X



【歴史】「大和朝廷は中華思想」「周辺は夷荻」「未服従の遅れた人々だと位置づけ」 蝦夷と坂上田村麻呂の足跡 ヤマトの外に独自文化★2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001泥ン ★
垢版 |
2018/01/14(日) 15:10:53.57ID:CAP_USER9
清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/01/11/20180111oog00m010020000p/9.jpg

 本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。

 「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。

 井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。

 経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。

 それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。

 さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。

 アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。

 これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。

 田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。

 近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。

続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra

★1が立った時間 2018/01/13(土) 23:52:48.50
前スレ http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1515855168/
0655名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 11:38:20.04ID:DBcmEEhN0
>>634
私も「阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)」は「悪路王と高丸」のことだと思っていたんだけど、
どうやら「大墓公と盤具公」のことみたいだね。(´・ω・`)

> 蛮賊の酋長大墓公盤具公等は手下の者六百余人を引きつれて官軍に降つたので、
> 田村麿はこの酋長等をつれて都に還り、『この二人をばお許しなされて奥州に帰し、
> 賊徒の押へとなされましたならば、非常な御便益と存じ奉ります。』と奏上したのであつた。

引用元:大町桂月 著『日本百傑 : 少年史伝. 上巻』
0657名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 12:17:43.42ID:ZSXrGOyU0
>>398
藤=とう=唐だからつまり藤原氏は中国の唐がルーツだからね
0658名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 12:27:57.65ID:ZSXrGOyU0
>>408
源氏=げん=元=モンゴル人
平氏=ペルシャ系
0660名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 12:50:16.97ID:DBcmEEhN0
>>657
うちの故郷に唐人伝説があるんだけど、
唐人は山で暮らしていて、村人から「大蛇」と呼ばれて忌み嫌われていたよ。
0661名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 12:54:42.51ID:ZME35mnz0
>>657
藤原氏の始祖は「大化の改新」で活躍した中臣鎌足。ここから藤原鎌足と名乗る
中臣氏のルーツを見た方が良いのでは
0662名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 13:01:41.93ID:DBcmEEhN0
>>657
主な唐からの帰化人は、この人たちだよ。

> 唐の帰化人の後に出でたるものに、清宗宿禰・清海宿禰・嵩山忌寸・栄山忌寸・長国忌寸・清川忌寸・新長忌寸・当宗忌寸・浄山忌寸等あり。

引用元:沼田頼輔 著『日本人種新論』
0663名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 13:14:48.20ID:ZME35mnz0
天皇や藤原氏も含め千年以上も日本列島という島国の中で文化を共有している民族=現代の多くの日本人
歴史の大部分を中国の属国として生きた朝鮮半島に住む民族とはメンタリティが違うのは納得
日本を選んだ渡来人は勝ち組
0664名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 13:21:57.16ID:4ngtR6GA0
>>398 >>657

豊臣秀吉をそそのかして明を侵攻させたのは藤原氏、即ち、唐人

白村江の戦い後、唐人達は藤原氏として大和朝廷を操り、日本を支配した

しかしその後、則天武后は失脚し、度重なる内乱の末、唐は滅亡する
唐の支配層は旧知の藤原氏を頼り、宝物を携えて、日本に避難してきた
それが正倉院の宝物である

その後も藤原氏は「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」の苗字を名乗り、
唐人であることを表向きにはせず、大和朝廷、日本を影で支配し続ける

そして、戦国大名が覇権を争う時代となり、
藤原氏はどの戦国大名が自分達の意のままになるか?品定めをした
織田信長は朝廷の脅威となるので誅殺された
藤原氏に選ばれたのは秀吉であった

藤原氏=唐人達の悲願は、中国大陸での復権である
中国大陸は自分達(唐人)のものであり、
異民族によって作られた国家(当時は明)を滅ぼし
唐王朝を復興することが藤原氏の目的なのだ

秀吉は藤原氏の意向を受けて明に攻め入ろうとするものの、道半ばにして没した

秀吉の次に天下人となった家康は藤原氏の正体も陰謀も知っており、
朝廷の言う通りにはならず、かといって敵対もせず、
家康ならではの策略で朝廷を丸め込み、逆に弱体化させていった

そうして150年が過ぎ、幕末
中国大陸は清となっており、欧米の侵略を受け弱体化していた
藤原氏一族は滅ぶことなく貴族として連綿として家系を維持しており
中国大陸に唐王朝を復興する野望も捨ててはいなかった

清が弱体している今こそ、唐王朝を復興する最大のチャンスである!
藤原氏一族は総力挙げて明治維新を画策し、成功させ、
遅ればせながら中国大陸に日本軍を進出させる

そしてついに、満州国を作ってしまう

欧米列強の目的は植民地経営、三角貿易という経済利益のみであり「国を作る」という発想は無い
国を作るという発想は、中国大陸に王朝を復興する野望を持つ藤原氏一族だからこそなのだ
0665名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 13:37:03.82ID:+mpn2z4y0
>>664
戦国時代に暗躍した、宣教師という名のイエズス会工作員達のことに全然触れないのはなぜ?
0666名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 13:38:59.85ID:ZME35mnz0
藤原鎌足や藤原道長の嫡流の子孫である華族トップ近衛文麿の最期の地は
東京都杉並区荻窪(おぎくぼ)にある荻外荘(てきがいそう)。近衛文麿の自宅。

>>452
>夷荻って杉並区かよ

ありそうな町名だよねw
区内に荻窪・南荻窪・上荻・西荻北・西荻南・井荻は存在する。

でも杉並区は都内随一の意識の高さとトップクラスの大卒率を誇る地域だから
荻窪は特にブランドアドレス
0667名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 13:41:09.42ID:YSVTKRx50
>>14
違和感の正体はこれか
0669名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 13:45:15.73ID:ZME35mnz0
>>668
杉並は表向きはサヨクに見えるが

2005年、右派が作った「新しい歴史教科書」を全国の公立校で初の採択をしたのは杉並区
韓国人団体や左翼が各地から集まり抗議して区役所を取り囲んだが、構わず杉並は採択。

朝鮮人や中国人の割合も23区でトップクラスに低い
0670名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 13:46:02.56ID:oOMj1CT/0
ついにこういう話が表に出てくるようになったか
感慨深いねえ
ま、略して言うなら、連立政権で国を一つにしましょう、大いなる和という理念で、大和朝廷と名付け、その後難癖付けて攻め滅ぼし、独裁政権に移行したという話だな笑
だから古事記と日本書紀以外は認めませんという事
中国の文革を、日本は弥生時代のあたりに経験済みなわけだ
さてさて、今後もっと突っ込んだ話も出てくるだろう
独裁制が固まってからは、番頭がコロコロ変わっていっただけの話だしな
時には武士で、時には徳川で、時には薩長で…とね
0671名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 14:03:06.45ID:+mpn2z4y0
そもそも「天皇」などという名称は、>>641 でも触れられている中国の則天武后の時から始まってるわけだしね。
同時期に白村江の戦いがあって、その後日本では天武天皇が即位。
日本で最初に「天皇」と名乗ったのはこの天武。

普通に考えれば、「日本は (白村江の敗戦後に) 唐の支配化となった」
0673名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 14:24:06.58ID:ZME35mnz0
今の中国ができたのは戦後1949年
2009年には「成立60周年」イベントも中国で開かれ、もちろん中国人も了解事項
で、世界的に国として認知され国連に加盟したのは1971年、わりと最近の話
0674名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 14:29:19.50ID:ZME35mnz0
今の中国のフルネーム「中華人民共和国」の建国年は1949年
戦時中に日本が戦った国は「中華民国」
0675名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 14:36:45.32ID:DBcmEEhN0
昔は、坂上田村麻呂が成敗した蝦夷と言えば「悪路王と高丸」だったのにねぇ。
やっぱり、問答無用で殺したのがマズかったのかしら?(´・ω・`)
0676名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 14:37:49.18ID:qU/NQQW9O
>>482
サムライって発音はヘブル語由来だよ
つまり、義に篤い武士道は、やまと(ヤハウェの民)由来
0677名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 14:59:54.31ID:8qqNLC4/0
>>676
樺太と大陸は氷で陸続きなので簡単に渡れる、樺太から北海道経由で進行したモンゴルの騎馬隊が後に源氏になったと考えるのが自然じゃね?
そして当時の日本の中枢である平氏を滅ぼした、アイヌ人はモンゴルと同郷の吉見で仲が良かったので問題なし
0679名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:13:43.84ID:z267S/cA0
>>671
支配下の国にそんな称号許すわけないだろう
ただの王だよ
そこでこの説は崩壊する

それに隋書に、東の天皇西の皇帝に申すってのがなかったか?
0680名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:19:28.22ID:jhMueP4v0
>>672
土蜘蛛はまつろわぬ土豪のうち出雲の残党の性格が強いかもしれないね
0681名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:21:10.04ID:aDtINyGF0
>>513
漢字は日本人が作ったことが明らかになった三角形の幾何学な√3に隠されてたポリンキー
0682名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:21:35.42ID:maVrerRG0
■近代植民地時代も、中華思想だな!
0684名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:24:12.23ID:aDtINyGF0
>>543
弥生人って区分って厳密には存在しねーだろ?弥生式はあくまで地名であって土器に冠される単語
0685名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:24:24.98ID:v3j5oh9e0
世界の文明の中心は日本だったらしいよ。
竹内文書に書かれている。
0688名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:28:41.84ID:ODShLbRg0
>>672
肥前風土記には、ヤマトに協力的な土蜘蛛と反抗的で成敗される土蜘蛛両方出てくる
基本的には土豪のことだろう
0689名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:28:57.93ID:UyexubuJ0
侍文化も中華思想

侍の教養は漢文
0691名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:30:34.86ID:aDtINyGF0
>>657
唐というか塔でしょうねまーメソポタミア系というかユダヤ系ですエセとは別なw
0692名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:30:54.80ID:GjExOfl60
>>14
館長の書き起こしにしても、わざわざ読み仮名ふって間違ってるのは謎すぎる
たぶんもう一人間に噛んでるな
0694名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:42:45.23ID:DBcmEEhN0
>>689
彼我の違いを知ることは大切だよ。(´・ω・`)
0695名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:48:46.06ID:fLMx6iYq0
山門・大和の地名は福岡市西区、福岡県みやま市(旧山門町)佐賀県佐賀郡大和町 とあり
奈良には山門、大和と呼ぶ地名は存在しない、要するに大和と言う国名は東征した支配者が
以前の居住地ヤマトの地名を付けただけ。福岡藩の福岡は福岡県には存在しない、黒田家が
住んでいた岡山県瀬戸内市福岡の地名を持って来ただけ、これと同じ理屈。
0696名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:53:45.70ID:qAaChqcC0
http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1476039220/
669 :名無しさん@1周年:2016/10/11(火) 21:53:46.94 ID:bOf8gWcR0
エミシもエゾもアイヌ語からきている。
アイヌ語で人間を意味する言葉の一つが
エンジュ(enzyu)。nは古くはmiであり
エミジュが古い言葉。ジュという濁音を
好まない大和民族がエミシュと言いエミシとなった

http://www.jiten.info/dic/Ainu.html
樺太のアイヌ民族は「エンチュ enchiw」または「エンジュ enju」という古語、雅語の自称をもっていた。
0697名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 15:56:08.96ID:kv5Ykxu90
前方後円墳
0699名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:07:45.66ID:nxHb2F620
ゑみけ、ゑみこ、ゑみかの三姉妹
審神者ゑひこが北方千島列島のシャーマン
0700名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:09:57.07ID:8qqNLC4/0
>>691
ユダヤ系は新羅系の秦氏でしょ、天皇家も新羅系、その新羅系はキルギス経由でペルシャから渡ってきた失われた10氏族のガド族と言われてますね、
神社は古代ソロモン神殿の様式と完全に一致、
国造りも終わって都が完成した頃に藤原氏が台頭してきた、天皇家に近づきだまし討で都を乗っ取る、天皇家も手中に収める、
当時の天皇家の取り巻きを都から蝦夷に追放した
0703名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:13:27.53ID:b0/CP6oF0
>大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました

これは中国や日本に限らずどんな文明でも一緒やな
朝鮮ですら日本を蛮族だと思ってるから日本に対しわけのわからん差別をしてくる
0706名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:22:02.34ID:qAaChqcC0
756 :名無しさん@1周年:2016/10/12(水) 20:08:47.93 ID:zK5Oiu3C0
【古代】
 「エミシ」という言葉が、はっきりと「エミシ」と訓むべき言葉として出るのは、
『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十月の条に載る久米歌の中においてである。

  愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと) 
比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

 歌の大意は、「えみしを人は一人で百人にも相当する強者(つわもの)だと言っているが、
俺たち皇軍には抵抗もせずにやられてしまった」というほどのことである。これは道臣命
(みちのおみのみこと)が大久米部(おおくめべ)をひきいる神武の軍が、ヤマトに入る前に、
忍坂(おしさか)(=現桜井市忍阪。奈良盆地の南東隅)で敵を宴会に招き、敵が酔いつぶれた
ところで一気に剣を抜いて殺してしまった後、戦勝を悦んで久米の子ら(=久米部の祖ら)が
歌った歌である。思いもかけぬ強敵を倒せたことの悦楽が歌われている、と言えるであろう。
「皇軍(みいくさ)大きに悦びて、天を仰ぎて咲(わら)ふ」と言われているのである。
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/emisi.htm

【平安時代】
空海は、蝦夷を「羅刹の流(たぐ)いにして非人の儔(ともがら)なり」(人を食う
鬼の類であって、非人=悪鬼の仲間である。)とか「人面獣心」と罵っているので
ある。
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-10.html

学問の神様菅原道真も、蝦夷の性は「狼子」であり、「野心」をもっているとのべ
ているのである(『菅家後集』)。さらに、帰服した蝦夷である俘囚でさえも、
律令国家の渡来系の支配層や平民とは民族的に違うことから、『類聚国史』には
「夷俘の性、平民に異なり」とかかれているし、『日本三代実録』にも、「夷俘の
性、本より平民に異なる」などと記されているのである。

【室町時代】蝦夷がエタに
室町時代には、「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。
穢多の子はいつまでも穢多である」という差別意識まで記した史料が明確に現れ
http://www.kyoken.jp/36/houkoku36/1houkoku36.htm
0707名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:23:45.01ID:HhbSJMbn0
>>690
意味が分りません
ウェルキンゲトリクス的な立場と言ったのは
蝦夷の蜂起とガリア人の蜂起を比較した上でですけど
0710名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:25:11.09ID:DBcmEEhN0
>>706
被差別部落は西日本に多いんだよ。
被差別部落の多くは宗教的な理由による職業差別なんだ。(´-ω-`)
0711名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:25:52.77ID:aDtINyGF0
出雲に行ったまま征伐しないで一緒にグデグデしてたとか扱いなのがアテルイとかアテナ
0713名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:36:18.16ID:HhbSJMbn0
>>709
実在の人物と神話は混同しないでください
しかも古事記や日本書紀でもないし
0715名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:39:35.32ID:HhbSJMbn0
>>714
レス辿ったらお前の書き込み滅茶苦茶じゃんw
真面目にレスして損したわw
0718名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:46:14.86ID:aDtINyGF0
>>717
じゃあ例えば漢字の作者の神話しってるか?w蒼頡っていうんだけど?www
0719名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:49:50.72ID:aDtINyGF0
「蒼頡が文字を作ったとき、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」

▽の一辺を2縦に割った線が√3

√3は八桁で1.7320508

太陽並みに熾れや と読める これは キリスト▽が油注がれたものって意味 油を注ぐ事によっ火星にもっと熱くなれよと無茶振りwww
0720名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 16:53:51.37ID:aDtINyGF0
さて これが ユダヤのキリスト殺し ハイヌウェレ型神話の たらりー死体から穀物の話w

というわけでキリスト扱いの▽の一辺の2から√3を引いてみる

2−√3

八桁で0.2679492

鬼も泣くよ9(酉の刻)に

さて 蒼頡 の神話の

「蒼頡が文字を作ったとき、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」

が幾何学の計算結果と日本語から顕れる訳だがどうよ?wwww
0721名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 17:02:58.39ID:aDtINyGF0
キリストの十字架は本来 ┬ 字型だったという話だがなぜ † なのか?

▽ の ┬ の 長いほう 2 を √3 で † の形で 長い方をブッタギッタからwそれが

2から√3 を引いた意味www
0722名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 17:05:32.96ID:aDtINyGF0
メソポタミア神話が火星はラーム 金星はラハム

ラームはラム子羊でキリストで火星
0723名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 17:07:01.16ID:aDtINyGF0
あー後は1はひとつでひで日で太陽とかそんなとこか?

因みにこの計算式はイザナギの黄泉下りの神話にまだ連鎖したりもするwwwwwwwww
0724名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 17:14:35.84ID:Pbdf6nCU0
前スレで清水寺縁起絵巻を見るかぎりアイヌと蝦夷は関係なさそうとか言ってた奴が居たな
実際に蝦夷を見て書いたものじゃなかろうに
ああいう馬鹿は小野小町が十二単着てたと思ってだろう
0725名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 17:16:36.64ID:aDtINyGF0
縄文人は全人類の文化始祖で漢字も日本人が作ったってのは幾何学に隠されて残されていた!

>>717

信用してくれるな?

これで説得力ないわ!って言い出すならオマエは単なる工作員www
0726名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 18:03:17.80ID:wuHfZaPH0
>>660 >>662
唐からの帰化人はピンキリ

白村江の戦いの後、日本に占領軍として駐留し、朝廷に入り込んで日本を支配したのは、
当然、軍と官僚のエリート層である
太平洋戦争後のGHQのマッカーサーみたいなもんだ

下っ端の軍人達は本国や朝鮮半島の騒乱を鎮圧するためほどなくして大陸に帰ってしまった

その後、則天武后が失脚し、内乱が続いたあと、唐は滅亡する
朝廷に入り込んで日本を支配していた唐人達は、帰る場所を無くし、そのまま日本人となり、
大和朝廷を影から操る貴族(「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」)として暗躍することとなる

しかしそれ以外にも、当然、内乱を避けるようにして様々な階級、職種の人間が日本へやってきた
唐からの帰化人はピンキリである
0727名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 18:32:48.95ID:WlGov7sW0
熊襲族が京都に進出した名残は
日下部氏、鴨氏(賀茂、加茂)、内氏(宇治)に見て取れる

南九州の熊襲族の祭り(弥五郎どん祭り)
祭られる「弥五郎どん」は「武・内宿禰」と伝えられる
また熊襲征伐で討たれた首長であると伝えられる
当地一帯には今でも多くの内(うち)さんが現在も多数居住
地名にも 「内」を冠したものが多い
「内氏」が集中する地域は全国 で宮崎県南部と大隅半島一帯しかなく
熊襲族「武・内宿禰」の故郷、あるいはルーツであろう
その出自は南九州・日向の出身 で、いわゆる熊襲族の貴族と考えられる
0729名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 18:43:57.16ID:wW0uITG80
わかりませんw
0731名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 18:49:16.06ID:tK3SspC00
本家中華圏は周辺民族に征服されまくりなのにな
ああ鎌倉時代に東エビスに征服されてるかw
0732名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 19:16:37.11ID:/KE5zdQ10
日本は白村江の戦いの後も、朝鮮半島に非常に強い発言力を持っていた

 夏五月(なつさつき)の戊申(つちのえさる)の朔甲子(きのえねのひ)に、百済の鎭將劉仁
願、朝散大夫郭努?等(てうさんだいぶくわくむそうら)を遣(まだ)して、表函(ふみひつ)と獻
物(みつき)とを進(たてまつ)る。

天智三年五月十七日、百済を占領していた唐の将軍の劉仁願は朝散大夫(階位 日本では従五位
の下に該当)の郭努?(不詳)らを使者とし、日本に箱入りの手紙と貢ぎ物とを持ってきた

このとき唐は、百済を占領することについて、日本の諒承をもとめてきた。
日本政府はこれを国使と認めず、筑紫の太宰府で処理し、都への入城を許さなかった(海外国記
 九世紀末 藤原佐世 撰)
0733名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 19:17:24.61ID:/KE5zdQ10
渡来人の支配

万年奴隷

>隋書百済伝 『其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人』
>新羅本紀  『十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人』
>三国史記 『瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公』
>新羅本紀 『脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里』
>三国史記 『元年三月、與倭国通好。以奈勿王子未斯欣為質』
>新羅傳 『其言語名物、有似中国人』
>辰韓伝 『辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役来適韓國』
>梁書『新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬』
>百済伝 『百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海』
>百済伝 『其言参諸夏、亦秦、韓之遺俗云』
>東夷傳百済 『其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶』
>高麗史・耽羅神話 『我是日本國使也、 吾王生此三女、云西海中嶽降神子三人、將欲開國』
>日本書紀、唐貞観十六年条  『百済反覆之国、不可信也』
>広開土王碑 『百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民』
>隋書『新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來』
>三国志魏書『桓、靈之末、韓?彊盛、郡縣不能制、民多流入韓国。』
>部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。
0734◆HKZsYRUkck
垢版 |
2018/01/15(月) 19:21:24.90ID:Kd/U1PSO0
>>655
田村麻呂将軍はいい奴だったけど、都の貴族たちが
集団ヒステリーを起こして二人に一切の抗弁の機会を与えず
殺してしまったのだ。
…てな話だが、これってどこまで史実なんじゃろ?

近世までの東北での田村麻呂像は
「極悪非道な悪路王を討ち滅ぼして、民の苦しみを救った英雄」
だもんね。
だから、東北各地の古刹や神社は、やたらと大同二年創建を謳うものが多い。
0735名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 19:35:07.25ID:lyfLHCgn0
>>500
母系のミトコンドリア遺伝子で比較すると、縄文時代の東北と関東はその構成が大きく違うことがわかっている。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/16acindex.files/image053.gif
関東の縄文人の構成は現代日本人に近い。
核ゲノムは父系と母系の双方を見るものなので、東北の縄文人と現代の東京周辺ではその数値なのは当然
と言える。
混血が進んだ現代日本人でこうであるのだから、そうではない海外の隣接地域はかなり小さい数値になるのでは?
0736名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 19:41:14.00ID:lyfLHCgn0
>>734
そりゃ奥羽の蝦夷全てが朝廷に反旗をひるがえしたわけではないからね。
関東以西からの移民も蝦夷の襲撃を受けたりしていたし。
0737名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 19:45:56.22ID:wuHfZaPH0
お前らに本当の歴史を教えてやろう

そもそも日本列島で人類が自然発生したのではないから
日本人のルーツは全て日本列島の外からやって来た
全ての日本人は渡来人である

どの民族が一番乗りしたか? それを議論したがる人達が多いが、
一番乗りした民族にその土地を征服する権利があるわけではない
どの民族が一番乗りしたかを議論することはあまり意味が無い
様々な民族が様々な時期にやって来るが、結局、全ては大陸からやってきたのだ

中国大陸の長江流域に稲作文化の農耕民族がいたが
黄河文明の騎馬民族に度重なる侵略を受け、東へ東へと避難し、
苦難の旅の末、日本の九州にたどり着いた
そして彼らは九州で稲作を行い、米の栄養価と生産性の高さによって大きく繁栄した
田んぼを次々に開拓しつつ九州の各所へ広がり、様々なムラを作り、九州王朝となった

概して言えば、この農耕民族が多くの日本人のベースとなっている

さて、中国大陸では漢民族が中央を制して王朝を作り、
東西南北の異民族を蛮族として敵視する「中華思想」のもと、
特に北方異民族(騎馬民族)と度重なる戦争を繰り返していた

紀元前663年、中国の「斎」に滅ぼされた「山戎(えびす)」という民族がいた
彼らは朝鮮半島を経由して日本列島にやってきた
彼らは大陸の高度な文明を持っていて当時の日本人に歓迎される
そう、エビス様だ
彼らはそのまま日本人に融合していき、日本はさらに栄えて、
日本人の勢力圏は西日本、奈良の方まで一気に広がった


さて中国大陸では北方騎馬民族同士も争いを繰り広げており
「東胡」という民族が「匈奴」に攻め滅ぼされ、
紀元前1世紀頃、日本列島にやってきた

当時の日本人は製鉄技術をもっていなかったのだが東胡はそれをもっていた
鉄の武器をもつ騎馬民族によって当時の日本は簡単に蹂躙されてしまう

鉄の原料となる砂鉄が豊富な島根県の斐伊川上流に東胡は拠点を作り
周辺の日本人を奴隷化してしまった
この状態がしばらく続く

され中国大陸では匈奴に滅ぼされた東胡の残党が鮮卑となって勢力を盛り返し、
逆に匈奴を滅ぼしてしまった。そして彼らも日本列島にやってくる。

匈奴の人達は、かつて敵であった東胡と、それに蹂躙されている日本人を知る
匈奴は日本人に力を貸し、東胡と戦うことを決意する
匈奴も製鉄技術を持ち、鉄の武器をもつ騎馬民族なのだ

そうして匈奴と東胡の遺恨試合が日本列島で繰り広げられ、結果、匈奴が勝利する
この時の騒乱が倭国大乱として記録され、匈奴の王の名をスサノオと呼ぶ

スサノオは友好的に日本人と和合し、九州王朝の代表者ヒミカと同盟を結び
「和を持って尊し」の精神で、連邦国家「和」が誕生した
倭は中国人が書いた蔑称であり、本来正しい名前は「和」なのだ
騎馬民族と農耕民族の融合によって古代日本人の原型がこうして形成され、
出雲の作る鉄製農機具によって米の生産力が上がり日本は大きく発展する

スサノオは出雲を拠点にした出雲王朝を建国し、朝鮮半島南端まで支配下においた
0738名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 19:50:22.09ID:lyfLHCgn0
>>710
西日本に多いのは、仏具や武具の作成に使う材料の中に革があり、南都の寺院などがその職人集団を囲っていた
から。
戦国時代まで南都の寺院は各地の大名、武家から武具の発注を受けていたが、大名も被差別部落の職人を独自に
囲うようになった。
革以外の材料の調達も必要だから、被差別部落は革を扱うものだけではなく山林や水利の管理権限を与えられた
ものもあった。
庶民が入れない禁足地の山林に入って木々などを利用する特権を持っていた特権者でもあった。
0739名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 20:02:08.22ID:/KE5zdQ10
>>737
渡来人の支配


新羅も百済も王族最上位層が日本人だったし
新羅・百済よりも格上だったのが任那伽耶日本府で
(これは都道府県の一部の扱い)
新羅・百済を服属させ管理監視監督する役割だった
韓国朝鮮側が卑しくて自国女性を対外的に貢ぐ
差し出す献上する奪われる側だった
0740名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 20:14:04.17ID:lyfLHCgn0
>>538
今はウラル・アルタイとひとくくりにはしてないよ。
同系統だとする根拠が見つかってないから別の言語集団と見られている。
遺伝子学的にも違う集団だしね。
朝鮮半島は周辺の集団から流れてきた者たちが雑居していた場所で、史書にもその様子が書かれており倭人も
半島にいたことが文献と考古学でわかっている。
0741名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 20:19:57.38ID:lyfLHCgn0
>>737
東胡は烏桓や鮮卑になったが、それらと同じ習俗を持つ墓が日本列島から出ているのか?
0742◆HKZsYRUkck
垢版 |
2018/01/15(月) 20:20:41.50ID:Kd/U1PSO0
>>736
それはそうだよな。
でも、それにしても田村麻呂をあそこまで称揚するのは、
やっぱり不可解な気がする。
先祖を辿れば蝦夷の人もけっこう居ただろうに。

けっきょくのところ、大和朝廷の同化政策がよっぽど
巧みだったということなんかな。
0744名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 20:25:28.10ID:aDtINyGF0
>>734
相手方が見ざる言わざるしたので聞かざるで応対した的な神話的アトモスフィアを感じる
0745名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 20:26:48.92ID:aDtINyGF0
>>737
日本列島は散々ムー扱いされててムーは散々人類の最初の発生地点扱いされてるんですが?w
0747◆HKZsYRUkck
垢版 |
2018/01/15(月) 20:39:29.47ID:Kd/U1PSO0
>>744
ううむ。
よくわからんが、そういう寓意を組み込んだフィクションということかしらん。
0748名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 20:45:16.44ID:aDtINyGF0
>>747
世界の別つの場所で起こった出来事を日本列島内で起きた事として扱った話臭い
あくまで場所を偽っただけだとも思うけども主体は大和朝廷なんだろうけども
0750名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 20:54:04.34ID:aDtINyGF0
>>749
これの内訳は実はこういうことだからコレな!っては言ってるが何々は陰謀ニダ!とかはどっかで言ってたっけか?????w
0751名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 21:05:37.82ID:lyfLHCgn0
>>620
その記事の内容を見ると、2003年以前の説を元にしているとしか見えないのだが。

>アジア大陸からは紀元前200年ごろに人の流入があり、金属製の道具やコメ、農業技術がもたらされたが、

>もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を
>及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換え
>られたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が有力であることを示している。

>さらなる証拠を求めて、東京大学(University of Tokyo)の長谷川寿一(Toshikazu Hasegawa)教授とリー・
>ショーン(Sean Lee)氏は、数十の方言の年代をさかのぼり、共通祖先を見つけようと試みた。
0752名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 21:07:56.07ID:a88REbkI0
>>679
> 支配下の国にそんな称号許すわけないだろう
> ただの王だよ

そうかな?

後に唐は後に滅びて、権力層は日本へと亡命している

よって、天武の即位当時は天武を「天皇」と呼んだかどうかはわからんが、
唐から日本へと唐の権力層が亡命して「藤(=トウ=唐)」「原」氏として
日本を牛耳るようになって以降、過去の天武に遡って「天皇」との称号を当てたと
考えれば筋が通る
0753名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 21:09:59.34ID:/KE5zdQ10
>>641
渡来人の支配

●中国歴史書である「宋書」(488年頃成立)に、倭王の歴代が「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と称していたという記録がある。
また、倭国王済が宋の文帝から、451年に「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍、倭国王」に旧来のように加号されたという記録がある。

●隋書 巻八十一 東夷伝 倭国
「百済と新羅はみな、日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、つねに通使・往来している」と述べている。

●梁職貢図新羅題記
「斯羅は元は東夷の辰韓の小国である。魏の時代には新羅といい、宋の時代には斯羅というが同一の国である。あるときは韓に属し、あるときは倭に属した。
新羅の習俗は高句麗に似て、文字はなく木を刻んでいた。言葉は百済の通訳を待ち、通じていた」とある。
0754名無しさん@1周年
垢版 |
2018/01/15(月) 21:10:47.20ID:lyfLHCgn0
>>750
これは陰謀論、事象を操作して真実を伏せていると言う主張だろ?

748 名無しさん@1周年 sage 2018/01/15(月) 20:45:16.44 ID:aDtINyGF0
>>747
世界の別つの場所で起こった出来事を日本列島内で起きた事として扱った話臭い
あくまで場所を偽っただけだとも思うけども主体は大和朝廷なんだろうけども
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況