【自民党総裁選】 安倍総裁3選支持の麻生氏 「負けた派閥、冷遇の覚悟を」★3
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9月20日の投開票を軸に調整が進む自民党総裁選。その権力闘争を通して見える「派閥」のいまを報告する。
6月20日夜、銀座のステーキ店で開かれた宴に集まった顔ぶれは、さながら首相安倍晋三の自民党総裁3選に向けた出陣式を見るようだった。
L字カウンターの中央に座った安倍。両脇に副総理兼財務相の麻生太郎、自民党幹事長の二階俊博が陣取る。その左右には麻生、二階両派の幹部が並んだ。
安倍の出身派閥の細田派に、麻生、二階両派を加えた「主流3派」は安倍の総裁3選支持を鮮明にする。党内1、2、5位の3派だけで所属議員の半分近くを占める大勢力だ。
麻生はその席で、いまだ態度を鮮明にしない他派閥を揺さぶるかのように宣言した。
「派閥から総裁選の推薦人を出…残り:1188文字/全文:1499文字
2018年7月4日07時16分
朝日新聞デジタル ※全文は会員登録をしてお読みいただけます
https://www.asahi.com/articles/ASL6T53PXL6TUTFK014.html
★1が立った時間 2018/07/04(水) 08:32:03.75
前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1530668795/ 天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。
およそ30万人の捕虜がいたと思われ、うち、
一万人弱がすでにこうして殺された。
南京を占領する、武藤、中島、朝香宮によって解放された8万余りの兵士は、
勝手にできる場では、強姦、殺人、略奪、放火を重ねた。
上官の指揮のもとにある場合でも、酔っ払ったり規律を無視して見境なく行動したが、それも組織的であった。
こうして南京の虐殺は、中島が南京に入った12月14日より始まり、6週間それは続いた。
そして、世界中からの抗議にも拘わらず、近衛宮が裕仁に、もはや蒋介石を失権させる以外に
希望はないと認めるまで、それは止まなかった。
日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、
昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、
略奪は隠れた事業として始まったという。
「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。
すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。
そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、
わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。
そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、
個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。 国政で勝てる間はいいが
次なるグランドデザインがちっとも出てこない
こりゃ沈降しますわ
ネタ切れ? 三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。
彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。
別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。
中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。
だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
その夜、乱れきった悪魔のような兵士たちは、あたかも戦闘計画があるかのように組織的に、
新たな破壊的任務を隊をなして展開した。その目的は、南京の店という店、事業所という事業所を
襲い略奪し尽し、そして、通りごと、区画ごとに、くまなく焼き払うことであった。
その放火部隊にはトラックが与えられており、そうした建物に火が付けられる前に、
価値ある品々のすべてがそれに積み込まれた。またその点火用に、彼らには
テルミット〔高温を発する粉末アルミと酸化鉄の混合物〕の黒い棒と、
焼夷性化合物をしみ込ませた紙片が支給されていた(126)。
その時期の南京は寒く、そうした部隊は本気になってその仕事を行っていた。
新年の乾杯の席で、松井は、私見としてある日本人外交官にこう語った。
「私の部隊が、とてつもなく悪く、きわめて遺憾なことを行ってきている。」(134)
後年、部隊は言うこときかなくなり、凶暴化したのか、との質問に対しては、
「規律は良好だが指導と行いがよくないと考えた」、と答えている。(135) 1946年より1948年までの極東国際軍事法廷で、各国より選抜された判事による二年間の審問によって
認められた数字によれば、最終的には、南京では、2万人の女性が強姦され、
市の民間人の少なくとも四分の一に相当する、二十万人以上が殺された(###)。
市の三分の一は(137)火災によって灰燼と帰した。
価値あるもののすべては廃墟から搬出され、日本軍の倉庫に納められた。
南京の商人と、市外の農民の経済は根こそぎにされた。
南京での犠牲は、明らかに、偶発的なものではない。十万人の人が二十万人を殺すことは、
不注意や、酒酔いや、違法行為があったとしても、容易になせることではない。
しかし、世界中からの抗議にも拘わらず、当時の日本政府によって、そうした犯罪者の誰も、
何の処罰も受けなかった。
戦地における部隊が狂暴となり、それには手の施しようがない、というのが東京の公的見解であった。 >>622
今はそうゆう調整型は馬鹿がやることだよ
中途半端な妥協案ばっかしてるから中韓に産業でも追い越されるんだよ 1937年の南京における日本人の行動について、そうしたあいまいな事後説明は、
その真実を語っていない。それよりいっそう確かな事実はこういうことだ。
南京陥落の日、天皇裕仁は、皇后の大おじで陸軍参謀長の閑院宮に、
「極めて満足」と表現し(143)、また、閑院宮は、松井大将に祝電を送り、
「これほどの目覚しい軍事的進展は歴史上かってない」と述べ(144)、
さらに、一月末、ファシスト的な皇后のいとこ賀陽宮は、南京から戻って天皇に、
その地で見てきたことの全面的報告をし、そして、ひと月後の2月26日、
天皇裕仁は、葉山の御用邸に、熱のある松井、王侯然たる朝香宮、そして熱血漢の柳川を迎え入れ、
それぞれに銀の台に菊の紋を浮き出させた一対の勲章を授与した、ということである(145)。
松井は退役して熱海に慰霊の神社をたて、朝香宮はゴルフにいそしんだ。
柳川大将は、もはや嫌われることなく、天皇より占領中国の経済運営を任され、
その後、入閣して、なんと司法大臣をつとめた。彼は、1944年、スマトラで植民地総督にあった際、病死した。
宿営担当の武藤は順調に出世して中将となり、1939年に陸軍省軍務局長、
1942年に近衛第二師団長に就いた後、1944年から45年の間、山下五十六のもとで、
フィリピン方面の参謀長を務めた。(146)
京都にあって、問題の第16師団の頭脳作業にあたった、例の少将、鈴木貞一は、常に、
裕仁の私的特命大使および陸軍内の問題処理係りとしての役を維持し、
驚くべき多能性を発揮して、難しい地位を次々とこなした。
加虐性を特徴とした中島は、南京強奪に最も汚れた役を務めた後、1939年に退役を許され、
南京より持ち帰った戦利品のもとで、安楽な人生を送った。 私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、
裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。
こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。
たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。
こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、
素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。
彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。
彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。
1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、
常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。
彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。
また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。
また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。 裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。
それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、
近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。
また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。
しかし、こうした主張は、こじつけのようである。
というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、
彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。
裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、
また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。
彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。
彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。
当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。
そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、
南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を
殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、
この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。 私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、
戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。
これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。
杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。
記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。
しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。
それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、
詳細な質問をしていることを記していた。それは、マッカーサー将軍が語ったという、
裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と
真っ向から食い違っていた。 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、
真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。
それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、
裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。
1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、
それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。
『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、
彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。
極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や
緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる
「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。
以上の私の発見は、したがって、歴史上の重要な前進である。
これに相当するものは、戦時中の国務長官、ヘンリー・L・スティムソンの手書きのノートに
新たに発見された、1941年夏、ルーズベルト大統領が、日本の攻撃のえさとし、
アメリカ国民の第二次大戦への参加の理由とするため、
真珠湾に老朽した軍艦を明らかに無防備なままに係留する可能性を調査することを命じたという、
米国版のそれである。 身内では消化できるかも知れないけど3選ともなれば有権者の反応はどうかな?
支持率維持に苦労するんじゃないかと思うわ・・・
まぁ 改憲が目標の決断なのかも知れないけど 国民投票時のリスクになる気がする
改憲目指してもう一度、麻生さんがやればいいのに >>25
大ウソばかり書いてんじゃねえ!
バカ自民党ネットサポーターズのクズ共が! 大企業、土建屋、公務員
これ優遇しとけば選挙では絶対勝てるのが比例代表小選挙区並列制だから
安倍がどんだけ国民に不人気でも勝てるんよ
欠陥選挙制度なんよ 日本人のふるまいは ――社会的にも思考的にも法的にも――、
どの司法関係者にとって、顕著な疑問を与えていた。28人の被告のだれ一人として、
1937年にパナイ号を沈没させた橋本欣五郎を唯一の可能な例外として、
ヒットラー級の非道資産階級はいなかった。
裕仁への生涯の忠誠を除き、だれひとりとして、互いに共通するイデオロギー的基盤を
もっているわけではなかった。そしてかれらの誰もが、日本中で最高位で、最も優雅で、最も裕福で、
そして英語を使える一族への、服従的な献身をささげていた。
裕仁の治世下でおきた日本人が関与する虐殺事件は、1928年、中国、
済南〔山東省の首都〕のそれが最初だった。その当時、告発された者たちの
誰も、指揮責任を持つ地位にはおらず、最高位でも大佐だった。
東条は、彼が満州の秘密警察の責任を負ったとみなされる1935年までは、
まだ未熟で、軍部官僚として、まず告発されることのない生活を送っていたといえる。 木戸が弁護士事務所で幾度も指摘したように、彼の日記は、
真珠湾の八日前、弟の高松宮による攻撃計画を再考するようにとの最後の嘆願を裕仁は拒絶したことを記している 1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。
「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」
東条「そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。
いわんや、日本の高官においておや。」
ログマン「以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。」
裁判長(ウェッブ)「今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである」
まさしく、それは誰もが知っていたことだった。そこでキーナンは、
彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、
ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。
だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。
東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。木戸はまた、
刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した(146)。
小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、
東条は彼の話を無視することはできなかった。
二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。
彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を
始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように
強いさせたかも知れないことを認めるに至った。 東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、広田広毅、木村兵太郎、
武藤章そして松井岩根。彼らは、日本のヒットラー、ヒムラー、ゲーリングとして、
二年間の審問の後の1948年、連合軍によって絞首刑に処せられた者らである。
おおくの日本人にとって、彼ら七人は、そう罰した国際法廷が言う意味での
有罪犯ではなかった。彼らは、日本を戦争へと導いた悪い陰謀者でも、
ヒットラーやその一味のような狂った者らでもなく、むしろ、天皇への忠誠な
奉仕者であり、政府の責任ある官吏であり、西洋式法廷の要求を満たすため、
支配階級によって白羽の矢が立てられた象徴的身代わりであった。 昭和天皇が松岡洋右元外相らに開戦責任を押しつける発言をしていたことは
他の史料でも明らかになっている。
戦犯連中にしてみれば、「本来なら最高責任者の陛下こそ戦犯じゃないか」
というツッコミをあの世から入れたい気分ではないか。
http://www.mdsweb.jp/doc/947/0947_08a.html 野党はどうかと思っても、安倍ももう交代する時期だろうね アメリカの言いなり政権でないと長続きしないのが日本なんだよな悲しいことだが 負けた派閥が冷遇されるのなんて当たり前だろ
特に石破なんて党から追放されるレベルだろ 麻生ジジイは安倍にくっいて
この先も居座るつもりか
超高齢者はお断り
さっさと隠居しろ、半ボケのくせに 石破派20人しか居ないんだな。
地方票も前回に比べたら減ってそうだし 脅しかよ
歌丸じゃなくてこいつが死ねば良かったのに 岸田、石破、野田の派閥は時期総裁選負けたら冷遇を覚悟してもらう 広島・岸田さん立候補しそうにないし
石破プラモデル大臣じゃ、勝てそうにないしなあ
安倍ちゃん、わざと負けろよ >>678
岸田とは話し合いが継続している。
竹下亘は石破の緊縮に沿えば自滅だ。
石破は政策を間違えたんだよ。 >McdYAnMA0
長文ご苦労様でした。
確かに、ヒロヒトは卑怯者で最大級の戦犯です。
そのことを未だに表立って議論できない空気があり、
今でも「天皇はただのお人形で、戦争遂行には実質関係なかった」と、本気で思っている国民が多いのは、
戦後の洗脳教育のせいでしょうね。 >>682
松岡洋右に押し付けるって・・・だって裏切り者の共産主義者じゃんwwwwwww
遠因は共産主義者を勘違いしたバカ者どもだよ。つまり>>682みたいな奴ら。 >>680
120レス使ってボコられてここでも醜態をさらすかw >>678
岸田は不出馬だろな
他二人は20人集められない可能性もあるからなあ >>687
岸田が出馬しないつもりなら、真っ先に安倍支持を表明するんじゃねぇのか?
禅譲狙いなら、安倍にゴマ擦っておいた方が得だろ
態度表明してないって事は、揺れてるんじゃねぇのかな?
他の不支持派閥と安倍下ろしを画策してるとかさ
石破は自分の派閥だけで20人くらい居るよ、進次郎率いる若手も付いてるし出馬は確実でしょ >>688
進次郎は石破には付かないと思うよ
未来があるのにわざわざ沈む船に残らんだろ 最近は発言が微妙に変化してきてる
まあ岸田派内が揺れてるのは間違いないわな 主戦論だとしても早めに言った方が良いわけだし
単純に優柔不断で決められないでいると考えた方が自然だわな >>689
進次郎本人が石破支持を表明してたんじゃなかったっけ?噂レベルだったかな?
進次郎が安倍を支持する可能性は低いだろ
事あるごとに批判的立場をとってるせ
岸田も還暦だからな、何時までも待ってられねぇんだろ
昨年の内閣改造時も、安倍が用意した大臣ポストを蹴って党内職を重視しただろ
大臣ポストで懐柔されるより、党内職で根回しの選択だったかもね
禅譲では遅すぎると決断したんじゃね?
根回しが終わってないので、出馬表明を控えているだけ、という見方もあるんじゃないの? >>690
進次郎の批判は将来を見越したポジショントークと見るべきだな
マスコミや石破はむしろ使われてるようなもんだわ
たしかに大臣断って党に入ったのは次狙いだったんだろうけど今となるとどうなんだろな 派閥内も纏められないのに他に手を回せるだろか?
正直洞ヶ峠か松尾山状態だろ岸田は マスコミ迎合、マスコミの思惑通りのこといってるようでは
野党とかわらないからな >>691
岸田が派閥内をまとめられていないってのは何情報だ? >>694
まとめられてない、というよりは親安倍から反安部にシフトしただけじゃねぇの?
派閥の議員も岸田に勝ってもらって、良いポストにつきたいだろうしな
もう待てないのは岸田だけじゃねぇって事じゃね? 麻生爺さんの口はなぜ曲がってるんや?TVには整形で治療してから出演するのが
エチケットじゃないのか?あんな口の曲がった顔を見てると気分が悪くなるぞ!
麻生は漢字の読めない頭の悪いジジイやな!麻生の加齢臭は吐き気がする!おえ〜! 岸田のケツ持ちが国民的不人気の古賀じゃ二の足踏むのも理解できる 2.26で牧野伸顕と和子を討ち漏らしたツケは、あまりにも大きいんだよね〜。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています