【考古】「初期農耕集団が京都盆地でも定着」 弥生期の大規模集落跡 京都、社会変遷たどる手掛かりに
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水田跡で確認された弥生人の足跡(26日午後2時41分、京都市下京区醒ケ井通松原下ル)
https://www.kyoto-np.co.jp/picture/2018/07/20180726203756isekiasiato.jpg
京都市埋蔵文化財研究所は、下京区醒ケ井通松原下ルの元醒泉小で、弥生時代中期初頭(紀元前4〜3世紀)の大規模な集落跡が見つかったと発表した。水田や建物の跡、石器や管玉などの出土品もまとまって発見され、近畿北部の弥生社会の変遷や実態を解明する手掛かりになるという。
小学校整備に伴い弥生〜飛鳥時代の「烏丸綾小路遺跡」の南西部約2900平方メートルを調べた。
水田は、調査地東側にかつて流れた鴨川支流の汚泥がたまったところに東西5メートル、南北12メートルで見つかり、人の足跡のほか、土壌中に稲のもみ殻約200粒があった。京都大吉田南キャンパス(左京区)で見つかった弥生前期の水田に次いで市内で2番目に古い時期になる。近くに約10棟の竪穴建物跡もあった。
稲作に使った石包丁や、武器に用いる石のやじりといった石器、千点以上の壷(つぼ)や甕(かめ)などの土器、管玉も出土した。
市中心部では平安京建都以降、開発が繰り返されたため、古い遺構や遺物は壊れていることが多い。集落の人は北側の四条通周辺に移った後、ここを埋葬地に使うなど土地利用の変遷も分かるという。
関西大大学院の森岡秀人非常勤講師(考古学)は「稲作を始めた弥生前期から中期にかけ、近畿では集落が農耕適地を求めて移動するケースが多く、調査により初期農耕集団が京都盆地でも定着していたことが鮮明になった。弥生中期初頭の出土品がまとまって得られた意義も大きく、近畿北部の弥生文化や社会の実態を研究する上で貴重な成果だ」とする。
現地説明会は28日午前10時〜11時半。当日の問い合わせは現地事務所。
京都新聞 2018年07月27日 06時00分
https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20180726000170 >>72
まあダーウィンなど嘘をつく科学者もいるからな 歴史修正というより現実修正とか現実整形主義というほうが
韓国やユダヤ人にはしっくりくる >>51
今いる京都人て応仁の乱とかで人種入れ替わってるかもね
鎌倉とか奥州藤原の土地の方が貴族につながる人多いじゃない いうて九州から来た神武が大和(奈良)を中心に統治してた別の天孫勢力を打ち滅ぼして大和をぶん取った事は普通に伝わってる事だし >>25
こういう最低バカの在日は分かりやすいわ
半島内で近親族が殺し合いと近親交雑をずっと
繰り返してきたわけだろ
そういう百済人は新羅人の難民の子孫は脳がまじで
DNAレベルでヤバくなってんだろ >>70
任那地域を生活圏と交易圏にしていた縄文系倭人や弥生系倭人に教えてもらわなければ稲作できないし軍事的にも百済なんて日本に依存でおんぶに抱っこだったよ
ときには日本人を怒らせた百済は怒った任那の倭軍に城ごと包囲されたりだった >>1
京都は掘れば必ず何かが出てくるwwwww
マジですげえ歴史的都市だよなwww 大陸における負け組の吹き溜まりが
日本列島の祖先である 弥生時代中期初頭(紀元前4〜3世紀)
紀元前473年 - 越王勾践が呉王夫差を自殺させ呉を滅ぼす。
日本人の祖先の国だった呉が滅亡した後、日本人の祖先たちは海へ出て日本列島各地に流れ着いた。
種もみと共に。 >>83
実際にそんな所だろうね。
水稲に適さない土地を中継して日本に来るより、
水稲が盛んな土地から人と一緒に来る方が自然。 >>83
一定の人数が来れば、呉で使われていた文物や葬制が入ってもよい(あるいは影響を受けたものがあっても)筈だが、まったく発見されていない
朝鮮の無文土?の影響を受けているが、弥生土器は縄文土器からの変化を辿れている
つまりそれは根拠を持たない想像でしかない >>85
高知県の縄文後期の遺跡からは、大陸南方の漆器が出土しているし、鋭利な鉄器で斬られた人骨も出土している。
ちょうど、呉が滅亡したころと時期が一致。
さらに、魏志倭人伝によれば「倭人(日本人)は、呉の太伯(たいはく)の末裔」と主張していた。
もちろん、顔面に刺青をする風習も同じであったから「北方騎馬民族・龍の文明」に属する魏の国から見たら「異常なる風習」に見えたはずだ。
だから、魏の歴史家は、興味を持って多くのページを割いて魏志倭人伝に書き残したのであろう。
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」 >醒ケ井通松原下ルの元醒泉小
五條天神、天使宮の近くやん >>86
北方騎馬民族が龍とかバカw?
サンスクリットのナーガがルーツの大蛇・雨水崇拝の蛇神族の流れだろ
原始仏教とほぼ同じ経路で東南アジアへの伝搬はよく知られてるよなw >>88
おまえの頭の中では大陸北部では
この季節の日本の山沿いのように
雲や積乱雲が湧いて豪雨があって
生き物のような稲光が走って
乾いた草原に水分神社が立ってるんだw >>82
百済とかは日本書紀に扶余と書かれる穢族で新羅に攻め滅ぼされ皆殺しにされる手前の状況で大勢のボート難民が半島から日本に逃げ込んできたわけ
お前の先祖の負け組半島奴婢の話な >>88, >>89
正直、神話の蛇と龍はごっちゃな俺w
区別とかあるんか? >>88
すみませんアンカーミスでした
その通りです
>>86
おまえの頭の中では大陸北部では
この季節の日本の山沿いのように
雲や積乱雲が湧いて豪雨があって
生き物のような稲光が走って
乾いた草原に水分神社が立ってるんだw >>91
古代の人間は見たままと
心の眼でみえたものを言語化
するだけだから現在の気象学
の知見などは非常に参考に
できるだろうと思うよ >>86
漆器は縄文時代早期から出ているが、其れ(居徳遺跡の縄文晩期〜弥生早期のものかな?)が仮に大陸南方のものであったとしても、たった一例でしかしかないし、戦闘痕のある人骨は渡来人が来た証拠にはなりえないな
文化と慣習の異なる外国人の大量渡来の影響である生活痕と葬制痕は面的(地域全体)に出ないとおかしいんだよ
それから、「呉の太伯」云々は『魏志』倭人伝ではなく、魚豢『魏略』(逸文集しか残っていない)にある文だな
『晋書』倭国伝にも引かれているもので、『魏略』が本として残っていた5世紀前半に裴松之が『三国志』に(余計な)注釈を付けるわけだが、その際に呉の近くあるいは南方の国だなと判断したかして引用された文に過ぎず、陳寿の記述ではないんだ
よ
なお、君が最後の行に書いた文章は、張楚金『翰苑』巻30にある文章だが、それも『魏略』から引いたものだな
『魏略』は、類書(なんでもかんでも載せる寄せ集め本)の類いなので、公文書などに基づいて陳寿が著した正史として皇帝に認証された所謂『三国志』(3世紀末成立)とは比べものにならないほど信頼性が低い
著者の地位の違いを現代日本で例えると、陳寿が文部省の歴史編纂系の次長部長級であるのに対し、魚豢は町の好事家でしかなく、つまり歴史家ですらない
ちなみに、『翰苑』も「寄せ集め本」なので、『魏略』と同じく、本としては重要視されず後世に引き継がれなかったんだな
ただ、陳寿の記述そのものがすべて正しいとも限らない
倭国を呉のそばにあるつまり南方の遠い大国と見せかけたかったという動機は岡田英弘によって指摘されている 縄文人って焼き物の技術が高いよね。甕棺なんて見事だと思うわ。 >>94
>戦闘痕のある人骨は渡来人が来た証拠
馬鹿チョンの一つ覚えのセリフw
現実には弥生人が自分たちの地域内での武器を使って戦った痕跡しか残ってない
北九州勢と近畿勢の戦いの痕跡すら見つかっていないんだよ >>66
いまではD2ではなくD1bと分類が変わった
D1bが日本固有とされるのはおそらく3万年以上前の日本列島で分岐したからだろう
しかし日本人の中でもD1bを持つのは男性のみで3分の1程度だし
第二次大戦の日本人の進出によって
韓国やポリネシアなんかにも5%ほど見受けられる ポリネシアじゃなくミクロネシアだった
5.9%だって >>85
呉越は文字がなくて銅鐸や銅鼓みたいな銅楽器に意味を持たせて令状にしてた
文字使うのはそのあと楚に支配されてから >>101
たしかになあ。
夫差 「悔しい気持ちをを忘れないように薪の上で寝るよ」
勾践「俺は苦い胆をなめるよ」
普通は悔しい気持ちを日記に書いといて、毎晩読み返すとかだよなw >>57
それは無い、邪馬壱国は南に対抗する敵狗奴国が有ったんだよ。恐らく熊襲の事でしょ。
因みに宮崎は熊襲の地だよな。九州(筑紫)4面の内の一つが熊襲の国別名建日別ね。
北が筑紫、東が豊、西が肥、南が建日向日豊久士比泥別、熊襲な。 >>7
水田稲作民の拡散の延長であって、勝者敗者とかで単純化できんよ。
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/wp-content/uploads/inasaku_MAP.jpg
日本列島への水稲伝来は今は3000年前までさかのぼるというのが有力説になりつつある。
長江や黄河の流域で初期水稲の伝播が限界に達した時期と一致する。 >>104
民の拡散ではなく、技術の拡散だな
民が来たという考古学上の根拠はまったくない 縄文人なんて1000kmキロ離れた場所で同一の高度な技術のやり取りが行われてて
漆も有舌尖頭鏃など貪欲に良い技術は仕入れに行ってプレゼント交換してたらしいな 京都で弥生初期の水田跡が見つかったのと邪馬台国が何の関係があるのか、
何でもかんでも邪馬台国に結びつけたがる低能の多い事には呆れかえるばかり >>105
最新のデータでは
朝鮮半島南部の稲作の痕跡がBP3300で
日本列島がBP2800だからな
500年も差があるわけで 「PB」なら知ってる。
イオンのPBはもう買わない。 もう俺が生きている間に卑弥呼の大河ドラマは作られなさそうだな
はやくどっちか決着ついてくれ 静岡や愛知の田んぼは区画がきれいで田舎の田園とは違う 京都ってすでに市内に石器時代から、縄文、弥生の遺構が同じ場所から出てくる凄い遺跡があるんだけどね。
規模も三内丸山を遙かにしのぐやつ。
調査後に住宅地になったからわからないだけ。 >>20
稲作は南方からだよ、朝鮮人の思い込みだね。 >>110
邪馬台国ならヤマトで確定してるだろ。
九州説の根拠は既に考古学の世界では皆無だよ。あそこは奴国でしかない。 >>108
その稲作をやっていたのは江南人であって、朝鮮人ではない。
いくらなんでも、イネの起源は韓国だとは言わないだろ。 >>117
奴は人を蔑視した言い方人国つまり倭国
ヤマトはどう考えてもよそから来た征服王朝
どこから来たかというえば高句麗で三韓は高句麗の分国でその王族とヤマトの王は同族
さらに神事や古墳は高句麗を意識してて出自は明らか
なのに日本人はこれを嫌って韓国は自分の歴史と言い出すからめちゃくちゃになってる >>120
朝鮮人は広開土王碑を誤読して、高句麗は海を渡って倭を破ったと
理解している。
ヤマト王朝が高句麗系だとしたら、高句麗はツングース系C2なので、
日本にもC2が多数いないとおかしい。しかし実際は6%しかいない。
しかもアイヌの25%はC2だから、日本のC2は縄文系だ。 >>123
高句麗は韓国起源ではない。満州起源だ。 チョンはほんとうに高句麗が海を渡って、
弥生人の倭国を征服して、ヤマト朝廷を立てたと
信じているぞ。
倭の読みがすでにヤマトだったことを知らない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています