【歴史】「大和朝廷は中華思想」「周辺は夷荻」「未服従の遅れた人々だと位置づけ」 蝦夷と坂上田村麻呂の足跡 ヤマトの外に独自文化★2
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清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
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本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。
「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。
井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。
経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。
それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。
さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。
アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。
これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。
田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。
近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。
続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra
★1が立った時間 2018/01/13(土) 23:52:48.50
前スレ http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1515855168/ 大和朝廷なんかは大昔の話でどうでもいいけど薩摩は許せん
NHKの朝ドラには厳重抗議だわ >>851
日本の文化の興りや歴史って近畿中心だよね
渡来人たちが今の日本をつくってきて古くからいた日本人はそれに従う形だったのかな >>786
シュメール文明は突然姿を消したけど理由はわからない、シュメール人のシンボルは菊の紋章、
一つ言えることはその後に日本に向かったシュメール人のグループがいたこと、
イスラエルに向かったシュメール人は後にユダヤ人になった >>838
それは、日本から唐に行く場合の話だね。唐から日本に行く場合は、どうなんだろう?
鑑真さんが来日した天平勝宝年間は新羅の王子が金を持参して来日しているらしいから、
日本と新羅の関係も悪くはなかったと思うんだけど。
そうそう、鑑真さんが来日する少し前の遣唐使の航路は奄美・沖縄経由なんだって。
参考画像:遣唐使の航路
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/df/Kentoshi_route.png 半島南部任那日本府は日本領土だったし、翡翠の勾玉は日本の糸魚川でしか出土しないものだし、日本の宝飾だし、
日本の領土は半島南部だと中国の様々な歴史書に書かれているし、縄文土器は半島南部から出土する
つまり、半島南部に日本のDNAが見られるのは当然のこと
日本の植民地だったってわけだ >>845
> 漢字がえ日本発ってどういうこと?
オカルト説だよ
まず古代日本において文明が興隆し、その後、西へ西へと文明の中心地は移動。
そしてまたそれらの発展した文明がかつての中心、日本へと戻ってくるってヤツ
その一環で、漢字も日本発祥とかいうオカルトネタもあるが、証拠はない そんで漢字すら日本発で北欧系のオガムやルーンやデーヴァナガリーとかの
一本の線に依りかかって書かれる文字の本根は結縄・木刻だと思う >>859
隠されてたのを暴露したって意味では正しい意味のオカルトではあるけどもなーwww 別に日本開闢期の百済仏だけじゃなく
1000年以上くだった15世紀の夢遊桃源図とかも国宝だしな
太古から近世まで文化もすべて韓国に依存してたのは間違いない 朝鮮人へ
日本・イギリス・フランス・イタリアの4国は、1920年に発足した「国際連盟」初代の常任理事国
日本は当時から一等国で、朝鮮半島は1910年から日本領になれました。
「日清戦争」「日露戦争」の連勝と条約を経て、朝鮮人と戦争することなく併合。
長年にわたって清(中国)に土下座していた民族が、ロシアにまで勝利した日本の一員になれました。
第1次世界大戦(1914〜1918年)では戦勝国5大国となった日本の一員です。
1941年:真珠湾攻撃
アジアのほとんどが欧米の植民地だった時代
日本軍 vs アメリカ軍、イギリス軍、オランダ軍
日本軍は各地で戦っていた第2次世界大戦、日中戦争も継続しながら。
1945年:敗戦
朝鮮人は日本領の一員として一緒に戦っていたことを記憶しておきましょう。
日本軍で中将を務めた洪思翊が一番有名かね。
靖国神社には、朝鮮人日本兵も英霊として祀られているのでお参りに行ってあげてください。
アメリカの植民地フィリピンは1946年に独立
イギリスの植民地インドは1947年に独立
オランダの植民地インドネシアは1949年に独立 >>849
短頭=朝鮮というわけではない。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E4%BA%BA-129742
>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
>ベトナム人 ベトナムじん Vietnamese
>安南人,キン族ともいう。ベトナムの基幹住民。カンボジアにも一部居住する。形質的には一般に短頭型で手足は短く,
>典型的モンゴロイドといえる。
現代アジア事典317ページ
>キン族は,人種系統としては南方型モンゴロイドの 1 つとして位置づけられている。体格としては細い骨格で痩身,短頭系
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%97%8F-56080
>クメール族 クメールぞく Khmer
>言語はモン=クメール語族に属する。形質的特徴としては,長身,短頭,皮膚は黒色が勝ち,髪は波状である。 >>865
目の付け所は近いけど遠いw
幾何学に隠されてた日本と日本語の真実!みたいなテーマwwwww
あとはシンボル学?かなーそういう学問があるとはようと知らんがwww >>1
「阿弖流為(あてるい)」は「大墓公阿氐利(だいぼこうあていり)」、「母禮(もれ)」は「盤具公母礼(ばんぐこうぼれい)」、
とも呼ばれていたみたいだね。
> 彼れ延暦二十年胆沢志波の二城を築くや、夷酋大墓公阿氏利、盤具公母礼部落五百余人を率ゐて降る。
引用元:加藤咄堂 著『英雄と修養』 >>848のムーネタが云々部分の
雑誌ムーではなく
ムー大陸説を唱えたチャーチワードに連なる考察ではあるなw
ケイシーの言ってたムー大陸が浮上するは在る意味で叶ったなwww >>838
それな新羅は日常的に日本と行き来してたからね、対馬経由だとそれほど難しくはない、
聖書の教えを信じて日本を目指してやってきて、計画的に新羅を建設して、
日本ルートを完成させて、日常的に日本と交易すらしていたと思われる モンゴル帝国からの服属を要求する使者は何度も来ていたが
満足するであろう返事を一度も書かなかった
別に恨みはないけど…ていうか蒙古なんて国は聞いたこともないね、そんな蛮族に従えるかバーカw
みたいな返書で応じた
とうとうモンゴルの使者を叩き斬って従者を放逐して応じた
朝鮮の対応は
倭奴が陛下に服さないのは生意気だ、うちらも協力しますから是非やっちゃって下さいモンゴル樣
て具合か
無理だからやめてください…負担させられるうちらの身にもなってください
等と言うかどちらか
中華思想を傷付けられたフビライが侵攻軍を起こしたわけだ
フビライは完全にキレたものと思われ二度目の惨状があってもなお三度目を何度も命じたが実現しなかった >>867
>幾何学に隠されてた日本と日本語の真実!みたいなテーマwwwww
カタカムナあたりをヒントにでもしたのか? 当たり前やろ中国からの渡来人なんやから。蘇我とか物部も渡来人やん。何を今更。 >>866
渡来人の支配
391年 倭は海を渡って百済、××、新羅を臣民にした(広開土王碑)
392年 百済は王を殺して倭王の遣使に謝罪し、遣使が立てた阿花王を即位させた(『日本書紀』)
397年 百済は人質として王子を倭国に出した(『日本書紀』、『三国史記』)
399年 百済は…倭と和通す(広開土王碑)
400年 百済の王が死んだとき、倭国は王子を百済に帰して王位に即けた。(『日本書紀』、『三国史記』)
461年 百済の蓋鹵王は倭王興(=安康天皇)の宮廷に弟の昆支を人質として送った(『日本書紀』<「百済新撰」) >>874
(1)現代の天皇家の祖先の特徴として確定しているのは以下の事項
・寒冷地適応済みの民族だった >>70
・文字(漢字)を持たない民族だった
・中国語とは違う(朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった >>844
韓国にも冷静な学者がいるもんだね
>高麗大学教授 金鉉球・鄭大均
>外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。
>実際の歴史は、日本に支配されたいわば「属国」であったにも関わらずだ。 >>872
むしろ?ひふみ祝詞とか失われたムー大陸シリーズとか日月神示
とかかな?後は聖書とか時事ネタの積み重ねで得た虚空蔵と阿頼耶識www 古墳時代の帰化人=渡来人だよ。
上田正昭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%98%AD
>古代日本に渡って来た「渡来人」がこの名称で教科書に記載されるようになったのは上田の影響である[3]。上田は
>1965年(昭和40年 )刊の中公新書『帰化人』で、「帰化」は『日本書紀』の用語で、『古事記』『風土記』は「渡来」あるい
>は同じ意味で「度来」と記すことを指摘し、当時の呼称と実態からは帰化人ではなく渡来人と呼ぶほうがよいと提唱
>した[10]。このことで右翼からの脅迫を受けたこともあったが、渡来人の用語と理解は急速に定着した。読者の中には
>当時皇太子だった今上天皇もいた[11]。更にこの上田の論と共に、「渡来人」に戦後の在日朝鮮人のイメージを投影
>する金達寿の主張が広まったが、こうした上田らによる「帰化人」から「渡来人」への言い換えについて、古代史学者
>の関晃は、「渡来」ではただ単に日本に来ただけという意味になり、帰化し日本人の一員となったという意味合いが無く
>なってしまうため学術用語として不適切であることを指摘し、疑問を投げかけ批判した[12]。 >>868
引用文の「大墓公阿氏利」は「大墓公阿氐利」の誤りです。(。-人-。) ゴメンネ 大地と繋いでくれてる人が居なくなったら世界は崩壊すると思う
そういう人達を追いやってしまったのはその場は仕方なかったとはいえ
後世に絶大な悪影響しか残さない 「帰化人」を「渡来人」と呼ぶのは反融和だよ。(´-ω-`) >>874
年表を拝借するね。用語を補足しつつ。こんな感じかな。
【倭】…現在の日本
【百済・新羅】…朝鮮半島に存在
【広開土王碑】…中国に現存する石碑
【三国史記】…朝鮮半島に現存する歴史書
391年 倭は海を渡って百済、××、新羅を臣民にした(広開土王碑)
392年 百済は王を殺して倭王の遣使に謝罪し、遣使が立てた阿花王を即位させた(『日本書紀』)
397年 百済は人質として王子を倭国に出した(『日本書紀』、『三国史記』)
399年 百済は…倭と和通す(広開土王碑)
400年 百済の王が死んだとき、倭国は王子を百済に帰して王位に即けた。(『日本書紀』、『三国史記』)
461年 百済の蓋鹵王は倭王興(=安康天皇)の宮廷に弟の昆支を人質として送った(『日本書紀』<「百済新撰」) >>808
蝦夷(縄文人)
>>203
平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。
農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
農耕民(弥生人) 狩猟採集民(縄文人) >>14
たぶんえびすじゃなくて、征夷で変換したんじゃね?
まあ、変態毎日だから仕方ない 中華思想だと日本も中華の属国として扱われていた事を忘れなく 当時の関東地方は本当に野蛮人しか住んでいないと思われていたんだな 縄文系 二重まぶた(平行型)
世界で一重まぶたが多いのは
日本、中国、韓国、モンゴル 一重まぶた族って異質な民族だよな
見た目からして気持ち悪いし
人類の敵一重まぶた族 大坂の一般人が 維新国政にだいして民主党わらすわれるよて考えたわけ
それで選挙やって 300議席えたわけ
その時 アイディアだしたとこに 薬物捜査とせんきょにでるなで とりつけやってたのが 朝日 武らタックル と ミヤネ屋 と フジてび bsプライムースら
こっら 取り付けやられてるから 完全にうるよ
そのとき てれび局から飛んだ事件が 2010 はびきの 居酒屋 4人撃ち殺し
とりつけやってたのが バイキングらと bsふじら 関テレとおわらいら
薬物法案かえて 薬物捜査された仕返しの意味もあるんだろうけど
9年かん 政治家と bsふじ 武ら わいどしょー と お笑いら
取り付けやってるわけ 選挙にでるな。
これが 日本の報道だよ。 政治と あきれるわ。 事実。 学制3000人を対象にした調査では実は関東のほうが短頭だったと結果出てる
いずれにせよ頭長幅示数による分類なんて、遺伝子に関する研究が発達する前の何十年か前に廃れた古い手法
短頭短頭言ってるのは、この種のスレには必ず出てくるフルボッキとか呼ばれてるアホ
アホの一つ覚えってやつ
アホだから新しい知識を習得することができず視野が狭い
頭長幅示数をまだ使ってる国なんてあるんかね?
アジアやアフリカの土人国家にはあるかもしれんけど 生粋の近畿土着の人はエラや頬骨が出てなくてほっそりした面長の顔が多いと言われている
面長とは顔(頭)の横幅はあまり広くないということ
短頭は大雑把にいうと頭の横幅が広いということなので、面長の多い近畿が短頭とすると矛盾する >>888
「中華思想」の意味がわかってないな、お前
中華とは、皇帝の居城・国を世界の中心と捉え、
まさのその世界の中心を「中華」と言い、
東西南北の世界の果てには魔物の住む魔界があり、
その手前には蛮族、未開の野蛮な半人半妖が住んでいる
皇帝はその徳で軍を出動させ
そうした世界の脅威から人民を守る
っていう世界観なの
中華≠大陸の中国
大和朝廷における「中華思想」なら
奈良盆地が「中華」、ってことになる
日本は狭いのでスケール感が小さいが
北は京都の山岳地帯、南は紀伊半島の山岳地帯、東は蝦夷
そして西が朝鮮半島、大陸中国 >>898
要は都会と郊外だろ
そんな概念世界中にある >>874 >>885
どういう意図でそれを示しているのか知らないが、
日本と百済の関係、百済が日本の属国だったことを言っても
今の韓国人は屁とも思わないぞ?
なぜなら、韓国人のルーツは新羅にあり、
その新羅が百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一したのだから
その後、高麗という国になるが支配層が交代しただけで民族的には変わって無い
西欧が大航海時代になったとき、高麗という国が知れ渡り、KOREA になる
しかし、韓国人が認めない、認めたくない歴史的事実がある
その新羅はどのようにして成立したのか?
新羅の直接的なルーツは辰韓(しんかん)にある
辰=しん=秦のことである
秦の始皇帝に滅ぼされたある国の人々が奴隷となり長城の建設に使役されていた
しかし始皇帝が死んで統制が緩んだとき、出エジプトの様に集団で脱走し、流浪の民となる
数百年、自分達の国を持たない流浪の民として中国大陸を彷徨い続ける
そうしてようやく朝鮮半島にたどり着く
その当時、朝鮮半島の少なくとも南半分は出雲王朝の領土だった
優しい出雲人は、その流浪の民族に朝鮮半島の一部を居留地として分け与えてあげた
こうして出来たのが辰韓である
長い間、奴隷、流浪の民(社会の最底辺)として過ごしてきたので文化の程度が低すぎた
しばらくの間、出雲王朝の人間が支配層として辰韓の国家運営を支えることになった
ところがしかし、ある日、クーデーターを起こして国を乗っ取ってしまう
そうして出来たのが新羅なのだ
さらには恩をあだで返すかのように、
出雲王朝の支配地域であった任那、カヤ諸国も奪ってしまう(そして百済も奪う)
まさに、「ひさしを貸して母屋を取られる」
それが新羅
ちなみに、新羅の発音は本来は「シラ」である
「シラギ」と発音するのは日本人だけである
この「ギ」は蔑称であり「クソ野郎」みたいなニュアンスを含む
つまり、かつて日本の領土だった朝鮮半島を奪った「新羅のクソ野郎」というわけだ >>14
なんか違和感が、って気がしたがそういうことか。 「世界はあたしでまわってる (通称:あたまわる)」というPSPのゲームがあってだな・・・ >>854
彼らシュメール人は安住の地を求める長い旅の果てに
大陸の東端の島にたどり着いて言ったんだな
「ここならしゅめーる」 >>886
東北縄文人は稲作、水田に挑戦してるので、その当事も狩猟採集民とは言えない。
支那式農耕(水田)の基盤がもう出来てる点で、何らかの農耕はあったろ。それが採取栽培とその加工だとしても。
また、農業革命の大事なのは大規模に定住して分業化が進歩するという点。
支配の大きさはそれをより大きくする。
その分業の中で余剰生産物の配分や交易がある。また交易目的のための開発も行われる。
これらの基盤が縄文時代から広域的に整ってるのよ。土器、武器、勾玉を始めとするアクセサリー。
米国インデアンの中にもそういう部族があるんだが、決定的に違うのは双方で融和が出来てる点。共通価値観なり宗教だな。 >>1
坂上田村麻呂が討伐した蝦夷の「大墓公阿氐利」と「盤具公母禮」は靺鞨だと言われているよ。
靺鞨は現在のロシア沿海州に暮らしていた民族。彼らは東北の先住民ではないよ。
なぜ、侵略者を“北天の雄”と称えるの? 「中華思想」とは
一般的に、自己の文化が最高で天下の中心に位置するとみて、それと異なる周辺の文化を蔑視する考え方をいう。
漢民族の当時の思想が由来。仏教思想、儒教思想のように思想の一種としてとらえるべき。
>「大和朝廷は中華思想」
なら、大和朝廷が天下の中心で周辺はクズって考え
こんな思想、世界史で珍しくない件なのだが、中華思想に過剰反応しすぎ。
日本列島で天下の中心を豪語する大和朝廷
中国大陸で天下の中心を豪語するその時代の皇帝
両立していたわけだ。
「天に二日無し」という中国の伝統で
天に二つの太陽が無いように、一つの国に二人の君主(皇帝)がいてはならない。
しかし日本には天皇がいた。属国なら名乗るのは許さないが、それに干渉はできない関係性でお互い中心を持っていた。
日本にも中国大陸にも皇帝が存在する時代が、清王朝滅亡までつい最近まで続いた。
その一方、つい最近まで朝鮮国王は清の皇帝に土下座の立場>>839
朝鮮国王が中華思想なんて持っていたら中国皇帝に抹殺される立場 >>907
そんな面白い君だけに青森雪かきポイント制を紹介しよう
なに、青森まで自腹で行って、1〜2時間雪下ろしするだけだ
すると、なんと1〜2ポイントももらえるんだぜ?
そして50ポイント貯まるとなんと○○5万円分の商品券と交換できるんだぜ?すげぇだろ?
詳しくはhttp://www.aomoricity-shakyo.or.jp/volunteer/だ
いますぐアクセスしないと、締め切られちゃうよ〜? >>901
糞野郎の魚
鯱
とかそーゆーいみーあんのかなぁw >>901
7:Y染色体遺伝子分析により日本の渡来人による混血や始祖説は間違いであることが証明された。
8:ミトコンドリア遺伝子で日本側の遺伝子が母体と確認された(女性は生き残り男性は死滅した証明)
9:三国史(三国史記ではない)では、韓(馬韓)の南に倭人が住んでいるという記述あり、半島南部に日本からわたった人々が住んでいた。
10:三国史記(半島の史書)にダッカイという人物が倭のタバナ国より渡来し王族の元となったと記されている。
「脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里」新羅4代国王
11:倭国とは南半島と日本列島全体を示すもの。
12:王族の婚姻について系譜から読み取れるもの、妻はほとんど金姓であること。
近親婚が常態化、 王族がそうであれば下々まで同じである、
欧米の調査によれば、遺伝子的に半島人は非常に変化が乏しくほぼ同一。 後漢の崩壊と成熟した漢文化が国外に流れて周辺異民族が覚醒、中華式国家に発展。 >>302
また嘘のヒノモト読みか
その字は日下(クサカ)だ
ヒノモトなんて読む日本人はいない! >>905
言語で民族を判断していくでしょ
日本みたいに文献だけを頼りにした
渡来人伝々とか稲荷神社のルーツはなんやらとか
幼稚極まりない日本の現状だけど
欧米の学術界は言語学で民族ルーツの種別を
辿っていくのが主流みたいだし
ゲルマン語派、ケルト語派、スラブ語派
などなど
民族種別の言語源流をかなり細分化して研究してるよ >>901
それ俗説
シラキと呼んでいた。「新羅城」が訛っただけ >>3
意外と人口多いんだな、南関東も。
北関東は国造から続く有力氏族がいたし、ヤマトタケルの東国征伐なんて言われ方するけども実際は話し合って仲良くなったよ!って書いてあるしな アテルイを殺した天皇
シャクシャインを殺した天皇
東北の蝦夷の末裔と北海道のアイヌ民族の末裔は
天皇に対して報復権がある 文明の進んだ自分たちが中心で
その外は野蛮人だとする考え方だけなら
別に中華に限らず世界中どこでもそうだろ。 >未服従
あいつ等生意気だぞ ってか?w
田村麿賞はどうなんかな >>918
言語学的なアプローチは日本では何十年も挑戦して全部失敗したから遺伝子でも見るしかないって話になってる >>899
あそこは都市民以外は人間と認めない思想だよ。
都市外の者を野人と称して狩りの対象にもしていた。
都鄙の違いとは違う。 >>922
シャクシャインを討伐した松前藩の前身は渡党で、これは北海道の続縄文文化人の子孫でアイヌとは兄弟関係だぞ。 //ja.wikipedia.org/wiki/蠣崎氏
出身地 安芸国 日本に中華思想なんか無い。ただ、シナ王朝の周辺部族の呼び方を輸入しただけ。 >>931
後醍醐天皇とかもろ中華被れやったやんけ OKわかった。在日とバカサヨクは畿内朝廷が生んだ平仮名も片仮名も使うなよ。
天皇と畿内朝廷が建てた国の日本からも出ていけよな 結論。在日と反天皇のバカサヨクは日本国に住む資格無し。
さっさとよど号で北朝鮮に帰れ >>931
あるよ
日本の中華思想は日本列島中央絶対思想に変換しただけだよ >>595
第118代後桃園天皇の血は今上天皇に流れていない このおっさん日本人ではないだろう
虐殺隊の隊長が日本人な訳がない >>937
うんうん。
四道将軍とか派遣するのは、中華思想かぶれだけw >>940
当時は弘法大師だって蝦夷はぶっ殺して良いって言ってた時代だぞ >>937
>>939
ほう?日本中でクリスマスやったから、日本はキリスト教国に
なった、とでも言うつもりかね。 夷という漢字は東の蛮族という意味
朝廷から見て東の関東にもいた
古代中国から四夷という概念を輸入したことから始まってる >>922
「阿弖流為」別名「大墓公阿氐利」は靺鞨だよ。
靺鞨に詳しい渤海人が言うのだから間違いないでしょう。
靺鞨は北海道や東北の先住民(縄文人)の子孫ではないよ。
アイヌは靺鞨の子孫なの? この頃の征夷軍には百済王俊哲や巨勢野足も加わっているね。(´・ω・`) >>938
万世一系は神武男系皇族による継承だ。
欧州流の王朝とは違うぞ。 >>946
その方面は靺鞨しかいない(知らない)からそう言っただけで
何らの現代的調査をやったわけではないから是とも非とも言えないが
蝦夷と別の種族(粛慎)が東北方面にいたことは朝廷側の書にも記されているな 高度に発達した支配者階級としての朝鮮民族が
鹿の革を纏って山野を駆け巡る土蜘蛛民族を奴隷にした レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。