【歴史】「大和朝廷は中華思想」「周辺は夷荻」「未服従の遅れた人々だと位置づけ」 蝦夷と坂上田村麻呂の足跡 ヤマトの外に独自文化★2
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清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/01/11/20180111oog00m010020000p/9.jpg
本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。
「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。
井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。
経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。
それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。
さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。
アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。
これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。
田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。
近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。
続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra
★1が立った時間 2018/01/13(土) 23:52:48.50
前スレ http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1515855168/ >>808
文字を持ってきたのは中華まん渡来人
キムチ野郎は文盲で外国語である漢文なんか読めなかった >>809
漢とはガンガの事メソポタミアシュメール系扱いです だから本来の漢字とは楔文字の事を言うんじゃないかと思うんだよなぁ もしかしてこのスレ、俺も含めて全員酔っ払いなのだろうか? それを見て今のに繋がる漢字を作ったのが当事の日本人 >>814
じゃあ酔いを醒ますか目を覚ますかしてからもう一度考察するんだ!www >>726
そんなに優秀な唐人なら、秦氏みたいに地域産業を興して欲しいものだね。
そういえば、尾張には唐に関する伝説があったね。
> 熱田神宮境内清水社の辺に、楊貴妃の石塔とて小五輪形の石ありき、貞享三
> 年、神宮修理の時廃絶して、今は其伝説のみ残れり、唐玄宗、日本を取らんとす、
> 時に熱田の神楊貴妃に化し、玄宗の心を乱し、日本を討つの謀を止め給ひぬ、
> 後また貴妃馬嵬ヶ原にて殺されしを、方士を遺はしてそが魂を尋ねられしに、
> 太真殿とありし額を見て、貴妃の有りと云へる蓬莱山にこそとて参りける
> となん、是れ熱田の社なり、故に其後は此地を蓬ヶ島ともいへり、方士を蓬莱に
> 遣はすことは、長恨歌に作りたる小説なり、暁風集に熱田大明神は楊貴妃な
> りとあり、随つて楊貴妃といふ謠曲も出来、仏像図絵に日蓮宗の三十番神の
> 像に、熱田大神を楊貴妃の様に書きなしたり、一説にかの五輪塔は楊貴妃が
> 立てられし経塚を誤れるにやあらんと云へり、
引用元:名古屋市 編『名古屋市史. 風俗編』 >>817
すげー、熱田神宮に楊貴妃伝説があるのか!
俺は下関の楊貴妃の墓にはお参りしたけど、こっちは知らなかった。
>>816
いや、もう寝るw >>817
楊「貴妃」の一族が中国にいられなくなったので脱出して日本へと亡命し、その一族が後に「吉備」と呼ばれたって説があることはあるね
http://www.kibiburu.com/yagisi.html
吉備真備の母親は楊貴氏の娘であると、奈良県五條市から出土した"楊貴氏墓誌"
に記載されています。
楊貴氏というのは、"ヤギ-シ"と読むのですが、音韻を同じくする八木氏の
ことで、中国(唐)帰りの真備が中国風に八木を楊貴と書いたのではないか、
という説が有力のようです。
では、なぜ、楊貴という字を当てたのか?
この点が大きな疑問点として残っています。諸説あるようですが、その中に、「楊貴妃からとったのではないか?」というものがあります。 >>810
ハングル前は半島は普通に漢字を使ってましたが?
半島からいただいた国宝の百済仏の由緒書だって漢文だったわけだし
つうか日本人を猿から人間にしていただいた渡来人のほとんどは半島人ですよ ヤマト朝廷の支配階級は九州から来た大陸系で支配されたのは朝鮮半島からの
弥生人だな、征服者は民衆を謀反を起こさせないように巨大古墳作りをさせて
謀反を起こすエネルギーを無くし、支配者に忠実になるようにした訳だ。 文字、暦、稲作、火、法律、陶器など
文化の全て半島の渡来人からいただいた
これは否定をできん >>820
使ってたのは支配者系の高句麗人とかだけやないの?そこんとこらどう考察すんの??? >>820
>半島からいただいた国宝の百済仏
半島人はいまだにこんな馬鹿な事を言ってるんだな >>608>>609>>619
日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大
http://www.afpbb.com/articles/-/2798334
日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来することが、
進化遺伝学の観点から明らかになったとする論文が、4日の学術専門誌「英国王立協会紀要
(Proceedings of the Royal Society B)」に発表された。
もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に
大きな影響を及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語
もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が
有力であることを示している。
■方言の共通祖先の年代は?
?さらなる証拠を求めて、東京大学(University of Tokyo)の長谷川寿一(Toshikazu Hasegawa)
教授とリー・ショーン(Sean Lee)氏は、数十の方言の年代をさかのぼり、共通祖先を見つけようと試みた。
?この手法はもともと進化生物学において、化石から採取したDNA断片から系統樹を作成し、数百万
年前の祖先までさかのぼる目的で開発されたもの。リー氏によると、言語に適用することには異論もあるが、
これまでの実験結果などから、言語には遺伝子のような特性があり、代々の継承を通じて進化することが
推定されるという。
?2人は、体の部位、基本動詞、数字、代名詞などの主な210単語について、59方言でリストを作成。
数千世代にわたり改変されていない、いわゆる「高度保存遺伝子」を見つけ出すのと同じ要領で、他の
方言に影響されていない「変化耐性」を持つと思われる単語を選び出し、コンピューターでモデル化した。
?すると、これらの単語はすべて約2182年前の共通祖先に行き当たった。この年代は、朝鮮半島から
大量の渡来人が来た時代に当たる。 >>820
今の韓国人の直接的なルーツは新羅にあり
新羅の直接的なルーツは辰韓(しんかん)にある
辰=しん=秦のことである
秦の始皇帝に滅ぼされた国の人々が奴隷となり
長城の建設に使役されていたものの、
出エジプトの様に集団で大脱走して
長い間自分達の国を持たない流浪の民だった
昔、朝鮮半島の南半分は出雲王朝の領土だった
そこへその流浪の民がたどり着いた
優しい出雲人は、朝鮮半島の一部を居留地として分け与えた
(その後の展開は >>777 )
つまり、今の韓国人のルーツをたどると、
実は、朝鮮半島の人々ではなかったという、
驚きの事実が判明する 謎解きするのは確かに困難を伴うけどね
下から積み上げていく考えがある程度完成したら
全体像から直感する全ては神の顕れだと悟る訳
超越した思考体系さえ構築出来れば簡単単純合理的 >>820
猿は、縄文人のようにサステナブルな計画的植樹を行えません >>825
これはひどい。こいつら有効桁数の概念すら持ち合わせていないんだろうか? あんね渡来人ってほとんどが半島なんだよね
大陸から、ごくわずか日本に渡れたけれど
鑑真が渡航を試みて何度も遭難
最後は視力を失ってまでして、やっと来日できたくらい
中国からの渡航は難易度が高かった 遣唐使以前の半島渡来人からの文化って
むしろ生粋の漢文化エッセンスを日本は半島から享受したんだよ
中国本土はすでに北方民族支配なってたわげだしな 文字は重要過ぎる
インカ文明に文字はなく、アステカ文明には文字があった
インカ帝国に人口数千人を超える都市はできなかったが
アステカ帝国はコルテス征服時1100万人の人口があり首都テノチティトランは人口20-30万を数えた
エクセレントな都市だったがコンキスタドールに破壊しつくされた
スペインとかのコンキスタドールどもは世界一のほんまもんのクズですわ
日常的に生け贄を使った儀式をやって雨乞いでも何でもとにかく生け贄っていうキチガイ習俗は滅びた方が良いが
拝み方に過度に偏る連中は古今東西ろくなもんじゃないな
アステカ人にもう少し理性的なところがあれば滅びなかった
日本の邪馬台国時代も鬼道なんてもんでインチキ女立てて治める土人的なもんだったが
垂仁天皇の御代には殉死は禁止され
武士という種族は17世紀になってもまだ殉死するという危うさがあったが
一貫してアステカよりは蒙昧盲信ぶりの程度が弱い日本はそのお陰で島国にあっても自らを進化させることができた しかし古墳時代の文書はまだ出てないのかね
すずりはもう出てるから時間の問題だろうに 昔は諸民族が大陸から渡って半島に来、火山噴火や侵略行為による押し出しで、流動的な一時的居留 最近の歴史でも下記を知らない人は多いだろうなセンター試験レベルでも。
ってことで復習
建国年は1949年の「中華人民共和国」…現在の中国
日中戦争で日本が争った国「中華民国」…現在の台湾
1945年:太平洋戦争で日本敗戦
1949年:中国共産党により「中華人民共和国」成立。内戦の末に中華民国は追い出され台湾へ
1952年に中華民国は「日華平和条約」で日本への賠償請求権を放棄して日本と和解。
1971年まで、台湾に存在する中華民国が国連に国として認められていた。ここ重要。
しかし1971年に国連は中華人民共和国を認め、それと同時に中華民国は国として否定された。
日本軍に対して反日感情を持つ資格のある国は台湾のはずなんだが
台湾 最も好きな国は日本56% 過去最高(2016年)
http://www.mag2.com/p/news/213547
日本(56%)、2位は中国(6%)、3位はアメリカ(5%) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:7bff9ed63942b4cd01610d20b2c06e65) >>87
日本から日本人を駆逐したいと言ってる
某半島国みたいな意見だな。 >>830
日本より海運力や海軍力が優れていたはずの唐からの航海が困難というのは不思議だね。
そうそう、渡来人は帰化人ではないよ。 >>837
新羅のせいで半島の沿岸に寄港しながら来るルートが使えなかったからじゃね? 中国最後の王朝「清王朝」
ソウルにある「大清皇帝功徳碑」
清の皇帝に対して朝鮮国王は3度ひざまづき9度頭を地にこすりつける臣下の礼をとり
その象徴として1637年に清が建立させた記念碑である。この時から朝鮮は清に服従。
その清に日清戦争で勝利したのが日本、というのを朝鮮人は頭に叩き込んでおくように。
時代は流れ、その後の日中戦争で日本と中華民国が争っていた時代
辛亥革命により終わった清のラストエンペラーは日本と組んだ。
清王朝は満州族によってできた王朝。ラストエンペラー溥儀を満州国の皇帝に立てた日本は満州の独立を主張。満州国の実権は日本で。
皇帝の弟(溥傑)の嫁には日本人。嵯峨侯爵家の令嬢、浩さん。
日本の敗戦により皇帝兄弟は中国で捕まり牢獄生活も。後に解放され市民として生きることを許された。
皇帝弟と浩さんの間には娘がいて、戦後に日本人と結婚し子孫は日本のどこかで暮らしている。 >>830
朝鮮半島民の移入に比較的寛容だったのは
半島南部の人間が倭人だったころのまだ日本人に近かったころの半島民
穢貊とかツングースのわけわからんのと混血して以来の半島は性質が悪くてな
百済の難民は受け入れたが
新羅の統一以後は武力を以て追い払うようになった
チョンチョンこっち来んなとなって1300年以上経ったわけだ
中国も唐の後期にはもはや学ぶものなど無いと判断された >>808
渡来人の征服
*294年夏・・・倭人が長峯城を攻める。
*300年春正月・・・倭国へ使者を派遣する。
*312年春3月・・・倭国王から使者がきて、息子がいい年だから嫁を出せと言ってきたので急里(きゅうり)の
娘を倭国に送った。
*344年・・・倭国の使者がやってきてまた婚姻を申し込んできたが勇気を振り絞って断った。
*346年・・・婚姻拒否に怒ったのか倭人が風島に進軍。金城を包囲して攻撃。
*393年・・・倭人が金城を5日間包囲。
*402年・・・3月に倭国と友好を結び、17代新羅王 奈コツ王の子、末斯欣(みつしき)を人質に出す。 >>822
渡来人の征服
*294年夏・・・倭人が長峯城を攻める。
*300年春正月・・・倭国へ使者を派遣する。
*312年春3月・・・倭国王から使者がきて、息子がいい年だから嫁を出せと言ってきたので急里(きゅうり)の
娘を倭国に送った。
*344年・・・倭国の使者がやってきてまた婚姻を申し込んできたが勇気を振り絞って断った。
*346年・・・婚姻拒否に怒ったのか倭人が風島に進軍。金城を包囲して攻撃。
*393年・・・倭人が金城を5日間包囲。
*402年・・・3月に倭国と友好を結び、17代新羅王 奈コツ王の子、末斯欣(みつしき)を人質に出す。 >>826
渡来人の支配
「百済本紀」
*397年夏5月・・・百済王は倭と友好を結び太子の典支(てんし)を人質に出す。
*402年5月・・・倭に使者を派遣し大きな珠を求めた。
*403年春2月・・・倭国から使者がやってきたので、王は超低姿勢で彼を迎え慰労し厚く遇した。
*405年・・・太子の典支(てんし)が倭国で父王の死の知らせを聞き、泣きじゃくって帰国を請う。
うるさいので兵士100人をつけて送り帰した。
*418年夏・・・倭国に白綿10反を貢いだ。
*428年・・・倭国の使者が50人も随行員を連れてやってきた。
「隋書 倭人伝」
<新羅は倭国に対して、うやうやしいほど使者を出していたw> >>830
>>831
高麗大学教授 金鉉球・鄭大均
わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、
その内容は日本古代史書である「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。
(そもそも韓国に古代の文献はほとんどない)
ところが、日本の学者が「日本書紀」を土台にして、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという
「任那日本府説」を主張すると、韓国の学界ではそれは信じることができないと主張しています。
これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見るのではありませんか、という身の程を知らぬ質問をした。
そしたらL教授は黙り込んで答えず、横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。
「日本書紀」には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国文化を運んでいったようになっている。
しかし、韓国の中・高等学校では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、
ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。
そこで学生達は日本を客観的に理解できずに、無条件、対日優越意識だけを助長する結果をもたらせた。
外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。
実際の歴史は、日本に支配されたいわば「属国」であったにも関わらずだ。 >>840
弘仁新羅の乱
弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、全員が降服した。
かつて朝廷(日本国)は、すべての流民(新羅人)に口分田を与えて帰化を認め、寛大に遇して恩を与えたが新羅人たちは、
博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。
この乱以降、北九州各地に住んでいた新羅難民は埼玉、群馬を中心に関東各地に(東北にも少数)住まわせる事になった。 >>846
1:石器時代の遺跡が50か所しかない(日本では一万以上発見されている)
2:一万年前〜五千年前までの間、遺跡が発見されない(半島人が絶滅、半島無人状態)
3:五千年前以降 縄文土器が多数発見される(北九州式縄文土器に酷似)
4:九州でとれる貝の装飾品や釣り針が発見されている
5:人骨の発見(四千年前)鹿児島大学調べによると頭骨の後ろ頭部分が大きく張り出しており
現代の半島人の後頭部(絶壁)と大きく違いがある。(直接の先祖ではない)
6:九州北部の人骨と酷似しており、この時代九州→半島(無人)への移住が行われていたと推察できる。 >>845
ムーネタが受けると思ってる可哀想なおっさんだからそっとしといてやれ 頭長幅指数分布図(大阪大)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/4c/bb642b62a3fe5cb15046e1100aba3093.jpg
中頭 日本人
短頭 韓国人、畿内人
↓
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い。
で、この(過)短頭の人たちは百済、対馬、瀬戸内沿岸とつながっています。
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
図8-2 頭の形からみた朝鮮半島からの人の流れ
http://stat.ameba.jp/user_images/20120526/00/cyrus2/39/9a/j/o0585047311993262057.jpg
↓
河内飛鳥(大阪府)の文化は百済につながる人々によって創造された百済色の濃い文化であった(『河内飛鳥』山尾幸久・立命館大学教授) 日本人類学会(2009)
“大阪府堺市から出土した近世人頭蓋の計測的特徴”
長岡朋人(聖マリアンナ医科大学医学部解剖学教室)
嶋谷和彦(堺市文化財調査事務所)
安部みき子(大阪市立大学大学院医学研究科器官構築形態学)
平田和明(聖マリアンナ医科大学医学部解剖学教室)
熊倉博雄(大阪大学大学院人間科学研究科)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/asj/117/2/117_2_89/_article/-char/ja
古人骨の形態学的研究は,当時の人々の姿かたちを明らかにし,日本人の身体形質の時代的な移り変わりや地域間変異を理解する手がかりになる。
特に,近畿地方における古人骨の形態学的特徴の解明は,日本人形成史の研究に不可欠である。それは,近畿地方が日本人の地域差研究の鍵を握るからである。
例えば,現代日本人の生体計測値や頭蓋計測値において,近畿地方の人々は短頭で,比上肢長・比下肢長が小さく,日本列島の他地域の人々と異なる形態的特徴を持つ。
しかし,近畿地方では古人骨資料の出土例や報告がきわめて少なく,近世やそれ以前における地域間変異を実証した研究は皆無に等しい。
本研究の目的は,まず,大阪府堺市から出土した近世人頭蓋の計測を行い,近畿地方の近世人頭蓋の計測的特徴を明らかにすることと,次に,近世における頭蓋形態の地域間変異を検討することである。
資料は,堺市の堺環濠都市遺跡から出土した32体,向泉寺跡遺跡から出土した2体の成人男性の頭蓋である。
本研究の結果,堺近世人は関東地方や北部九州・山口地方の近世人よりも短頭傾向が強かった。
また,顔面が狭く,頭蓋全体の高さが高い傾向があり,現代人的な特徴を示した。
今回の結果から,近畿地方の近世人頭蓋は他地域とは異なる形態的特徴を持っていたと推測される。 「本土クラスター」の遺伝的地域差(理化学研究所)
http://livedoor.4.blogimg.jp/amosaic/imgs/e/5/e5a9adbb.gif
中国(朝鮮)−近畿−九州−東海北陸−関東甲信越−北海道−東北−アイヌ
2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所
1人あたり約14万個所のDNA塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明
本土クラスターの中の人の分布は、地域によって偏りがあることがわかった。
近畿の人は、上の図では本土クラスターの左上に偏りがあり、中国人のクラスターに比較的近い。
対照的に、東北の人は、本土クラスターの右下に偏っていて、中国人のクラスターから見て離れている。 大和朝廷なんかは大昔の話でどうでもいいけど薩摩は許せん
NHKの朝ドラには厳重抗議だわ >>851
日本の文化の興りや歴史って近畿中心だよね
渡来人たちが今の日本をつくってきて古くからいた日本人はそれに従う形だったのかな >>786
シュメール文明は突然姿を消したけど理由はわからない、シュメール人のシンボルは菊の紋章、
一つ言えることはその後に日本に向かったシュメール人のグループがいたこと、
イスラエルに向かったシュメール人は後にユダヤ人になった >>838
それは、日本から唐に行く場合の話だね。唐から日本に行く場合は、どうなんだろう?
鑑真さんが来日した天平勝宝年間は新羅の王子が金を持参して来日しているらしいから、
日本と新羅の関係も悪くはなかったと思うんだけど。
そうそう、鑑真さんが来日する少し前の遣唐使の航路は奄美・沖縄経由なんだって。
参考画像:遣唐使の航路
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/df/Kentoshi_route.png 半島南部任那日本府は日本領土だったし、翡翠の勾玉は日本の糸魚川でしか出土しないものだし、日本の宝飾だし、
日本の領土は半島南部だと中国の様々な歴史書に書かれているし、縄文土器は半島南部から出土する
つまり、半島南部に日本のDNAが見られるのは当然のこと
日本の植民地だったってわけだ >>845
> 漢字がえ日本発ってどういうこと?
オカルト説だよ
まず古代日本において文明が興隆し、その後、西へ西へと文明の中心地は移動。
そしてまたそれらの発展した文明がかつての中心、日本へと戻ってくるってヤツ
その一環で、漢字も日本発祥とかいうオカルトネタもあるが、証拠はない そんで漢字すら日本発で北欧系のオガムやルーンやデーヴァナガリーとかの
一本の線に依りかかって書かれる文字の本根は結縄・木刻だと思う >>859
隠されてたのを暴露したって意味では正しい意味のオカルトではあるけどもなーwww 別に日本開闢期の百済仏だけじゃなく
1000年以上くだった15世紀の夢遊桃源図とかも国宝だしな
太古から近世まで文化もすべて韓国に依存してたのは間違いない 朝鮮人へ
日本・イギリス・フランス・イタリアの4国は、1920年に発足した「国際連盟」初代の常任理事国
日本は当時から一等国で、朝鮮半島は1910年から日本領になれました。
「日清戦争」「日露戦争」の連勝と条約を経て、朝鮮人と戦争することなく併合。
長年にわたって清(中国)に土下座していた民族が、ロシアにまで勝利した日本の一員になれました。
第1次世界大戦(1914〜1918年)では戦勝国5大国となった日本の一員です。
1941年:真珠湾攻撃
アジアのほとんどが欧米の植民地だった時代
日本軍 vs アメリカ軍、イギリス軍、オランダ軍
日本軍は各地で戦っていた第2次世界大戦、日中戦争も継続しながら。
1945年:敗戦
朝鮮人は日本領の一員として一緒に戦っていたことを記憶しておきましょう。
日本軍で中将を務めた洪思翊が一番有名かね。
靖国神社には、朝鮮人日本兵も英霊として祀られているのでお参りに行ってあげてください。
アメリカの植民地フィリピンは1946年に独立
イギリスの植民地インドは1947年に独立
オランダの植民地インドネシアは1949年に独立 >>849
短頭=朝鮮というわけではない。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E4%BA%BA-129742
>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
>ベトナム人 ベトナムじん Vietnamese
>安南人,キン族ともいう。ベトナムの基幹住民。カンボジアにも一部居住する。形質的には一般に短頭型で手足は短く,
>典型的モンゴロイドといえる。
現代アジア事典317ページ
>キン族は,人種系統としては南方型モンゴロイドの 1 つとして位置づけられている。体格としては細い骨格で痩身,短頭系
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%97%8F-56080
>クメール族 クメールぞく Khmer
>言語はモン=クメール語族に属する。形質的特徴としては,長身,短頭,皮膚は黒色が勝ち,髪は波状である。 >>865
目の付け所は近いけど遠いw
幾何学に隠されてた日本と日本語の真実!みたいなテーマwwwww
あとはシンボル学?かなーそういう学問があるとはようと知らんがwww >>1
「阿弖流為(あてるい)」は「大墓公阿氐利(だいぼこうあていり)」、「母禮(もれ)」は「盤具公母礼(ばんぐこうぼれい)」、
とも呼ばれていたみたいだね。
> 彼れ延暦二十年胆沢志波の二城を築くや、夷酋大墓公阿氏利、盤具公母礼部落五百余人を率ゐて降る。
引用元:加藤咄堂 著『英雄と修養』 >>848のムーネタが云々部分の
雑誌ムーではなく
ムー大陸説を唱えたチャーチワードに連なる考察ではあるなw
ケイシーの言ってたムー大陸が浮上するは在る意味で叶ったなwww >>838
それな新羅は日常的に日本と行き来してたからね、対馬経由だとそれほど難しくはない、
聖書の教えを信じて日本を目指してやってきて、計画的に新羅を建設して、
日本ルートを完成させて、日常的に日本と交易すらしていたと思われる モンゴル帝国からの服属を要求する使者は何度も来ていたが
満足するであろう返事を一度も書かなかった
別に恨みはないけど…ていうか蒙古なんて国は聞いたこともないね、そんな蛮族に従えるかバーカw
みたいな返書で応じた
とうとうモンゴルの使者を叩き斬って従者を放逐して応じた
朝鮮の対応は
倭奴が陛下に服さないのは生意気だ、うちらも協力しますから是非やっちゃって下さいモンゴル樣
て具合か
無理だからやめてください…負担させられるうちらの身にもなってください
等と言うかどちらか
中華思想を傷付けられたフビライが侵攻軍を起こしたわけだ
フビライは完全にキレたものと思われ二度目の惨状があってもなお三度目を何度も命じたが実現しなかった >>867
>幾何学に隠されてた日本と日本語の真実!みたいなテーマwwwww
カタカムナあたりをヒントにでもしたのか? 当たり前やろ中国からの渡来人なんやから。蘇我とか物部も渡来人やん。何を今更。 >>866
渡来人の支配
391年 倭は海を渡って百済、××、新羅を臣民にした(広開土王碑)
392年 百済は王を殺して倭王の遣使に謝罪し、遣使が立てた阿花王を即位させた(『日本書紀』)
397年 百済は人質として王子を倭国に出した(『日本書紀』、『三国史記』)
399年 百済は…倭と和通す(広開土王碑)
400年 百済の王が死んだとき、倭国は王子を百済に帰して王位に即けた。(『日本書紀』、『三国史記』)
461年 百済の蓋鹵王は倭王興(=安康天皇)の宮廷に弟の昆支を人質として送った(『日本書紀』<「百済新撰」) >>874
(1)現代の天皇家の祖先の特徴として確定しているのは以下の事項
・寒冷地適応済みの民族だった >>70
・文字(漢字)を持たない民族だった
・中国語とは違う(朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった >>844
韓国にも冷静な学者がいるもんだね
>高麗大学教授 金鉉球・鄭大均
>外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。
>実際の歴史は、日本に支配されたいわば「属国」であったにも関わらずだ。 >>872
むしろ?ひふみ祝詞とか失われたムー大陸シリーズとか日月神示
とかかな?後は聖書とか時事ネタの積み重ねで得た虚空蔵と阿頼耶識www 古墳時代の帰化人=渡来人だよ。
上田正昭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%98%AD
>古代日本に渡って来た「渡来人」がこの名称で教科書に記載されるようになったのは上田の影響である[3]。上田は
>1965年(昭和40年 )刊の中公新書『帰化人』で、「帰化」は『日本書紀』の用語で、『古事記』『風土記』は「渡来」あるい
>は同じ意味で「度来」と記すことを指摘し、当時の呼称と実態からは帰化人ではなく渡来人と呼ぶほうがよいと提唱
>した[10]。このことで右翼からの脅迫を受けたこともあったが、渡来人の用語と理解は急速に定着した。読者の中には
>当時皇太子だった今上天皇もいた[11]。更にこの上田の論と共に、「渡来人」に戦後の在日朝鮮人のイメージを投影
>する金達寿の主張が広まったが、こうした上田らによる「帰化人」から「渡来人」への言い換えについて、古代史学者
>の関晃は、「渡来」ではただ単に日本に来ただけという意味になり、帰化し日本人の一員となったという意味合いが無く
>なってしまうため学術用語として不適切であることを指摘し、疑問を投げかけ批判した[12]。 >>868
引用文の「大墓公阿氏利」は「大墓公阿氐利」の誤りです。(。-人-。) ゴメンネ 大地と繋いでくれてる人が居なくなったら世界は崩壊すると思う
そういう人達を追いやってしまったのはその場は仕方なかったとはいえ
後世に絶大な悪影響しか残さない 「帰化人」を「渡来人」と呼ぶのは反融和だよ。(´-ω-`) >>874
年表を拝借するね。用語を補足しつつ。こんな感じかな。
【倭】…現在の日本
【百済・新羅】…朝鮮半島に存在
【広開土王碑】…中国に現存する石碑
【三国史記】…朝鮮半島に現存する歴史書
391年 倭は海を渡って百済、××、新羅を臣民にした(広開土王碑)
392年 百済は王を殺して倭王の遣使に謝罪し、遣使が立てた阿花王を即位させた(『日本書紀』)
397年 百済は人質として王子を倭国に出した(『日本書紀』、『三国史記』)
399年 百済は…倭と和通す(広開土王碑)
400年 百済の王が死んだとき、倭国は王子を百済に帰して王位に即けた。(『日本書紀』、『三国史記』)
461年 百済の蓋鹵王は倭王興(=安康天皇)の宮廷に弟の昆支を人質として送った(『日本書紀』<「百済新撰」) >>808
蝦夷(縄文人)
>>203
平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。
農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
農耕民(弥生人) 狩猟採集民(縄文人) >>14
たぶんえびすじゃなくて、征夷で変換したんじゃね?
まあ、変態毎日だから仕方ない 中華思想だと日本も中華の属国として扱われていた事を忘れなく 当時の関東地方は本当に野蛮人しか住んでいないと思われていたんだな 縄文系 二重まぶた(平行型)
世界で一重まぶたが多いのは
日本、中国、韓国、モンゴル 一重まぶた族って異質な民族だよな
見た目からして気持ち悪いし
人類の敵一重まぶた族 大坂の一般人が 維新国政にだいして民主党わらすわれるよて考えたわけ
それで選挙やって 300議席えたわけ
その時 アイディアだしたとこに 薬物捜査とせんきょにでるなで とりつけやってたのが 朝日 武らタックル と ミヤネ屋 と フジてび bsプライムースら
こっら 取り付けやられてるから 完全にうるよ
そのとき てれび局から飛んだ事件が 2010 はびきの 居酒屋 4人撃ち殺し
とりつけやってたのが バイキングらと bsふじら 関テレとおわらいら
薬物法案かえて 薬物捜査された仕返しの意味もあるんだろうけど
9年かん 政治家と bsふじ 武ら わいどしょー と お笑いら
取り付けやってるわけ 選挙にでるな。
これが 日本の報道だよ。 政治と あきれるわ。 事実。 学制3000人を対象にした調査では実は関東のほうが短頭だったと結果出てる
いずれにせよ頭長幅示数による分類なんて、遺伝子に関する研究が発達する前の何十年か前に廃れた古い手法
短頭短頭言ってるのは、この種のスレには必ず出てくるフルボッキとか呼ばれてるアホ
アホの一つ覚えってやつ
アホだから新しい知識を習得することができず視野が狭い
頭長幅示数をまだ使ってる国なんてあるんかね?
アジアやアフリカの土人国家にはあるかもしれんけど 生粋の近畿土着の人はエラや頬骨が出てなくてほっそりした面長の顔が多いと言われている
面長とは顔(頭)の横幅はあまり広くないということ
短頭は大雑把にいうと頭の横幅が広いということなので、面長の多い近畿が短頭とすると矛盾する >>888
「中華思想」の意味がわかってないな、お前
中華とは、皇帝の居城・国を世界の中心と捉え、
まさのその世界の中心を「中華」と言い、
東西南北の世界の果てには魔物の住む魔界があり、
その手前には蛮族、未開の野蛮な半人半妖が住んでいる
皇帝はその徳で軍を出動させ
そうした世界の脅威から人民を守る
っていう世界観なの
中華≠大陸の中国
大和朝廷における「中華思想」なら
奈良盆地が「中華」、ってことになる
日本は狭いのでスケール感が小さいが
北は京都の山岳地帯、南は紀伊半島の山岳地帯、東は蝦夷
そして西が朝鮮半島、大陸中国 >>898
要は都会と郊外だろ
そんな概念世界中にある >>874 >>885
どういう意図でそれを示しているのか知らないが、
日本と百済の関係、百済が日本の属国だったことを言っても
今の韓国人は屁とも思わないぞ?
なぜなら、韓国人のルーツは新羅にあり、
その新羅が百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一したのだから
その後、高麗という国になるが支配層が交代しただけで民族的には変わって無い
西欧が大航海時代になったとき、高麗という国が知れ渡り、KOREA になる
しかし、韓国人が認めない、認めたくない歴史的事実がある
その新羅はどのようにして成立したのか?
新羅の直接的なルーツは辰韓(しんかん)にある
辰=しん=秦のことである
秦の始皇帝に滅ぼされたある国の人々が奴隷となり長城の建設に使役されていた
しかし始皇帝が死んで統制が緩んだとき、出エジプトの様に集団で脱走し、流浪の民となる
数百年、自分達の国を持たない流浪の民として中国大陸を彷徨い続ける
そうしてようやく朝鮮半島にたどり着く
その当時、朝鮮半島の少なくとも南半分は出雲王朝の領土だった
優しい出雲人は、その流浪の民族に朝鮮半島の一部を居留地として分け与えてあげた
こうして出来たのが辰韓である
長い間、奴隷、流浪の民(社会の最底辺)として過ごしてきたので文化の程度が低すぎた
しばらくの間、出雲王朝の人間が支配層として辰韓の国家運営を支えることになった
ところがしかし、ある日、クーデーターを起こして国を乗っ取ってしまう
そうして出来たのが新羅なのだ
さらには恩をあだで返すかのように、
出雲王朝の支配地域であった任那、カヤ諸国も奪ってしまう(そして百済も奪う)
まさに、「ひさしを貸して母屋を取られる」
それが新羅
ちなみに、新羅の発音は本来は「シラ」である
「シラギ」と発音するのは日本人だけである
この「ギ」は蔑称であり「クソ野郎」みたいなニュアンスを含む
つまり、かつて日本の領土だった朝鮮半島を奪った「新羅のクソ野郎」というわけだ >>14
なんか違和感が、って気がしたがそういうことか。 「世界はあたしでまわってる (通称:あたまわる)」というPSPのゲームがあってだな・・・ >>854
彼らシュメール人は安住の地を求める長い旅の果てに
大陸の東端の島にたどり着いて言ったんだな
「ここならしゅめーる」 >>886
東北縄文人は稲作、水田に挑戦してるので、その当事も狩猟採集民とは言えない。
支那式農耕(水田)の基盤がもう出来てる点で、何らかの農耕はあったろ。それが採取栽培とその加工だとしても。
また、農業革命の大事なのは大規模に定住して分業化が進歩するという点。
支配の大きさはそれをより大きくする。
その分業の中で余剰生産物の配分や交易がある。また交易目的のための開発も行われる。
これらの基盤が縄文時代から広域的に整ってるのよ。土器、武器、勾玉を始めとするアクセサリー。
米国インデアンの中にもそういう部族があるんだが、決定的に違うのは双方で融和が出来てる点。共通価値観なり宗教だな。 >>1
坂上田村麻呂が討伐した蝦夷の「大墓公阿氐利」と「盤具公母禮」は靺鞨だと言われているよ。
靺鞨は現在のロシア沿海州に暮らしていた民族。彼らは東北の先住民ではないよ。
なぜ、侵略者を“北天の雄”と称えるの? 「中華思想」とは
一般的に、自己の文化が最高で天下の中心に位置するとみて、それと異なる周辺の文化を蔑視する考え方をいう。
漢民族の当時の思想が由来。仏教思想、儒教思想のように思想の一種としてとらえるべき。
>「大和朝廷は中華思想」
なら、大和朝廷が天下の中心で周辺はクズって考え
こんな思想、世界史で珍しくない件なのだが、中華思想に過剰反応しすぎ。
日本列島で天下の中心を豪語する大和朝廷
中国大陸で天下の中心を豪語するその時代の皇帝
両立していたわけだ。
「天に二日無し」という中国の伝統で
天に二つの太陽が無いように、一つの国に二人の君主(皇帝)がいてはならない。
しかし日本には天皇がいた。属国なら名乗るのは許さないが、それに干渉はできない関係性でお互い中心を持っていた。
日本にも中国大陸にも皇帝が存在する時代が、清王朝滅亡までつい最近まで続いた。
その一方、つい最近まで朝鮮国王は清の皇帝に土下座の立場>>839
朝鮮国王が中華思想なんて持っていたら中国皇帝に抹殺される立場 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。