//blog.goo.ne.jp/aikokusyanozyaron/e/03e7472ee178ada95b6256d14bef0bc3 愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす
銃剣道の基本は刺突!
皇軍では兵士を鬼にするための洗礼だった!文科省・教育者は何と心得るか!

2017-04-02??|??スポーツと民主主義

個人で柔剣道をたしなむのと学校で教育するのは別問題だろう!何でも学校にやらせるのか!その狙いは何か!


 土屋は、軽機関銃の担当だった。その重いこと。六キロ以上あった。そのほかに、百二十発の弾丸を腰に下げ、さらに百二十発を箱に入れて持った。片道八キロの行軍だった。

「匪賊」は、「徒党を組んで出没し、殺人・略奪を事とする盗賊。匪徒。」(広辞苑)といい、「匪徒」は「暴動をなすやから」(同)とある。しかし、土屋たちにとっては、盗賊というよりも、反日分子たち、という印象が強い。
今風に言えば、ゲリラ的な戦闘集団だ。自分の国を侵した者に抵抗した集団を匪賊と呼ぶことの是非はともかく、この年、十二月十日の国際連盟理事会で日本は匪賊討伐権を認められている。
(※引用者注:一九三一年)ちなみに、当時国際的に、関東軍は満州鉄道沿線などにしか軍事行動を認められていなかった。しかし、匪賊討伐の名目ではより広範囲な軍事行動が許された。その権利を匪賊討伐権と呼んだ。

 地元の警察討伐隊を支援する形で、土屋ら初年兵六十人が出発した。彼らにとっての敵は、同じように武装している。どこから弾が飛んでくるかわからない。
当然、緊張感で胸の痛くなる思いではなかったか、というと、どうもそうでもない。土屋は、そんな弱気どころか、むしろ、「敵とぶつかってくれればいい」と、勇んでいた。手柄をたてるチャンスでもあったからだ。

 しかし、往復十六時間かかって、追い回した匪賊はついに姿を見せなかった。この土屋らの独立守備隊といえば満州事変を起こした連中だ。戦闘は滅法強いと匪賊側は、すでに知っていた。
えりに二丁の小銃をクロスさせた独立守備隊のマークは、敵に脅威を与えていた、と土屋たちは思っている。だから、逃げてしまった、と。一月にも出撃したが、ついに銃は撃たないでしまった。
 この直後に、土屋を鬼に変える儀式があった。刺突である。
 
■鬼になる洗礼

 昭和七年(一九三二年)一月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から二百メートルほど離れた射撃場からさらに百メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の六十人の初年兵が集められた。

大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、六人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。

上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、
細身の刀を下げて六人のうちの一人の前に立った。だれかが、「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地から来たばかりの大隊長は、人を斬ったことなどはなかった様子だった。

部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。
「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だ。