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結婚をのぞんでいたのは、むしろ雅子妃の父、当時外務省事務次官だった小和田恒氏ではなかったか。
一年前の一九九三年秋、全国民がお妃選びに注目しているまっただなかで、天皇と小和田家のあいだを行き来し、
メッセンジャーをつとめたある福祉団体役員の証言によれば、彼が小和田氏に会ったとき、
「陛下が皇太子殿下のご結婚を気にしている」と伝えると、
小和田氏は顔を曇らせ、うつむき加減になって、こう漏らしたという。
「殿下は帝王学に徹しすぎますよ。女は、男から言ってきてくれるのを待つしかないんです。
雅子が思い悩んでいるのを、みていられない」
皇太子自身がはっきりとプロポーズをすれば、小和田雅子はそれを受け入れる用意がある、とこの人物は受け止めた。


「国連事務総長に」の声に猛然とやる気を出した
九月七日午後六時から、東京日比谷の帝国ホテル孔雀の間で、「小和田恒外交論出版を祝う会」がひらかれ、
約五百人の財界関係者が顔をそろえたことは、彼の野心を雄弁にものがたっていた。
政治家では、福田赳夫元首相、宮沢喜一元首相、柿沢広治前外相、財界からは鈴木永二前日経連会長、
速水優経済同友会代表幹事らが出席した。福田赳夫氏が外相、首相時代に、小和田氏は秘書官をつとめている。
マスコミの取材をシャットアウトしたパーティで、挨拶に立った小和田氏は、
「いま国際社会で日本がおかれている状況は、単に人といっしょになって参画するだけではなく、もっと創造していく必要があるということだ」
と出版した本のタイトルどおり「参画から創造へ」を強調した。本の帯には
「小和田恒は早くも伝説の外交官になりつつあるかに見える」という文字が躍っていた。
おどろくべきことに、皇太子妃選び雅子妃にしぼって勧められはじめた一九九一年九月、
イギリス外務省から日本の外務省に「ミスターオワダを国連事務総長にどうか」という打診があったとき、
当時外務事務次官だった小和田恒氏は猛然とやる気をみせたと外務省担当記者は言う。
「それで外務省内に国連事務総長になる場合に対応するための、四、五人のプロジェクト・チームをつくった」
けっきょく「小和田事務総長」はまぼろしに終わったが、国会では国連平和協力法案が廃案を目前にしていた時期であった。
日本の国際貢献の方針が、憲法の精神をめぐって決まらずじまいであった。
この微妙な時期に、小和田氏は国連事務総長ポストにこころを動かされていたということになる。

VIEWS 1994年11月号