【歴史】桶狭間の戦いの謎のカギを握る「おけ」を鑑定へ。今川義元最期の地を巡る論争に終止符か
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180426/k10011418721000.html
1560年に今の愛知県で行われた桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を倒した場所をめぐる
論争に終止符を打とうと、地元の住民らが大学の研究者に依頼して古くから伝わる「おけ」を
鑑定することになりました。
「桶狭間の戦い」は、愛知県の名古屋市と豊明市にまたがる地域で行われたとされていますが、
今川義元が討ち死にした場所が歴史的に特定されておらず、名古屋市緑区の公園とする説と、
600メートルほど離れた豊明市の史跡とする2つの説があり、地元では「桶狭間論争」とも呼ばれています。
この論争に終止符を打とうと、名古屋市側の住民らでつくるグループが、名古屋大学の研究者に
依頼して公園近くの神社に古くから保管されている「おけ」を鑑定することになりました。
グループによりますと、戦の直前に義元の家臣が、本陣近くの神社に「おけ」を奉納したという逸話があり、
保管されているのがこの「おけ」と証明できれば、義元が神社の近くで討ち取られたとする伝承の
信ぴょう性が高まるとしています。
鑑定では「おけ」に含まれる特定の炭素の割合を分析して、50年から100年ほどの幅で年代を測定するということです。
「桶狭間古戦場保存会」の梶野泉理事長は「結果が出るまで不安だが、私たちの地域が義元の
最期の地だと裏付けできることを期待している」と話しています。
鑑定の結果は来月、わかることになっています。 今川義元ってマロなイメージが根付いてるけど実は200cm160kgで脂肪は無く筋肉の塊だったそうな。
愛馬は5尺もある巨大馬だったと。
義元自身の戦闘能力もくそ高いとか。
飛んでくる矢は掴んで投げ返して相手を殺し、銃弾はつまんで指で弾き返す。
刀は効かないし槍は刺さらない。
不死身の義元と言うくらいだからな。 >>244
お歯黒はあの当時の上流階級のたし
なみで軟弱のイメージにはならんし、
輿に乗ってたのは室町将軍から輿に
乗る特権認められた権威を示すため
だからな。
あの当時地方の武家で輿に乗れるの
は上杉謙信くらいだぞ今川以外では >>240
名古屋市は、岡崎の八丁味噌を取ったりと、評判悪うおまっせ!
改めた方がええんちゃいまっか? >>244
そんな化け物いるか!w
戦国無双のやり過ぎだw 義元擁護だけど輿に載ってたのは
馬に乗れないからじゃなくて権威付けのためな。
幕府から輿に載る特権もらってたから
それを見せびらかせるため。 桶狭間の戦場跡に建てられた寺、あそこマジで出るんだわ
一度工事で入ったが、夕方近くになって暗くなると変な風が起こって、不気味な声が聞こえてくる
あとで昔から心霊スポットとして有名で、霊を鎮めるために寺を建てたんだときいて、やっぱりと思った 年代が一致したとして
その桶と奉納した桶の一致はどう証明するんだ? >>252
そこに行くのは面倒くさいけど、幽霊には本当に会ってみたい。
死んだら意識がなくなって全てが無になるのが怖くて、死後の世界が存在する証拠が欲しい。 >>235
親父の代に周辺の豪族にもう少し優しくしておくべきだった
氏真があれだとどっちにしても遠からず松平中心に反旗翻されてると思うが 中京競馬場での落馬事故は
桶狭間合戦で討死した兵の仕業 >>256
東海じゃなくて海道だけど、弓取りは武芸のことじゃなくて戦上手ってことだから
輿に乗ってたのは権威づけのためだけどね >>256
飛んできた弓矢を指2本で挟んで掴み取り、そのまま反転させて打った相手に投げ返す。
相手はその矢が額に刺さり死ぬ。
海道一の弓取りとはこの世界の海は広いがそんな神がかりな事が出来るのは義元だけ、と言う意味。 >>255
そうか?まあ史実ではないが、「おんな城主 直虎」を見ていて、あんなに謀反ばっか起こす周辺
豪族をよく我慢したよな。
って思っちゃったよ。 >>215
地名は名古屋市側
雰囲気は豊明側
名古屋市はただの住宅街になった。 2020年、大河ドラマ麒麟が確定した時点で某企業の計画倒産が確定したも同然
桶狭間はまさにその手口そっくり。(´・ω・`) どっちにしても完全決着といえるような結果とは言えない上に、
その桶の価値が激減するリスクだけがあるのに、それでも調べようって態度は評価する 最近ののぶやぼだとヨシモンの弓適性高めだけど、なんか弓実績あるの? 桶狭間の合戦って、今川方から仕掛けたわけじゃないんだろ?
休憩中に織田に奇襲されただけだろ?
ちょっとした休憩中に、勝利祈願(?)で、
桶を奉納するなんてことなさそうなんだけど。 >>266
義元がある日太陽を撃ち抜くと言って天に向かって矢を撃った。
その矢は落ちてこなかった。
そして3年後…桶狭間の戦いの時、正面から織田軍が攻めてきたとき、3年ぶりに矢が落ちてきた。隕石に刺さって。
その隕石は織田軍を壊滅寸前まで追い詰めたが、追い詰められたことにより信長は秘めたる力を発揮して義元を倒した。 >>268
弓取りって武将という意味だから
義元が弓の達人というわけではない 弓取りは武士だろ
雑兵は槍や刀だからその技術が兵法 デブの麻呂のイメージだけどノブに討たれる前は超強かったんだろ(´・ω・`)? >>150
山本勘助の見た目が不細工だから召し抱えなったエピソードもあるな(´・ω・`)
召抱えたら雪斎の代わりに義元守ったろうなって思った(´・ω・`)
多分創作だけど >桶狭間
昔の人の平均寿命は43歳。どうせ短い命だからと、賭にでた信長の勝利であった゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○プハー
-----
■江戸時代も何度かインフルエンザの流行があった。全て長崎など海外貿易の
ある場所から伝染した。1729年の世界的流行から1730年に流行り1733では
江戸だけで1月で8万人が死亡した。1917年スペイン風邪の流行で世界で
2300万人国内でも被害が出た
■1726年ころの平均寿命は男43歳、女44歳。
■痘瘡は江戸時代にも流行り1831年には乳児の5人に1人が死んでいる。
種痘によって100人に3人に減った。
■結核は明治以降長い間国内で多くの死亡者を出した。1882年コッホが
結核菌を発見するも被害は続いた
■ペストが最初に上陸したのは1899年、ねずみにつく蚤が人間を噛んで
感染する。ペスト菌によるもので発見者の名前から北里エルザン菌とも呼ぶ。
■日清戦争の後、帰還兵から感染症が国内に広がった。政府は以下の感染症を
法定伝染病として厳しく監視した:
コレラ、赤痢、腸チフス、痘瘡、発疹チフス、猩紅熱、ジフテリア、ペスト
『病が語る日本史』(講談社学術文庫/酒井シズ日本医史学理事長) >>51
歴史家ってより司令官が報告書の形で出してるのが最強
カエサルのガリア戦記とか
コルテスの報告書簡とか
コルテスの報告書簡は当時のヨーロッパで広く読まれ
部下が「本当のメキシコ征服」みたいな感じで別視点で批判的に書いてたりしてるから
補強できてなお凄い 沓掛から大高への移動中の昼食時、桶狭間山の上で今川は織田軍に襲われた。
場所は今の朝鮮学校あたりか桜花学園あたりの小高い山。
うちから見えるぜ。
地蔵池の辺までは逃げたかもな。 >>77
何よりも秀吉が内政をうまく回せなかったので、
秀吉が長生きしようが豊臣政権は短命に終わってた。 >>277
人生50年は単なる幸若舞の一説な。
信長が考えたんじゃないんだぜ。 同じ殺人現場でも一般人のならビビるけど武士のなら名所になるのな。 桶狭間の桶はアイヌ語のokで
ボトルネックのように狭まっている場所だ。 桶狭間の戦いはなかった。今川は信長と対峙する前に病に倒れてた、という新説が出てくるで >>279
ええのう
女子大生眺め放題やんけ
桜花ってあんまパッとしたのいないイメージだけど >>252
その工事のとき、バイトで警備員やってたw
やっぱり出るんだ…… 観光バスが停まる場所を争ってるのか。
けど今川義元が打ち取られた場所なんて人が訪れるかなあ 本陣直行したのが誇張されて一点集中みたいな話になったような気がするが 丘を分捕って有利な場所で多勢と戦うつもりが、追い散らした敵が本陣だった説 尾張の土地を切り取りに来た義元
義元の命を取りに来た信長 >>287
高校のほうも可愛い子あまりいないのよね >>140
悪天候だったらしい、急に前がみえないほどの篠突く雨(土砂降り)になったらしい
でみんなあわてた、鉄砲は無論使えない、信長にとっては幸運だった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています