【日台】昭和天皇ご満喫の台湾料理が弁当に 商品化の可能性も
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昭和天皇はこの台湾料理を食べたくなった時にこう言ったそうです
「江山楼で食べた台湾料理を食べたいわん」…とw インスタントラーメンを発明した安藤百福さんは台湾人。
以下wikより
1910年(明治43年)、日本統治時代の台湾の嘉義庁にて嘉義市付近の樸仔脚
(現・嘉義県朴子市)に生まれる。両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営
する祖父母のもとに預けられ、台南市で育った。1932年(昭和7年)、22歳の
とき父の遺産を元手に繊維商社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立した。
(中略)翌年には大阪市に日東商会を設立、繊維産業の本場だった船場の近くに
事業拠点を置き、日本で仕入れた製品を台湾に輸出して売るという貿易業務を始めた。
(中略)第二次世界大戦下では1945年(昭和20年)3月13日から終戦まで続いた
大阪大空襲によって全ての事務所や工場を焼失した。
(中略)昭和20年代の深刻な食糧不足をしのぐために、日本政府はアメリカ合衆国
から送られる援助物資に頼っていたが、そのほとんどがアメリカの余剰小麦を利用
した「粉食」(パン、ビスケットなど)だった。日本の厚生省は「粉食奨励」を政策
として進め、学校給食をはじめ、パン食を奨励することになった。安藤は、古くから
東洋の食文化であるめん類をもっと奨励すべきだと、当時の厚生省に提案した。
「パンには必ずスープやおかずが必要だが、麺類なら同じどんぶりの中に主食の麺に
スープと具材が付いて栄養もある」と主張した。厚生省の担当官は、「うどんや
ラーメンは量産技術が無く流通ルートも確立していないためやむなくパンが主体に
なっている」実情を説明し、麺文化の振興のために、自ら研究してはどうかと奨めた。
当時、安藤は既存事業から手を広げる余裕がなかったため、麺類の事業化には至らな
かったが、これが10年後にインスタントラーメンを開発する重大な契機になった。
wikにはないけど、朝鮮戦争後の韓国人が食糧難のためインスタントラーメンの製法を
尋ねたときには、特許も何もすべて無料で提供した。韓国でラーメンが人気食品なのは
この無料提供でインスタントラーメンを安く食べられるようになったから。
安藤さんてすごいわ。
ちなみに嘉儀って町にあった旧制嘉儀農林学校の野球部は(昭和6年)、第17回全国
中等学校優勝野球大会において初出場ながら決勝まで進出した。決勝では、この年から
史上唯一の3連覇を達成する事になる中京商に0-4で敗れ、準優勝に終わった。
このことは「KANO 1931海の向こうの甲子園」という映画(2015)に描かれている。 六合夜市のチャーハン屋台を食べずして台湾料理は語れない 今年のランタンフェスティバルが嘉義だな。
ちょうど台南行くから嘉義も行ってみよう。
ただ高鉄は移動が2時間もかからなくてあまりゆっくり食べてられない。 台湾料理店に入ると中華料理と同じようなメニューで草 >>13
先帝陛下の御高徳は当時の世界に並ぶものが無いな >>122
それは中共人のやってる偽台湾料理。日本人の親台湾感情を利用して台湾料理を名乗っている。残念だが本当の台湾料理屋は地方にはなかなか無い。 そういや台北で小籠包は台湾料理じゃないと言われたことあるわ。 >>126
コンビニ跡によくあるやつな。大陸の人のやってる台湾料理な。 台湾料理の看板を掲げる定食屋がたくさんあるけど
メニューにルーロー飯、牛肉麺あたりが無い店はエセ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています