>>958
畿内の土器である庄内式土器が九州に広まるのは、庄内式の時代をどう比定するかにもよるが
大体言われているように、庄内式が200-300年辺りのものとすれば
九州に入るのは大体3世紀中盤辺りから。つまりは卑弥呼が没する前後あたり。
今の那珂八幡古墳(九州では最古級で、3世紀後半と言われている)あたりから広まり、布留式になる
頃にはほぼ九州の既存の土器を駆逐している

箸墓古墳の造成時期は色々言われているが、少なくとも卑弥呼(248年までに没)よりは後だろう
そして纒向遺跡は明らかに箸墓と関連がある。そしてその箸墓は、これまた明らかに
ヤマト政権と深い関わりがある
そんな纒向から九州産の土器がほぼ出てこなかった以上、畿内と九州とは当時は
明らかに別だったんだろう

そして魏使は明らかに北部九州を伝って邪馬台国を目指している(伊都国までという話もあるが)
同時期の纒向の出土傾向を見る限り、畿内は北九州は掌握できていない。

また、卑弥呼が死んだ後国々が乱れ、台与を立てる事でやっと治まっているが
日本書記にはいくつか反乱が見られるものの、そこまで国々の統合が乱れたような記述はないし
天皇が遠征出来るくらい国を留守にしてもそこまで問題になっていない。

以上を加味するならば、邪馬台国は九州と考えた方が辻褄が合いやすい気はする。
台与の時代あたりから、畿内から九州への侵攻、もしくは勢力の伸長があり
邪馬台国は4世紀に入るころには畿内に滅ぼされた(若しくは合併された)のでは
と思ったりしている。