【京都】平安京の中から弥生時代の集落が見つかる 都造営でも破壊免れる 紀元前400〜同300年ごろの竪穴住居跡や流路跡
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平安京の中から弥生時代の集落
都造営でも破壊免れる
2018/7/27 00:52
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烏丸綾小路遺跡で見つかった弥生時代中期初頭の竪穴住居跡=26日午後、京都市下京区
https://nordot-res.cloudinary.com/t_size_l/ch/images/395242545766204513/origin_1.jpg
京都市下京区の烏丸綾小路遺跡で、弥生時代中期初頭(紀元前400〜同300年ごろ)の竪穴住居跡や流路跡が見つかり、市埋蔵文化財研究所が26日発表した。
平安京造営の際、市中心部は大規模な土木工事が行われており、弥生時代の遺構が明確に分かる状態で見つかるのは珍しい。
担当者は「弥生時代前期に入ってきた稲作文化が京都ではどのように定着していったかを知る手掛かりになる」としている。
研究所によると、調査した区域の西側と南側で竪穴住居9棟が見つかったほか、北東から南西に水が通った流路があり、稲作をしていたとみられる。
住居や流路からは千点を超える土器や石器が出土した。 弥生は高床式なのに、まだ竪穴住居とかどんだけ田舎だったんだよw これ、平安時代でも遺跡あつかいで人は住んでなかったのか 「これ何やろ?」
「祟りがあるかもしれんからそのままにしとき」 >>6
縄文人:「平安京のエイリアンうぜえウザすぎる。埋めとこ。 祇園祭の宵山で最も混雑するあたりか?
たぶん祭のピーク過ぎるの待っての発表だな ネトウヨ理想の普通の日本人像
・歴代天皇、歴代伊勢神宮大宮司を暗唱できる
・プライベートのメモでは神代文字、仕事では康煕字典体を使う
・毎朝起床すると、宮城の方を向いて一礼
・天皇・皇太子と安倍の御影を額縁で飾って壁に置いている
・祝日には玄関には日本国旗を掲げ、家族全員で祝日唱歌を歌う
・マスコミが嫌いなので天気予報は見ない、代わりに陰陽師を家に呼んで天気を占う
・愛読誌は保守系媒体、主要新聞のほか、与党や自衛隊の広報誌も読む文化人
・高校卒業と同時に軍隊に入り、最低2年間お国のために奉仕する >>6
弥生稲作人と朝鮮ボート難民は何の関係もないからw 794年時点では無人の荒野だったのか多少は村があったのか >>18
東南アジアやオセアニアでは普通に高床式住居に住んでいるのに
何で日本は竪穴住居にこだわって住んでいたのか
中世以降の民家も竪穴住居をちょっと持ち上げただけの造りで
けっして高床式ではない 何で元々熱帯の植物の稲が朝鮮から日本に伝わるんだよ
南から伝わったに決まってるだろ 紀元前400年頃って
中国は官僚体制の整った文明国だったのに
日本人は原始人に近い暮らしをしてたの? >>8
高床式は倉庫
今でも神社の形式として残ってる
庶民の住居としての竪穴式住居は健在
弥生人が新たに大陸から来た人という認識がおかしい
弥生時代も縄文時代から続いて刺青の風習あるし竪穴式住居もあるのに 授業中、当てられて黒板に堅穴式住居と書いてみたら誰も気づいてくれなかったのを思い出した >>23
弥生はチョン
そのまま畿内に居座って今の大阪人になった >>29
その頃の中国は春秋戦国時代で覇者が覇権を争ってたころかね
日本は天皇が治世を始めた頃でそこまで原始人ってわけではない >>24
水も低地もあって無人の荒野なわけないだろ
縄文時代の遺跡も沢山出とるわ 韓国からお越しくださった先進民族の集落ですね。
改めて、兄の国韓国に、偉大な主の国に、感謝。 今日の現地説明会行かれた方、どんな様子だったでしょうか? >>42
ちがうね。
朝鮮半島の先住民族で現代の韓国は別民族。 これどこよ
シルクホールのとこか
なかなかできひんはずやわ
京都経済センターやったっけ? 大陸からきた稲作始まってから奴隷ばかりになったんだよ
縄文のほうが立派
火炎式土器とかかっこえー 奈良はウリナラのナラだし、古代、朝鮮の文明を学ぶために日本が必死になってたのは周知のことだろ。
だいたい、平安京といえば桓武天皇だけど、桓武天皇は在日コリアンだし。 弥生パークの跡地だろ、平安だってテーマパークのひとつぐらいあんだろw >>47
朝鮮学校ではいまだにそんなトンデモ説を教えてるんだ
土人が学ぶのにちょうどいいけど 今でいう現地人集落跡だろうな。
で
奈良盆地から山を越え天皇の先祖が原住民を追い出したか?
抵抗する物は虐殺したか?
権力者は多くの血を吸って成長するしね。
慈しみ深い聖人なんかじゃないね。
イメージ蛮族の長だな。 本当困るのよ!こう言う昔のゴミ出ると、工事は中断し、時間と費用の概念のない役所と学者と文部省が
人様の土地で勝手に発掘作業して迷惑なのな!
工事現場で昔のゴミ出たら、知らん顔して作業進めるのが一番や! 遺跡が土に埋もれる理由が
西日本の河川氾濫でわかった気がする
治水が進んでいない
いや治水概念すら無い昔では
大雨による土石で埋もれる
地下からの発掘は
災害の痕跡かもな >>51
見なかった事にするにはデカ過ぎたんじゃね >>52
そもそも京都自体が扇状地だし。
扇状地はつまり土砂が堆積してできた土地だ。
土砂が堆積する理由は一つ。洪水。 二つの時代の遺跡出てきたらどっち優先したらいいんだ。
二択クイズ
平安京跡か弥生跡のどちらかを壊さないともう一方は安全に発掘できない。どっちを守る? 今の世の中でも、あそこは昔から集落が形成されてたから地盤的にはOKだわとか
言われてたりするけど、当時も「あそこは天皇の時代の前の蛮族が居た時代から
集落があったから地盤的に大丈夫、新たな都作るならここだな」とかやってたのか? >>6
渡来人が縄文人とだんだん同化したように
朝鮮半島にも原人みたいなのが流入してるからなぁ
クソ食い、犬食いの文化はそういうのが持ち込んだんでしょw
あんなのが兄とか遠い親戚とか辞めろ、と言いたい モンゴルから朝青龍みたいな乱暴者が半島へ大量に流れ込んで来てるからな これ、開発のための調査で出てきたんだろうけど
地味に大事なのはいかに京都といえどもこれより深いところから出てくるとしたら縄文以前しかないってこと。
大深度地下の工事がこれから色々なところでなされるだろうけど
遺跡が出てくる可能性がある深さに一定のあたりがつくというのはけっこう大きいと思う。 >>28
華北の内陸なら夏は暑くなるから水さえ引ければ水田稲作ができる。
実際、アワが主食だった時代には水田も今より北の方まで広がっていた。
それが黄海を渡って南朝鮮に伝わったんでしょ。 >弥生時代前期に入ってきた稲作文化が
稲作の方が弥生式土器より早く入って来た事実が既に判明してるのに何で土器年代を勝手に稲作に合わせて土器の見つかって居ない年代まで繰り上げるのよこの朝鮮役人どもめが(´・ω・`) >>62 黄河域の古文書には饅頭と麺しか出て来ないよつまり麦作地域だった 桓武天皇は平安京の前に長岡京へみやこを移してた。
長岡京へみやこを移す時、難波宮は必要がなくなったので
大極殿などは難波宮のものを解体して長岡宮へ移した。
畿内の河内国交野郡は桓武天皇と深い関わりがある。 >>52
それだけじゃなく、わざと土盛りして古いの埋めてから新しいの作る事もよくやってるから >>56
平安京跡の下にアトランティス遺跡が在ると分かった場合は、平安京跡をぶっ壊す >>56
そういう場合ってあるん?
普通に上から掘っていけば良い気がする。 >>27
>東南アジアやオセアニアでは普通に高床式住居に住んでいるのに
>何で日本は竪穴住居にこだわって住んでいたのか
>中世以降の民家も竪穴住居をちょっと持ち上げただけの造りで
>けっして高床式ではない
高床式じゃ家の中で火が焚けないだろ
土間じゃないと炉が作れない。 住みやすい場所は昔から誰かしら住んでたってことだろ。 >>1
京都は韓国人が作った都市だってのは学会では定説だしね 烏丸綾小路遺跡だから
地下鉄四条駅の真上だな、京都のど真ん中中心街に
2200年前から人が住んでいたとは知らなかったよ。
四条烏丸はそんなに昔から大都市だったんだな。 四条烏丸は江戸時代まで鴨川の河原みたいなところだった。
鴨川は昔は細流がいくつにも分かれていて、その間は中州になっていた。
川と河原を合わせると今の五倍ぐらいの面積があっただろう。
河原には市中に家を持てない貧民が小屋がけして、びっしりと小屋が建て
込んでいた。
弥生時代は鴨川(その後烏丸川と呼ばれた細流の一つ)から水を引き込んで
水田耕作をしていたんだと思う。
烏丸の語源は川原洲(かわらす) 何でだろうな
京都で遺跡とか文化財が出てきても、なんだ京都か
てなってしまうのは何故だろう
京都って歴史を大事にしないエセってイメージがあるからかな 登呂遺跡って湿地帯だから、穴掘って住居にすると水が入って来るんだってね。
掘るんじゃなくて、盛り土してるんだってね。
竪穴住居じゃなくて竪穴型住居らしいわ。 登呂遺跡などの竪穴式住居は萱(かや)で作ってあるけど、
萱を材料としたかは従来から疑問視されてきた。
萱が自生しているような場所は限られていること、萱を刈って
乾燥させて住居にするまでは手間がかかり多くの人手が必要な
ことから、弥生時代の集落程度の人口では不可能ではないかが理由。
最近、遺跡の土などの分析で、萱は使われていないことが判明したものもある。
竪穴式住居の主たる材料は土だという。
土だと、今の登呂遺跡住居などのスタイルでは雨で溶けてしまう。
だから壁を土にし、屋根を藁とか竹とかで葺いたのではないかという。
俺は、秋田のカマクラみたいに土を山のように盛り上げて固め、そこに
横穴を掘って部屋を作る。その上に切り妻型の屋根を乗っけたんじゃ
ないかと思うけどね。千木(ちぎ)という神社の屋根に特有の飾りが
あるが、あれは土の家の上に屋根をかぶせたときに左右から五本ぐらい
づつ柱を立てかけたなごりと思うけどね。
そうすると、登呂遺跡の住居スタイルとは大分違ってくるな。 > 弥生時代中期初頭(紀元前400〜同300年ごろ)
世界は核の炎に包まれた!
海は枯れ、地は裂け、全ての生物が死滅したかのように見えた。
だが、人類は死滅していなかった!
竪穴住居跡や流路跡を作って生き延びていたのだった! 俺の名字も、○○院とか○条とか烏丸とか中御門とかにしたい
中村とか鈴木とか田中ってしょぼすぎる https://www.youtube.com/watch?v=W7Aju4gbIAU
竪穴式というとこういう感じだが、これじゃ住めないよ。
地面の湿気で病気になってしまう。
俺は人の背丈ほどの土壁はあったと思うんだ。
その上に藁などの屋根が乗っていた。
土壁は笹や竹を編んだものを塗り込んで補強してあった
かも知れない。
土壁の土は地面のつちと見分けがつかないから
分からなくなってしまうんだろうが、俺は壁はあったと思う。 >>81
歴史や伝統を守っている(つもり)今現代の俺偉い!みたいな感じだからかね?
まあそこもいかにも京都っぽいが。ある意味呪いみたいだなw 京都は弥生どころか縄文も旧石器もあったと思うけどな。 >>86
そもそも京都の貴族が藤原さんばっかになってどこの藤原さんか区別する為に
住んでる地区で呼び方変えてただけなんだけどな
三条(藤原さん)二条(藤原さん)四条(藤原さん)西九条(藤原さん)
京極(藤原さん)みたいにさ 平安京とは比べ物にならないほど乱開発の東京や神奈川からも
縄文時代の遺跡がどっさり発掘されてるんだから
平安京から弥生発掘なんてあたり前田のクラッカーだよな >>86
確か裁判所に理由も一緒に届け出てたら名字変えられるはずやぞ
凶悪犯罪者と同じ名前は嫌だと言って裁判して名字変えたりしてるし
ただ在日朝鮮人の通名と違って道のりが大変らしいが >>94
確実に言える事は縄文時代は凄い長期間だからな
人類がアフリカで生まれたとして日本まで移動してきたとしたら
武田邦彦先生が言うみたいに赤道直下辺りを海流に乗って東へ移動したんだと思うけどな
氷河期は中国大陸とか一面氷の世界で作物取れない狩りもできない
食べ物が無いからな 竪穴式の住居って写真で見る限り1Kとかだよね、プライバシーとか寝室を分けるとかなかったんだろうか >>88
確かにおかしいよね、土間に寝転んでの生活じゃ体温が土間に奪われて寝れないだろうし、床みたいな構造がないと生活できないんじゃないだろうかと思う。 >>97
プライバシーってw
集団共同生活だろ
言っとくけど多夫多妻制やからSEXもマジで乱交やぞ 丸竹恵比寿二押御池姉三六角蛸錦四綾仏高松万五条
⬆
ここ
何メートルも下に埋まってるってどういうこと?
土砂災害でもあったのか? それは竪穴式住居の跡じゃなくて検非使が掘った穴だ。
掘り出したらウサミミの丸い謎の封印が解けてしまうべ。 >奈良って何で大陸人が居着いたんかね?
昔はあの辺りまで海だったから 闇に葬られた遺跡なんて無数にあっただろうに
たまたま人目に触れたやつからの辻褄合わせじゃ
歴史なんて所詮ファンタジーだわな ずれた
丸竹恵比寿二押御池姉三六角蛸錦四綾仏高松万五条
↑
ここ >>106
大阪の古地図見て驚いたわw
河内って地名そのまま現在の大阪府の大部分が遠浅の海だもんな
難波の宮があった辺りが陸の孤島みたいな半島の先みたいになってた
能登半島の先端が浪波の宮でその周りは全部海みたいな感じでw >>111
上町台地だね。
ここに孝徳天皇が難波長柄豊崎宮、聖武天皇が難波宮をみやこにした。
仁徳天皇の難波高津宮はどこにあったかまだはっきり特定されてないが
難波の堀江は仁徳天皇が開削するように指示したそうだ。
律令制前は畿内の摂津、河内、和泉は全て河内で
応神天皇、仁徳天皇とその一族の時代は河内王朝時代と言われてて、
この頃に多くの渡来人が畿内に来てたみたいだな。 >>97
其の狭さでは意外に核家族だった気がする。
子供への手前、夜の営みはなく野外での昼の営みだったのだろう
大自然の中の まぐあい だからむしろ健全でいまのような隠しカメラもないだろうから
変態爺の出没する余地もなく ユートピアだったんだろうな >>111
愛知も一宮と熱田が岬になってて周囲海岸線だったり東京も内陸まで海だったり陸地全然あらへんかった 奈良県の北半分は湖だった。古代奈良湖と呼ばれる。
今の淀川河口あたりは汽水域で、浜名湖みたいな状態。
飛鳥時代、ここから宇治あたりまでは大きな船でも楽に入れた。
奈良の方面に進めば石上神宮あたりまでは進入可。
小舟に乗り移れば櫻井のあたりまで船で行けた。
斑鳩の宮も当時はすぐ近くまで湖が来ていた。
斑鳩の宮は外国人との貿易のための施設があり、外国人がたくさんいた
との説もある。
聖徳太子は飛鳥まで船で通っていた可能性がある。
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7
京都南部には巨大な小椋池があった。
琵琶湖にも繋がり、奈良湖にも繋がっていた。
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/history1.html
古代から平安時代ぐらいまで、難波や京や奈良は水運で容易に行き来できた。
平安貴族は宇治に別業(別荘)を構えたが、そこに行くには鴨川を船で下ればよく、
宇治平等院などは船でそのまま庭の池まで乗り付けていたらしい。
舒明天皇国見の歌
大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば
国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は
国原は香具山の南側で飛鳥の都がある方向。煙が盛んに立っているとは
家々の竈から無数に煙が立ち上っている様で、都が賑わっている様子。
さらに舒明天皇の頃は蘇我馬子が飛鳥寺を建造していた。
煙は集められた役夫たちの炊飯の煙だったかも知れない。
海原は北側の奈良湖方面。
一面海のような状態ででカモメが飛んでいた。 京都市下京区の烏丸綾小路付近は標高29mもあるから弥生時代の集落跡があっても
不思議では無い。吉野ヶ里遺跡は標高9mだが縄文と弥生の遺跡がある。
縄文海進は海抜9mくらいまでと考えて良い http://maps.gsi.go.jp/#17/35.004370/135.762026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
標高の分かる地図
(画面左下に出る)
ビル一つ一つまで表示可能なので四条烏丸あたりを調べると
38メートルだな。
遺跡が何メートル下の土中から出たか分からないけど。
京とは北と南では北が高く、東と西では東が高い。
一枚の板とすると東北を一番高く、南西を一番低く、斜めに傾けた
ような状態。
1では
>北東から南西に水が通った流路があり、稲作をしていたとみられる。
京都の傾きどおりだ。 京都は掘れば何か出てくるね
でも俺が所有してる田んぼを掘った時に古墳が出てきたのはビックリしたわ
出土品は何も無かったけど 上の標高の分かる地図は面白いね
四条烏丸駅から右上、北東方面にポイントを移すと1メートルとか2メートルとか
高くなっていき41メートルぐらいになる。
南西方面に動かすと池坊短大あたりは1メートルほど低く、糸屋町あたりは
2メートルほど低い。
平安時代あたりまで烏丸川という流れがあり、烏丸通りはその川に沿った細道の
ようなものだったという。
烏丸川は池坊短大の西側あたりを流れていたのではないか。
市街は工事で平らにされていると思うので、高低差はもっとあったろう。
この遺跡の住人たちは南西の高くなっている方角から水を引き、集落の下の
段丘に田を作ったと思われる。
日本人は田んぼの中には家を作らなかった。田の西や北に住むことが多かった。
そこから考えて池坊短大あたりが田んぼだったかも。 ×この遺跡の住人たちは南西の高くなっている方角から水を引き、集落の下の
○この遺跡の住人たちは「北東」の高くなっている方角から水を引き、集落の下の
北東です。 コンコン烏丸のところかな
あんなところに空地あったっけ >>111
だから、貿易港とか水際迎撃のために栄えてもらう必要はあるが政府機能置けないってのが、歴代の共通認識 醒ケ井通松原下る篠屋町59だ。
四条烏丸がどうしたとかの途中の書き込みに引っ張られた。 まあ都市が都市たりえるのは理由のないことじゃないんだよ
現代でもスクラップ&ビルドの再開発再開発ってやってるじゃん
では田舎を開発するかといえばそれはやらないわけだwww
これは別に現代人だけの話じゃなくて古代の人間もやったわけだ
住みよい環境には理由があるものだからね。
だから大都市を発掘すると往々にして過去の遺跡ってのはあるもんなんだよな
もっともネトウヨが住むような文明から隔絶された深山幽谷の人外魔境になると
地球誕生以来、人類が住むのはこれがはじめてなのかも、これはわからんがねwww ところでウリは変態なのでw
まったく縁もゆかりもない街の地場の歴史博物館みたいなところに行くのが
ひとつの趣味なのだが、どこの街でも最初は縄文だよね。
まあ最近は最後に縄文というプレイバック式展示も増えているけどw
縄文人、まあ1万年活動しているからね、
現在の区画でいえばどの市町村にも痕跡あるのかな
まあそんな気はするよね。しかしまあ1万年なあ。 日本に最初にやって来た弥生人は朝鮮半島からだが、九州から関東まで住み着いた
それからずっと後になり大陸の江南地方から江南人(倭人)が北部九州に住み着いた訳だ ところでこういうのってそもそもどうやって見つけるんだ?
普通に土木工事で破壊して気づかないレベルだろ 過去の事なんかどうでも良いよ
今、明日も生きて行くので精一杯だから 年代が本当にきちんと測定支店のカネ。炭素同位体測定?
テンノーの歴史を捏造するべく、段々、昔へと伸びているのがおかしい。
どの道、中国兵馬俑を越えない限り全く意味がないんだけどwwwどんぐりの背比べにしかならないんだけどwww。 全然関係ないけど、天皇家の象徴の三種の神器ってあるじゃん
剣は武力の象徴だしなんかカッコいい
鏡はピカピカで綺麗でカッコいい
でも勾玉ってなんなのあれ?
意味わかんないんだけど >>29
そりゃローマが現代文明−(電気+内燃機関)くらいの生活水準してたときでも
ガリアやブリテンはウホウホ原始人住宅やん 疑問なんだけど、弥生時代に人が集落で暮らす村が出来たのにその後平安時代、鎌倉時代?に惣村が出来るまでまたバラバラに暮らすようになったの? おまえらがいつも沖縄を目の敵にするのは、単に縄文人対弥生人の現代版みたいなもんだろうな >>134
現代の土木工事している最中に何か遺物なんかが出てきて
その周辺を掘って行く時に
元からあった硬い所と掘って埋めた柔らかい所ができてるから
柔らかい所を丁寧に掘っていくと見つかる。
見つけた場合、届け出しないといけないんだけど、
調査終わるまで工事できなくなるからそのまま壊す業者もいる >>138
ファイナルファンタジーやればわかる
武器:草薙の剣
防具:鏡の盾
アクセサリー:勾玉 >>134
一応、掘る前に調査すんのよ
京都なんて掘ればなんか出るから
そりゃもう慎重にやる
工期が遅れるから出ないでくれ出ないでくれって思いながらな >>142
田んぼ作る土地がなくなったらどんどん広がっていくじゃろ 烏丸綾小路遺跡は明治初めに創立の旧醒泉小学校跡地の校庭なのでほぼ150年近代建築の工事で破壊されずに済んでたんだな
京都御所にもそこそこ近いからその前は公家屋敷か大名の京屋敷だっただろうし、それもあって平安以後それほど土壌が乱されずに遺跡が温存されてたんだろう >>129
じゃあせっかくだから木造藁葺の小学校を建てよう
体育館は高床式で >>122のご先祖様が全部盗掘して売りさばいたんだな ググってみた
醒泉小学校は、明治2年に下京第十三番組小学校として小泉町に開校し、
明治6年に篠屋町の旧丹波園部藩邸跡地に移転、明治26年に醒泉小学校と命名された。
現在も変わらずに醒泉校は ... 醒泉(せいせん)」の名は、
佐女牛井(醒ヶ井・さめがい)という名水に由来する。
佐女牛井は、源氏堀川館の中にあった井水と伝えられ、茶の湯にゆかりの深い
名水として知られたが、戦時中の堀川通と五条通に沿った民家の強制疎開の
ときに堀川通が拡幅され名水佐女牛井も消滅した。
昭和44年、醒泉小学校百周年記念で井戸跡に石碑が建立されている。
(京都市編『史料 京都の歴史12』「下京区」[平凡社・1981]など参照)
丹波園部藩邸があった場所なんだな。
もともとあった佐女牛井は、堀川館ができてその中に取り込まれた。
源氏堀川館は源頼義や義家など源氏の頭領が住み、平治の乱で消失。
平家は六波羅で、源氏はこのあたりだったんだな。
六波羅から考えて源氏の武者たちの館がたくさん建っていたわけだ。
義経が再建し、土佐坊昌俊が襲撃したのもここ。
義経が都を去ると屋敷は取り壊される。
佐女牛井はその後、名水として茶人などに珍重された。
戦時中堀川通りが拡張され、その時に撤去。
付近には泉と名の付く地名も多いし、よく水のわき出る土地だったんだろうな。
弥生人たちはその水を使って農耕を営んでいた。
この人たちはどこから来たのかねー
千原兄弟みたいな顔してたのかな 日本人は紀元前から稲作やって米食ってたのか
なんかすげえな 弥生人は朝鮮人じゃない。江南人だ。
何度言ったら理解するのか? >133
今年、2018年七月六日に横浜市パシフィコ横浜で開催された国際分子生物進化学会では、金沢大学の覺張
隆史特任助教が発表し、2500年前の愛知県の井川津貝塚の女性人骨の全ゲノム配列を解読したという。
遺伝子分析の結果、東南アジア系の六大先史文明人グループのうち、遺伝グループ1に一致した。
遺伝子グループ1は、
「現在のラオスに約 8 千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約 2 千 500 年前の一人の女性
のゲノムがよく似ていることが分かりました。 」
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf
これは、明らかに、日本列島の縄文時代の人類が、ビルマ、マレーシアから、数千年を掛けて、やって来て、日本に
居住して、生き延びたことを示している。勿論逆方向という可能性もある。
15年前の熊本大学の研究では、「日本の縄文時代の稲の遺伝子が中国湖南省の短粒種と一致している。」
としている。実は、ここにヒントがあるのである。日本の縄文時代に発掘された稲の遺伝子が、数種類あるが、
どれも、湖南省の短粒種を除いて大陸の稲の遺伝子とは一致しておらず、不思議がられていた。大陸から伝播
されてきたのであれば、大陸由来のもっとも多い長粒種である確率が高いからだ。日本人である縄文人の好み
に合わなかったから、短粒種の稲になったとしたら、何故に、大陸から移動してきた徐福の子孫が、日本で自棲
する短粒種を好むようになったのかが謎になるからだ。
では、縄文初期の原日本人が、短粒種とともに、朝鮮半島を北上して、中国・中元の地に到達して、更に南下し
て、湖南省、ビルマ、マレーシアに渡って行ったとしたら、一番すっきりするからである。 >>47
たとえそれが本当だとしても、日本は日本のもので、君たちのものではないよ >>159
それはデマだぞ。 百済人と高句麗人と新羅人は難民として
日本にいることが許されただけだ。
奈良はならされた土地。桓武が在日なわけない。 >>71
既に飽和気味な関東や九州を避けて空白地帯の関西に渡来人が進出、
定着後に軍事技術を含む文化的優位を生かして旧日本人を制圧していった感じかね >>163
弥生人と渡来人は区別した方がいい。
君が言っているのは弥生人。
渡来人とは4−7世紀に日本滞在をヤマト朝廷に許された難民。 >>166
百済王家は亡命者。
在日は亡命者ではない。 平安時代の人が、昔々の人はこんな風に暮らしてたんか、とか言ってたと妄想するとちょっとニヤけてくる
お前も充分昔やねんw >>169
当然だ。
百済王家は帰化人。
在日は外国籍を維持し、帰化を拒む人々。 >>166
支那の文献に、百済人と倭人とは通訳なしで会話できたとあるんだよ。
要するに百済人と日本人は同じ言語を話す同じ民族なの。
だから助けにも行ったし、負けて住めなくなったら日本に亡命してきたんだ。
もとは同じ民族 >>1
2400年前って弥生時代初期だと思ってたけど中期なんだな >>172
>>173
原住民からしたらどちらも外来種ですね >>173
明仁がそったら事知らない訳がない
それでも今の南チョンにゆかりを感じるのだから
そこが性感帯なのだろう。 >>58
こいつすごいw
たったの2行で自身の壊滅的な知識のなさを暴露している
> 渡来人が縄文人とだんだん同化したように
> 朝鮮半島にも原人みたいなのが流入してるから
前提が縄文人と他の人種の混血となっている以上、
現生人類の成り立ちの話のはずなのに、
なんと「原人」を持ち出している
誰でも知っているように原人は「絶滅しているため」
現在の人類とは関係がない 「エ、エイリアンが壁をすり抜けてきたぁ〜!」
「うぉぉぉぉ! エレクトリック・サンダー!」 >>6
ネタとしてつまらないことにそろそろ気付こう >>152
東北北海道は明治大正昭和まで竪穴式住居だぜ
日本全国にある復元された竪穴式住居は、当時まで現存してた東北のを模倣して作ってある >>178
天皇家から見たら、朝鮮は日本の領土。
現在の朝鮮人を全員追放して、昔日本に来た帰化人を再入植させるのが筋だ。 南中国人を追放して、弥生人を再入植させることも正義だな。 http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-47.html
高床式の建物は倉庫ではなく住居。
竪穴式の家は縄文人とか被支配層の住居。
というのがこの人の考えだけどな。
夏は高床式の家で寝て、寒い冬は暖かい竪穴式で暮らしたんじゃ
ないかという人もいるな。
ビルマだのラオスなら高床式で暮らせるだろうが
日本の冬は高床式では暮らせない。
炉に火を焚いてその傍らで寝るのでなければとても無理
>>182
何言ってんだか分からんが、萱で作った半地下式の小屋は
戦前まで当たり前にあった。
復元された竪穴式住居は、たたら製鉄の人たちが使っていた小屋を
モデルに作られたと聞いたことがある。
だが萱とか芦とかを素材にするのは人手がかかりすぎて縄文人や
弥生人には無理という説に説得力がある。
この京都の住居跡から一緒に出てきたのは「石包丁」だぜ。
こんなもので萱を刈ったり切ったりなんか無理。
ちょっとぐらいならゴシゴシやって切れるだろうが集落を作るほど
刈るなんてとても無理。
そういうのは鉄器で鋭利な鎌ができてからの話だ。 日帝とは弥生人と渡来人が祖国に帰る運動だったってことだ。 >>180
朝鮮は本流がクソくい悪魔の洞窟原人だもんな >>189
萱とかススキのことだろ
刃物なんて必要ない
手で引っ張るだけで抜ける >>114
>いまのような隠しカメラもないだろうから
「だろから」って… >>131
東京、大阪、名古屋の現代の大都市の大部分は古代海だったよ?
教養梨は黙ってて 日本人 の祖先は
南アメリカ大陸からのアステカ人末裔とか
言ってたやつがいた 平安京ができる千年以上前か。平安京とて、何もない平原に忽然として
作られたってよりは、元々古くからある程度人口のある街を再開発した
って感じだったのかな。 >>138
勾玉は古来より呪術的な力の宿るものとして扱われてきた
その形は胎児を表す、陰陽(太極図)を表すとされる
剣=相手他社 鏡=自分 勾玉=霊力 森羅万象
に対するものではないかなと自分は考える
剣=男性器 鏡=女性器 勾玉=子供
を象徴するとの説もあるね
ちなみに「かがみ」から「が(我)」を取り除くと「かみ(神)」になるとも言われる
(スピ話) >>201
勾玉は獲った獲物の牙を象徴したもんだろ。 >>196
逆じゃね?
縄文期に南九州の海底火山が噴火したときに東北まで追いやられた人間が海流に乗って
南米に行ったという説がある。 再掲するが写真の中のアカ族の住居
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-47.html
この写真二段目の左端の家
高床式だけど下に炉を炊ける空間があるね。
実は夏でも炉に火をくべないと暮らせないのだ。
それは蚊などの虫やりのため。
昔は網戸なんてものがないし、蚊帳だって全員にはなかった。
蚊帳も農村に行き渡ったのは江戸時代も末。
それでも貧乏人は買えなかった。
夕方になると杉の葉などを燃やして家の中を煙りだらけにしておいて
雨戸をバタバタ閉める。さらに囲炉裏に煙を絶やさないようにする
というのが唯一の対策だった。
アカ族の家は高床式と竪穴式のいいところを足して二で割ったような
構造であり合理的である。
日本の高床式住居も実用性といいう面から想像し直した方がいいかも
知れない。 >>119
この時点で温暖化って何だよってはなしだよな
古代は今より海抜9mも上にあって温暖だったって証明やん
それを二酸化炭素が温暖化の原因だと言ってCO2削減してそれを取引までしてたw
じゃあ古代は現在より二酸化炭素排出してたんですね?って質問したら黙りこくるw
ただ今が氷河期でそれが暖かくなってるだけやんけ >>201
男性性=外向性(他者へ) 女性性=内向性(自分へ) 子供=未分化(性意識、自分と世界の)
でもあるから
この二つは共通するものがある 日本では庶民は室町時代まで竪穴式住居だったんだよな >>185
東京近郊では、横穴式が普通だな。武蔵小杉などでいまでも作られ続けている。 いやぁ、よく残ってたな。 驚いた。
弥生時代から何度も洪水とかがあって、都を造営する際には
既に地中深くに埋まってしまっていたのかな?
それにしても素晴らしい発見だ。 紀元前400〜同300年ごろから
京都の中心部に人が住んでいたんだな
全く知らなかった、ただの草原か林だと思っていた >>210
京都盆地は鴨川と桂川が作り出した沖積平野かつ氾濫原で、その時々の河川の流れや洪水によって自然堤防や堆積台地などの
微高地の間には後背低地ができる
平安京を造営する際に自然傾斜に従って平にしたわけだが、埋められた後背低地にあった集落の遺構だけ残っていたのかもな
ただ、これが早期or前期初頭頃ならなお良かったのだが 周りは森や林で、そこからドングリや栗を取り、川の近くに住んいたんだと思われ(・ω・`) 平安京の中から弥生時代の集落が見つかる?
弥生時代の集落の遺跡に平安京が上書きされた状態?
??? >>208
南米に着くまでに皆死んでいるわ(笑笑笑) あー朝鮮のご先祖様のやつだ
ネトウヨの起源は朝鮮
ネトウヨは北に枕向けて寝られません
2時間に1度は半島に意識集中させて呪文を唱えなければ死んでしまうらしい
ストレスで >>215
そりゃそうだろ
俺らが奈良平安の遺構発掘するのと同じ時間の間隔あるし
現在 → (1200年前) → 平安京造営 → (1200年前) → 弥生B.C.400頃 >>213
江戸時代になるまでは田んぼは棚田がデフォだった。
平地に平らな田んぼを作るには土地を平滑にし、給水と
排水の設備を作らなければならないが、まだそうするだけの
力がなかった。
山の斜面などで湧き水を利用し、数坪の小さな田を連ねて
下に水を落としていくというようなやり方しか無かったんだ。
だから弥生時代に川沿いの後背低地に田を作るというような
ことはあり得ないと思う。
湿地に田を作るには、まず悪水を排水する設備を作らないと
ならないし。
この古墳の弥生人たちは、水路を挟んで集落を作っているらしいから、
どこかの湧水を引いてきて傾斜して低くなっていく谷状のところに
流し、棚田を作っていたんだろうと思う。 平安時代に弥生時代と同じ生活をしてた集落があったのだう、今ではBと呼ばれる集落? >>194
<丶`Д´> ポカーン
そりゃ東京も大阪も今とは地形随分違うけどねwww
古代は水没していたとはにんともかんともw
あの、東京23区でも大阪でもいいけど歴史博物館あるから
そこいってローカルな通史展示、見てきてもらえるからな
完全水没区なんて23区にはないし(どの区立博物館からも縄文弥生の管内出土遺物はある)
大阪にいたっては府立歴史博物館から何が見えますか?
そう、難波京の跡地だろうがよwww 難波京は海の中なのかよw 竜宮城か?www
「海の中にも都はございます」ってチミは安徳天皇かwww
気が付くのが遅れたからもうチミはいないだろうが、自称愛国者なんだろ?
勉強しろ勉強www そして親韓左派の両班たるウリの教養の高さに涙しる m9<`∀´>ノwww 実際当時海じゃなくて平野と言えば奈良と京都くらいのもんだったんだな >>224自己レス、訂正
× 府立歴史博物館
○ 市立歴史博物館
<丶`Д´> ゴミンネ 昔は時代の変化が遅いから、古いものと共存してても不思議ではない。現代でもカセットテープ使っている奴もいるだろ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています