【京都】平安京の中から弥生時代の集落が見つかる 都造営でも破壊免れる 紀元前400〜同300年ごろの竪穴住居跡や流路跡
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平安京の中から弥生時代の集落
都造営でも破壊免れる
2018/7/27 00:52
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烏丸綾小路遺跡で見つかった弥生時代中期初頭の竪穴住居跡=26日午後、京都市下京区
https://nordot-res.cloudinary.com/t_size_l/ch/images/395242545766204513/origin_1.jpg
京都市下京区の烏丸綾小路遺跡で、弥生時代中期初頭(紀元前400〜同300年ごろ)の竪穴住居跡や流路跡が見つかり、市埋蔵文化財研究所が26日発表した。
平安京造営の際、市中心部は大規模な土木工事が行われており、弥生時代の遺構が明確に分かる状態で見つかるのは珍しい。
担当者は「弥生時代前期に入ってきた稲作文化が京都ではどのように定着していったかを知る手掛かりになる」としている。
研究所によると、調査した区域の西側と南側で竪穴住居9棟が見つかったほか、北東から南西に水が通った流路があり、稲作をしていたとみられる。
住居や流路からは千点を超える土器や石器が出土した。 丸竹恵比寿二押御池姉三六角蛸錦四綾仏高松万五条
⬆
ここ
何メートルも下に埋まってるってどういうこと?
土砂災害でもあったのか? それは竪穴式住居の跡じゃなくて検非使が掘った穴だ。
掘り出したらウサミミの丸い謎の封印が解けてしまうべ。 >奈良って何で大陸人が居着いたんかね?
昔はあの辺りまで海だったから 闇に葬られた遺跡なんて無数にあっただろうに
たまたま人目に触れたやつからの辻褄合わせじゃ
歴史なんて所詮ファンタジーだわな ずれた
丸竹恵比寿二押御池姉三六角蛸錦四綾仏高松万五条
↑
ここ >>106
大阪の古地図見て驚いたわw
河内って地名そのまま現在の大阪府の大部分が遠浅の海だもんな
難波の宮があった辺りが陸の孤島みたいな半島の先みたいになってた
能登半島の先端が浪波の宮でその周りは全部海みたいな感じでw >>111
上町台地だね。
ここに孝徳天皇が難波長柄豊崎宮、聖武天皇が難波宮をみやこにした。
仁徳天皇の難波高津宮はどこにあったかまだはっきり特定されてないが
難波の堀江は仁徳天皇が開削するように指示したそうだ。
律令制前は畿内の摂津、河内、和泉は全て河内で
応神天皇、仁徳天皇とその一族の時代は河内王朝時代と言われてて、
この頃に多くの渡来人が畿内に来てたみたいだな。 >>97
其の狭さでは意外に核家族だった気がする。
子供への手前、夜の営みはなく野外での昼の営みだったのだろう
大自然の中の まぐあい だからむしろ健全でいまのような隠しカメラもないだろうから
変態爺の出没する余地もなく ユートピアだったんだろうな >>111
愛知も一宮と熱田が岬になってて周囲海岸線だったり東京も内陸まで海だったり陸地全然あらへんかった 奈良県の北半分は湖だった。古代奈良湖と呼ばれる。
今の淀川河口あたりは汽水域で、浜名湖みたいな状態。
飛鳥時代、ここから宇治あたりまでは大きな船でも楽に入れた。
奈良の方面に進めば石上神宮あたりまでは進入可。
小舟に乗り移れば櫻井のあたりまで船で行けた。
斑鳩の宮も当時はすぐ近くまで湖が来ていた。
斑鳩の宮は外国人との貿易のための施設があり、外国人がたくさんいた
との説もある。
聖徳太子は飛鳥まで船で通っていた可能性がある。
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7
京都南部には巨大な小椋池があった。
琵琶湖にも繋がり、奈良湖にも繋がっていた。
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/history1.html
古代から平安時代ぐらいまで、難波や京や奈良は水運で容易に行き来できた。
平安貴族は宇治に別業(別荘)を構えたが、そこに行くには鴨川を船で下ればよく、
宇治平等院などは船でそのまま庭の池まで乗り付けていたらしい。
舒明天皇国見の歌
大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば
国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は
国原は香具山の南側で飛鳥の都がある方向。煙が盛んに立っているとは
家々の竈から無数に煙が立ち上っている様で、都が賑わっている様子。
さらに舒明天皇の頃は蘇我馬子が飛鳥寺を建造していた。
煙は集められた役夫たちの炊飯の煙だったかも知れない。
海原は北側の奈良湖方面。
一面海のような状態ででカモメが飛んでいた。 京都市下京区の烏丸綾小路付近は標高29mもあるから弥生時代の集落跡があっても
不思議では無い。吉野ヶ里遺跡は標高9mだが縄文と弥生の遺跡がある。
縄文海進は海抜9mくらいまでと考えて良い http://maps.gsi.go.jp/#17/35.004370/135.762026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
標高の分かる地図
(画面左下に出る)
ビル一つ一つまで表示可能なので四条烏丸あたりを調べると
38メートルだな。
遺跡が何メートル下の土中から出たか分からないけど。
京とは北と南では北が高く、東と西では東が高い。
一枚の板とすると東北を一番高く、南西を一番低く、斜めに傾けた
ような状態。
1では
>北東から南西に水が通った流路があり、稲作をしていたとみられる。
京都の傾きどおりだ。 京都は掘れば何か出てくるね
でも俺が所有してる田んぼを掘った時に古墳が出てきたのはビックリしたわ
出土品は何も無かったけど 上の標高の分かる地図は面白いね
四条烏丸駅から右上、北東方面にポイントを移すと1メートルとか2メートルとか
高くなっていき41メートルぐらいになる。
南西方面に動かすと池坊短大あたりは1メートルほど低く、糸屋町あたりは
2メートルほど低い。
平安時代あたりまで烏丸川という流れがあり、烏丸通りはその川に沿った細道の
ようなものだったという。
烏丸川は池坊短大の西側あたりを流れていたのではないか。
市街は工事で平らにされていると思うので、高低差はもっとあったろう。
この遺跡の住人たちは南西の高くなっている方角から水を引き、集落の下の
段丘に田を作ったと思われる。
日本人は田んぼの中には家を作らなかった。田の西や北に住むことが多かった。
そこから考えて池坊短大あたりが田んぼだったかも。 ×この遺跡の住人たちは南西の高くなっている方角から水を引き、集落の下の
○この遺跡の住人たちは「北東」の高くなっている方角から水を引き、集落の下の
北東です。 コンコン烏丸のところかな
あんなところに空地あったっけ >>111
だから、貿易港とか水際迎撃のために栄えてもらう必要はあるが政府機能置けないってのが、歴代の共通認識 醒ケ井通松原下る篠屋町59だ。
四条烏丸がどうしたとかの途中の書き込みに引っ張られた。 まあ都市が都市たりえるのは理由のないことじゃないんだよ
現代でもスクラップ&ビルドの再開発再開発ってやってるじゃん
では田舎を開発するかといえばそれはやらないわけだwww
これは別に現代人だけの話じゃなくて古代の人間もやったわけだ
住みよい環境には理由があるものだからね。
だから大都市を発掘すると往々にして過去の遺跡ってのはあるもんなんだよな
もっともネトウヨが住むような文明から隔絶された深山幽谷の人外魔境になると
地球誕生以来、人類が住むのはこれがはじめてなのかも、これはわからんがねwww ところでウリは変態なのでw
まったく縁もゆかりもない街の地場の歴史博物館みたいなところに行くのが
ひとつの趣味なのだが、どこの街でも最初は縄文だよね。
まあ最近は最後に縄文というプレイバック式展示も増えているけどw
縄文人、まあ1万年活動しているからね、
現在の区画でいえばどの市町村にも痕跡あるのかな
まあそんな気はするよね。しかしまあ1万年なあ。 日本に最初にやって来た弥生人は朝鮮半島からだが、九州から関東まで住み着いた
それからずっと後になり大陸の江南地方から江南人(倭人)が北部九州に住み着いた訳だ ところでこういうのってそもそもどうやって見つけるんだ?
普通に土木工事で破壊して気づかないレベルだろ 過去の事なんかどうでも良いよ
今、明日も生きて行くので精一杯だから 年代が本当にきちんと測定支店のカネ。炭素同位体測定?
テンノーの歴史を捏造するべく、段々、昔へと伸びているのがおかしい。
どの道、中国兵馬俑を越えない限り全く意味がないんだけどwwwどんぐりの背比べにしかならないんだけどwww。 全然関係ないけど、天皇家の象徴の三種の神器ってあるじゃん
剣は武力の象徴だしなんかカッコいい
鏡はピカピカで綺麗でカッコいい
でも勾玉ってなんなのあれ?
意味わかんないんだけど >>29
そりゃローマが現代文明−(電気+内燃機関)くらいの生活水準してたときでも
ガリアやブリテンはウホウホ原始人住宅やん 疑問なんだけど、弥生時代に人が集落で暮らす村が出来たのにその後平安時代、鎌倉時代?に惣村が出来るまでまたバラバラに暮らすようになったの? おまえらがいつも沖縄を目の敵にするのは、単に縄文人対弥生人の現代版みたいなもんだろうな >>134
現代の土木工事している最中に何か遺物なんかが出てきて
その周辺を掘って行く時に
元からあった硬い所と掘って埋めた柔らかい所ができてるから
柔らかい所を丁寧に掘っていくと見つかる。
見つけた場合、届け出しないといけないんだけど、
調査終わるまで工事できなくなるからそのまま壊す業者もいる >>138
ファイナルファンタジーやればわかる
武器:草薙の剣
防具:鏡の盾
アクセサリー:勾玉 >>134
一応、掘る前に調査すんのよ
京都なんて掘ればなんか出るから
そりゃもう慎重にやる
工期が遅れるから出ないでくれ出ないでくれって思いながらな >>142
田んぼ作る土地がなくなったらどんどん広がっていくじゃろ 烏丸綾小路遺跡は明治初めに創立の旧醒泉小学校跡地の校庭なのでほぼ150年近代建築の工事で破壊されずに済んでたんだな
京都御所にもそこそこ近いからその前は公家屋敷か大名の京屋敷だっただろうし、それもあって平安以後それほど土壌が乱されずに遺跡が温存されてたんだろう >>129
じゃあせっかくだから木造藁葺の小学校を建てよう
体育館は高床式で >>122のご先祖様が全部盗掘して売りさばいたんだな ググってみた
醒泉小学校は、明治2年に下京第十三番組小学校として小泉町に開校し、
明治6年に篠屋町の旧丹波園部藩邸跡地に移転、明治26年に醒泉小学校と命名された。
現在も変わらずに醒泉校は ... 醒泉(せいせん)」の名は、
佐女牛井(醒ヶ井・さめがい)という名水に由来する。
佐女牛井は、源氏堀川館の中にあった井水と伝えられ、茶の湯にゆかりの深い
名水として知られたが、戦時中の堀川通と五条通に沿った民家の強制疎開の
ときに堀川通が拡幅され名水佐女牛井も消滅した。
昭和44年、醒泉小学校百周年記念で井戸跡に石碑が建立されている。
(京都市編『史料 京都の歴史12』「下京区」[平凡社・1981]など参照)
丹波園部藩邸があった場所なんだな。
もともとあった佐女牛井は、堀川館ができてその中に取り込まれた。
源氏堀川館は源頼義や義家など源氏の頭領が住み、平治の乱で消失。
平家は六波羅で、源氏はこのあたりだったんだな。
六波羅から考えて源氏の武者たちの館がたくさん建っていたわけだ。
義経が再建し、土佐坊昌俊が襲撃したのもここ。
義経が都を去ると屋敷は取り壊される。
佐女牛井はその後、名水として茶人などに珍重された。
戦時中堀川通りが拡張され、その時に撤去。
付近には泉と名の付く地名も多いし、よく水のわき出る土地だったんだろうな。
弥生人たちはその水を使って農耕を営んでいた。
この人たちはどこから来たのかねー
千原兄弟みたいな顔してたのかな 日本人は紀元前から稲作やって米食ってたのか
なんかすげえな 弥生人は朝鮮人じゃない。江南人だ。
何度言ったら理解するのか? >133
今年、2018年七月六日に横浜市パシフィコ横浜で開催された国際分子生物進化学会では、金沢大学の覺張
隆史特任助教が発表し、2500年前の愛知県の井川津貝塚の女性人骨の全ゲノム配列を解読したという。
遺伝子分析の結果、東南アジア系の六大先史文明人グループのうち、遺伝グループ1に一致した。
遺伝子グループ1は、
「現在のラオスに約 8 千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約 2 千 500 年前の一人の女性
のゲノムがよく似ていることが分かりました。 」
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf
これは、明らかに、日本列島の縄文時代の人類が、ビルマ、マレーシアから、数千年を掛けて、やって来て、日本に
居住して、生き延びたことを示している。勿論逆方向という可能性もある。
15年前の熊本大学の研究では、「日本の縄文時代の稲の遺伝子が中国湖南省の短粒種と一致している。」
としている。実は、ここにヒントがあるのである。日本の縄文時代に発掘された稲の遺伝子が、数種類あるが、
どれも、湖南省の短粒種を除いて大陸の稲の遺伝子とは一致しておらず、不思議がられていた。大陸から伝播
されてきたのであれば、大陸由来のもっとも多い長粒種である確率が高いからだ。日本人である縄文人の好み
に合わなかったから、短粒種の稲になったとしたら、何故に、大陸から移動してきた徐福の子孫が、日本で自棲
する短粒種を好むようになったのかが謎になるからだ。
では、縄文初期の原日本人が、短粒種とともに、朝鮮半島を北上して、中国・中元の地に到達して、更に南下し
て、湖南省、ビルマ、マレーシアに渡って行ったとしたら、一番すっきりするからである。 >>47
たとえそれが本当だとしても、日本は日本のもので、君たちのものではないよ >>159
それはデマだぞ。 百済人と高句麗人と新羅人は難民として
日本にいることが許されただけだ。
奈良はならされた土地。桓武が在日なわけない。 >>71
既に飽和気味な関東や九州を避けて空白地帯の関西に渡来人が進出、
定着後に軍事技術を含む文化的優位を生かして旧日本人を制圧していった感じかね >>163
弥生人と渡来人は区別した方がいい。
君が言っているのは弥生人。
渡来人とは4−7世紀に日本滞在をヤマト朝廷に許された難民。 >>166
百済王家は亡命者。
在日は亡命者ではない。 平安時代の人が、昔々の人はこんな風に暮らしてたんか、とか言ってたと妄想するとちょっとニヤけてくる
お前も充分昔やねんw >>169
当然だ。
百済王家は帰化人。
在日は外国籍を維持し、帰化を拒む人々。 >>166
支那の文献に、百済人と倭人とは通訳なしで会話できたとあるんだよ。
要するに百済人と日本人は同じ言語を話す同じ民族なの。
だから助けにも行ったし、負けて住めなくなったら日本に亡命してきたんだ。
もとは同じ民族 >>1
2400年前って弥生時代初期だと思ってたけど中期なんだな >>172
>>173
原住民からしたらどちらも外来種ですね >>173
明仁がそったら事知らない訳がない
それでも今の南チョンにゆかりを感じるのだから
そこが性感帯なのだろう。 >>58
こいつすごいw
たったの2行で自身の壊滅的な知識のなさを暴露している
> 渡来人が縄文人とだんだん同化したように
> 朝鮮半島にも原人みたいなのが流入してるから
前提が縄文人と他の人種の混血となっている以上、
現生人類の成り立ちの話のはずなのに、
なんと「原人」を持ち出している
誰でも知っているように原人は「絶滅しているため」
現在の人類とは関係がない 「エ、エイリアンが壁をすり抜けてきたぁ〜!」
「うぉぉぉぉ! エレクトリック・サンダー!」 >>6
ネタとしてつまらないことにそろそろ気付こう >>152
東北北海道は明治大正昭和まで竪穴式住居だぜ
日本全国にある復元された竪穴式住居は、当時まで現存してた東北のを模倣して作ってある >>178
天皇家から見たら、朝鮮は日本の領土。
現在の朝鮮人を全員追放して、昔日本に来た帰化人を再入植させるのが筋だ。 南中国人を追放して、弥生人を再入植させることも正義だな。 http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-47.html
高床式の建物は倉庫ではなく住居。
竪穴式の家は縄文人とか被支配層の住居。
というのがこの人の考えだけどな。
夏は高床式の家で寝て、寒い冬は暖かい竪穴式で暮らしたんじゃ
ないかという人もいるな。
ビルマだのラオスなら高床式で暮らせるだろうが
日本の冬は高床式では暮らせない。
炉に火を焚いてその傍らで寝るのでなければとても無理
>>182
何言ってんだか分からんが、萱で作った半地下式の小屋は
戦前まで当たり前にあった。
復元された竪穴式住居は、たたら製鉄の人たちが使っていた小屋を
モデルに作られたと聞いたことがある。
だが萱とか芦とかを素材にするのは人手がかかりすぎて縄文人や
弥生人には無理という説に説得力がある。
この京都の住居跡から一緒に出てきたのは「石包丁」だぜ。
こんなもので萱を刈ったり切ったりなんか無理。
ちょっとぐらいならゴシゴシやって切れるだろうが集落を作るほど
刈るなんてとても無理。
そういうのは鉄器で鋭利な鎌ができてからの話だ。 日帝とは弥生人と渡来人が祖国に帰る運動だったってことだ。 >>180
朝鮮は本流がクソくい悪魔の洞窟原人だもんな >>189
萱とかススキのことだろ
刃物なんて必要ない
手で引っ張るだけで抜ける >>114
>いまのような隠しカメラもないだろうから
「だろから」って… >>131
東京、大阪、名古屋の現代の大都市の大部分は古代海だったよ?
教養梨は黙ってて 日本人 の祖先は
南アメリカ大陸からのアステカ人末裔とか
言ってたやつがいた 平安京ができる千年以上前か。平安京とて、何もない平原に忽然として
作られたってよりは、元々古くからある程度人口のある街を再開発した
って感じだったのかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています