」などという名称は、>>641 でも触れられている中国の則天武后の時から始まってるわけだしね。
同時期に白村江の戦いがあって、その後日本では天武天皇が即位。
日本で最初に「天皇」と名乗ったのはこの天武。
普通に考えれば、「日本は (白村江の敗戦後に) 唐の支配化となった」 今の中国ができたのは戦後1949年
2009年には「成立60周年」イベントも中国で開かれ、もちろん中国人も了解事項
で、世界的に国として認知され国連に加盟したのは1971年、わりと最近の話 今の中国のフルネーム「中華人民共和国」の建国年は1949年
戦時中に日本が戦った国は「中華民国」 昔は、坂上田村麻呂が成敗した蝦夷と言えば「悪路王と高丸」だったのにねぇ。
やっぱり、問答無用で殺したのがマズかったのかしら?(´・ω・`) >>482
サムライって発音はヘブル語由来だよ
つまり、義に篤い武士道は、やまと(ヤハウェの民)由来 >>676
樺太と大陸は氷で陸続きなので簡単に渡れる、樺太から北海道経由で進行したモンゴルの騎馬隊が後に源氏になったと考えるのが自然じゃね?
そして当時の日本の中枢である平氏を滅ぼした、アイヌ人はモンゴルと同郷の吉見で仲が良かったので問題なし >>671
支配下の国にそんな称号許すわけないだろう
ただの王だよ
そこでこの説は崩壊する
それに隋書に、東の天皇西の皇帝に申すってのがなかったか? >>672
土蜘蛛はまつろわぬ土豪のうち出雲の残党の性格が強いかもしれないね >>513
漢字は日本人が作ったことが明らかになった三角形の幾何学な√3に隠されてたポリンキー >>538
結縄・木刻レベルの時代から存続してるんで >>543
弥生人って区分って厳密には存在しねーだろ?弥生式はあくまで地名であって土器に冠される単語 世界の文明の中心は日本だったらしいよ。
竹内文書に書かれている。 >>550
根は同じというのは別に矛盾せんよ?
大本はひふみ祝詞 >>672
肥前風土記には、ヤマトに協力的な土蜘蛛と反抗的で成敗される土蜘蛛両方出てくる
基本的には土豪のことだろう >>657
唐というか塔でしょうねまーメソポタミア系というかユダヤ系ですエセとは別なw >>14
館長の書き起こしにしても、わざわざ読み仮名ふって間違ってるのは謎すぎる
たぶんもう一人間に噛んでるな >>661
鎌足はモレ
中臣ってのが虫巨人が臣下になったって意味 >>689
彼我の違いを知ることは大切だよ。(´・ω・`) 山門・大和の地名は福岡市西区、福岡県みやま市(旧山門町)佐賀県佐賀郡大和町 とあり
奈良には山門、大和と呼ぶ地名は存在しない、要するに大和と言う国名は東征した支配者が
以前の居住地ヤマトの地名を付けただけ。福岡藩の福岡は福岡県には存在しない、黒田家が
住んでいた岡山県瀬戸内市福岡の地名を持って来ただけ、これと同じ理屈。 http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1476039220/
669 :名無しさん@1周年:2016/10/11(火) 21:53:46.94 ID:bOf8gWcR0
エミシもエゾもアイヌ語からきている。
アイヌ語で人間を意味する言葉の一つが
エンジュ(enzyu)。nは古くはmiであり
エミジュが古い言葉。ジュという濁音を
好まない大和民族がエミシュと言いエミシとなった
http://www.jiten.info/dic/Ainu.html
樺太のアイヌ民族は「エンチュ enchiw」または「エンジュ enju」という古語、雅語の自称をもっていた。 ゑみけ、ゑみこ、ゑみかの三姉妹
審神者ゑひこが北方千島列島のシャーマン >>691
ユダヤ系は新羅系の秦氏でしょ、天皇家も新羅系、その新羅系はキルギス経由でペルシャから渡ってきた失われた10氏族のガド族と言われてますね、
神社は古代ソロモン神殿の様式と完全に一致、
国造りも終わって都が完成した頃に藤原氏が台頭してきた、天皇家に近づきだまし討で都を乗っ取る、天皇家も手中に収める、
当時の天皇家の取り巻きを都から蝦夷に追放した >>582
世界人類は全部一緒近くまで遡らないと交わらないと思うw >>700
新羅は白木を語った黒木で百済が白
白はアーリア
黒はユダヤ >大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました
これは中国や日本に限らずどんな文明でも一緒やな
朝鮮ですら日本を蛮族だと思ってるから日本に対しわけのわからん差別をしてくる >>703
日本は文化人類の始祖だよ特亜も普通に仙人国扱いしてたよw ユダヤ人は被差別部落民だったんだよ。(´-ω-`) 756 :名無しさん@1周年:2016/10/12(水) 20:08:47.93 ID:zK5Oiu3C0
【古代】
「エミシ」という言葉が、はっきりと「エミシ」と訓むべき言葉として出るのは、
『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十月の条に載る久米歌の中においてである。
愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと)
比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)
歌の大意は、「えみしを人は一人で百人にも相当する強者(つわもの)だと言っているが、
俺たち皇軍には抵抗もせずにやられてしまった」というほどのことである。これは道臣命
(みちのおみのみこと)が大久米部(おおくめべ)をひきいる神武の軍が、ヤマトに入る前に、
忍坂(おしさか)(=現桜井市忍阪。奈良盆地の南東隅)で敵を宴会に招き、敵が酔いつぶれた
ところで一気に剣を抜いて殺してしまった後、戦勝を悦んで久米の子ら(=久米部の祖ら)が
歌った歌である。思いもかけぬ強敵を倒せたことの悦楽が歌われている、と言えるであろう。
「皇軍(みいくさ)大きに悦びて、天を仰ぎて咲(わら)ふ」と言われているのである。
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/emisi.htm
【平安時代】
空海は、蝦夷を「羅刹の流(たぐ)いにして非人の儔(ともがら)なり」(人を食う
鬼の類であって、非人=悪鬼の仲間である。)とか「人面獣心」と罵っているので
ある。
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-10.html
学問の神様菅原道真も、蝦夷の性は「狼子」であり、「野心」をもっているとのべ
ているのである(『菅家後集』)。さらに、帰服した蝦夷である俘囚でさえも、
律令国家の渡来系の支配層や平民とは民族的に違うことから、『類聚国史』には
「夷俘の性、平民に異なり」とかかれているし、『日本三代実録』にも、「夷俘の
性、本より平民に異なる」などと記されているのである。
【室町時代】蝦夷がエタに
室町時代には、「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。
穢多の子はいつまでも穢多である」という差別意識まで記した史料が明確に現れ
http://www.kyoken.jp/36/houkoku36/1houkoku36.htm >>690
意味が分りません
ウェルキンゲトリクス的な立場と言ったのは
蝦夷の蜂起とガリア人の蜂起を比較した上でですけど >>706
被差別部落は西日本に多いんだよ。
被差別部落の多くは宗教的な理由による職業差別なんだ。(´-ω-`) 出雲に行ったまま征伐しないで一緒にグデグデしてたとか扱いなのがアテルイとかアテナ >>710
商人に政治を舵取りをさせてはイケナイ!的な真理なんやろうねw >>709
実在の人物と神話は混同しないでください
しかも古事記や日本書紀でもないし >>713
注:名称はいっしょですが別物です
は逆に信じたらアカン!www >>714
レス辿ったらお前の書き込み滅茶苦茶じゃんw
真面目にレスして損したわw >>715
面白いやろw
無理に隠されてる話だからなw >>716
面白くもなければ説得力も何にもないわw >>717
じゃあ例えば漢字の作者の神話しってるか?w蒼頡っていうんだけど?www 「蒼頡が文字を作ったとき、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」
▽の一辺を2縦に割った線が√3
√3は八桁で1.7320508
太陽並みに熾れや と読める これは キリスト▽が油注がれたものって意味 油を注ぐ事によっ火星にもっと熱くなれよと無茶振りwww さて これが ユダヤのキリスト殺し ハイヌウェレ型神話の たらりー死体から穀物の話w
というわけでキリスト扱いの▽の一辺の2から√3を引いてみる
2−√3
八桁で0.2679492
鬼も泣くよ9(酉の刻)に
さて 蒼頡 の神話の
「蒼頡が文字を作ったとき、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」
が幾何学の計算結果と日本語から顕れる訳だがどうよ?wwww キリストの十字架は本来 ┬ 字型だったという話だがなぜ † なのか?
▽ の ┬ の 長いほう 2 を √3 で † の形で 長い方をブッタギッタからwそれが
2から√3 を引いた意味www メソポタミア神話が火星はラーム 金星はラハム
ラームはラム子羊でキリストで火星 あー後は1はひとつでひで日で太陽とかそんなとこか?
因みにこの計算式はイザナギの黄泉下りの神話にまだ連鎖したりもするwwwwwwwww 前スレで清水寺縁起絵巻を見るかぎりアイヌと蝦夷は関係なさそうとか言ってた奴が居たな
実際に蝦夷を見て書いたものじゃなかろうに
ああいう馬鹿は小野小町が十二単着てたと思ってだろう 縄文人は全人類の文化始祖で漢字も日本人が作ったってのは幾何学に隠されて残されていた!
>>717
信用してくれるな?
これで説得力ないわ!って言い出すならオマエは単なる工作員www >>660 >>662
唐からの帰化人はピンキリ
白村江の戦いの後、日本に占領軍として駐留し、朝廷に入り込んで日本を支配したのは、
当然、軍と官僚のエリート層である
太平洋戦争後のGHQのマッカーサーみたいなもんだ
下っ端の軍人達は本国や朝鮮半島の騒乱を鎮圧するためほどなくして大陸に帰ってしまった
その後、則天武后が失脚し、内乱が続いたあと、唐は滅亡する
朝廷に入り込んで日本を支配していた唐人達は、帰る場所を無くし、そのまま日本人となり、
大和朝廷を影から操る貴族(「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」)として暗躍することとなる
しかしそれ以外にも、当然、内乱を避けるようにして様々な階級、職種の人間が日本へやってきた
唐からの帰化人はピンキリである 熊襲族が京都に進出した名残は
日下部氏、鴨氏(賀茂、加茂)、内氏(宇治)に見て取れる
南九州の熊襲族の祭り(弥五郎どん祭り)
祭られる「弥五郎どん」は「武・内宿禰」と伝えられる
また熊襲征伐で討たれた首長であると伝えられる
当地一帯には今でも多くの内(うち)さんが現在も多数居住
地名にも 「内」を冠したものが多い
「内氏」が集中する地域は全国 で宮崎県南部と大隅半島一帯しかなく
熊襲族「武・内宿禰」の故郷、あるいはルーツであろう
その出自は南九州・日向の出身 で、いわゆる熊襲族の貴族と考えられる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています