>>702
>生き残った教師は最後尾で本当になりふり構わず我先に走ったと思うんだ

この生き残った教務主任E教諭は、校庭から川岸への行進が始まった当初、校庭に
はいなかった。校舎の中を避難住民らを収容できる部屋がないかどうか見回りして
いたと説明されている。
そして、見回りを終えて校舎から校庭に出たところ、既に児童たちは釜谷交流会館
の方へ向かった後だったと。

そして、その後この教諭の証言は嘘だらけで全く信用のおけないものとなっている。
当該教諭は全速力で行進の最後尾に追いついたところで津波に遭遇し、反転して逃げ
裏山にたどり着き、二本の倒木に挟まれて大怪我をしながらも、津波で倒木が外れて
身動きができるようになり、付近にいた児童を一人を助けながら逃げ切ったというの
だが、同じ場所で助かった残りの3人の児童たちは、付近の大人たちと一緒に山中で
たき火をしながら夜を明かした(眠ると死ぬぞと言われながら)のに対して、教諭と
児童1名は、その輪の中には居なかった。

当該教諭と児童1名は、釜谷交流会館の付近の裏山ではなく、小学校体育館の裏から
登る方の裏山を反対側に下った先にある自動車整備工場にその日のうちに現れ、社長
宅の室内に保護された。整備工場の社長は避難してきた住民を服がずぶ濡れかどうか
で選別し、濡れている住民は整備工場内に収容し、濡れていない住民は自宅住居内に
収容したので、教諭たちが津波に巻き込まれてずぶ濡れになったりしていなかったの
は明らかだと証言している。

おそらく、生き残った教務主任は、校舎内を見回りしているある時点で2階から津波
を目撃して校庭に下り、既に川岸に向かってしまった隊列には加わらずに、体育館裏
の小道から裏山に登りそのまま自動車整備工場の向かったのだろうと考えられている。