・・・こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるのだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、
刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。

後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。
もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、三、四メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。
そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。六十人の初年兵の中で、なぜ土屋に白羽の矢が立ったのか。土屋は、自分が最も臆病そうだから選ばれた、と当時とすれば、
やや不名誉と思ったようだ。だが、どうもそうではないようだ。この上官は、栗崎中尉だ。入営当初、破れた手袋をして凍傷に苦しんでいる土屋を見つけ、自分の手袋を与えてくれた上官だ。

その後も、自分のような農村出身の新兵を、何かと面倒みてくれた。土屋をトップに指名したのはむしろ「土屋ならうまくやれる。うまくやらせて名を上げさせたい」という温情ではなかったろうか。
土屋にとっては有り難迷惑そのものであった。だが、すぐに四四式騎銃を渡された。いわゆるゴボウ剣式の古い型ではない。折りたたみ式の剣がついた新しい型の銃だった。のどがかわいた。

だがやらなければならない。上官の命令は絶対である。さらに、自分を中心にした感情、計算が短時間の間に頭を駆け巡った。「もし、オレが今やらなかったら、みんなに何といわれるか」。
臆病野郎、役立たず、度胸のネエ野郎だ、声が聞こえるようだった。ついさきほど、白刃を抜いたまま仁王立ちになった新米大隊長を心で笑ったばかりである。

「まして、オレは上等兵に早くなりたい。隊の幹部もずらりと並んで注目している」。早メシでいかに一番でも、敵を殺せないのでは話にならない。だが、土屋はやりたくなかった。
虫を殺すのも嫌いな百姓だった。しかし、やらなければならない。「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、
といった刺突の基本など忘れていた。多分、へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。
殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。

目前で仲間であったろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子(リーベンクイツ)」
と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、それだった。

恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。ガッという音と同時に、相手は吹っ飛ぶようにして転倒した。刺さらなかったのだ。
大隊長の失敗の時に抑えていた笑い声が、ドッと起こった。土屋は、もう夢中だった。倒れているのを、また突いた。刺さらない。「ダメな野郎だ」と怒鳴られ、三八式歩兵銃を持った、他の初年兵に代わった。

その初年兵が動かない中国人を何回も、何回も刺すのを土屋は肩で息をしながら見ていた。土屋の使った新型銃は、新品のため剣先が研いでなかった。丸まっていた。だから刺さらなかった。
このことを、土屋は多くの人に聞こえるように声高に話した。同情してくれる仲間もあった。刺せなかった不名誉を多少とも解消できた、と思いたかった。だが、この刺突により、名誉不名誉などではない、もっと重い、
いわば心の十字架を土屋は背負い、引きずることになる。「刺さりはしなかったが、オレのあのひと突きで、やつは絶命したのではないか。オレも、ついに殺ってしまったのか」という思いだ。

「殺生嫌いのこのオレが人を殺してしまった」。そして、「なに、相手は中国人、チャンコロじゃねえか。オレは世界一優秀な大和民族なんだ。まして、天皇陛下と同じ上官の命令ではないか。一人や二人、いや、
国のためならもっと殺せる」。こう自分に言いきかせ、得心した。