【福島】「会津武士」時代の逆風に対処 子孫宅から手紙…藩復活時、台所事情示す
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
斗南藩成立前後の藩士の動向や経済事情に触れた梶原平馬の手紙の1枚
http://www.minyu-net.com/news/assets_c/2018/08/180810news1-thumb-300xauto-27741.jpg
150年前の会津藩消滅時に家老などを務め、藩再興に奔走した梶原平馬(かじわらへいま)と山川浩(やまかわひろし)、さらに会津藩士の子で後の陸軍大将、柴五郎(しばごろう)の3人がそれぞれ明治以降、会津在住の元藩士、町野主水(まちのもんど)に出した手紙計3通が、東京都の町野の曽孫宅で見つかった。
文面を読み解いた直木賞作家の中村彰彦さん(69)によると、旧会津藩が斗南藩として復活する1870(明治3)年ごろの藩士たちの動向や経済事情に触れた梶原の手紙をはじめ、いずれも明治、大正の「会津武士」の生活ぶりや人柄が分かる貴重な史料という。
手紙の日付は、梶原が4月1日。年は書かれていないが、中村さんによると内容から1870年と判別できる。山川は89(明治22)年9月5日。柴が1919(大正8)年9月14日。毛筆で書かれている。
会津藩最後の筆頭家老で戊辰戦争直後は東京で謹慎した梶原の手紙は薄紙2枚。1枚目冒頭の「高田脱走惣調(そうしらべ)/東京脱走惣調/無宿者惣調」の3行に続き、戊辰戦争後に旧藩士が収容された越後高田(現新潟県上越市)、東京両謹慎所からの脱走者の調査が終わり、脱走先から戻った者、戻る見込みの者の家にも1日に付き1人当たり4合の玄米を給付し、台所事情が厳しい家には申し出れば対応する―などと記されている。
中村さんは「平馬は脱走に頭を痛め、また70年4月の斗南藩成立で政府による給付が藩の手に移り、扶持(ふち)高は半分以下にせざるを得なかった。そして会津残留者たちにも同じ扱いをする必要を考え、扶持高改定を町野にも伝えた。東京と会津、越後高田で連絡し合い時代の逆風に対処していた状況が分かる」としている。
福島民友 2018年08月10日 08時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20180810-296691.php >>56 大戦は左翼・幕府が起こした
ルーズベルト 米国大統領
→米国民主党
スターリン ソ連
→ヒトラーよりも大量虐殺
近衛元首相(細川元首相の祖父)
→徳川将軍の正室を出した家柄
のブレーン 朝日新聞の記者の左翼
→日中戦争を推奨(当時の中国は台湾政府)
東条元首相
→父が盛岡(旧幕軍)
甘粕大佐
関東大震災で個人で朝鮮人を虐殺
→親が仙台(旧幕軍)
朝鮮人暴動がデマだと言いNHKを作った
後藤新平も仙台
山本五十六海軍大将
→長岡(旧幕軍) 藩復活か。
熊本の細川なんか、これからの日本は門閥にとらわれず有能な人材を県知事に登用しようと
廃藩置県の建白書を出して、むしろ逆に自らの地位と藩主の身分を廃止するよう求めてたくらいなのに。
やはり会津武士は時代の潮流を読めないドンキホーテ。 白虎隊の生き残りが後年、大阪府知事となり御堂筋を立案するなど大大阪の礎を築いた。
タコ焼きの元祖は、会津出身者の店・西成にある会津屋のラジオ焼き。
かのように会津人も有能な人材はそれぞれの場所で時代の花を咲かせた。
頑迷な上に翻弄されたのが最大の悲哀だろう。 >>40
水戸黄門の兄の家系(高松藩)だっけか
幕末で最も悲惨だったのは薩長でも会津でもなく、水戸藩だと思う >>59
白虎隊→城が燃えてると勘違いして20人が自殺
白虎隊の隊員数は250人でほぼ戦死なし
新撰組は戦闘よりも内部粛清で死亡者多数
大東亜戦争の時に白虎隊の話で戦意高揚しようと
白虎隊ブームを起こした
ムッソリーニに白虎隊の像を提供させた日本の大阪出身の
元首相が戦後に日本国憲法は日本人が作ったと言い張ってるけどね
左翼「日本は戦闘機に竹槍w」
↓
薩長:最新の銃vs幕府・会津:槍刀 >>62
家老格の武田耕雲斎が天狗党の乱起こしてからグダグダ
藩内で勤皇と佐幕で内戦状態 >>13
>>15
>>57
なんだよ一体なにされた? >>51
会庄同盟は幕末当時から国賊だったんですが?
維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html
868年7月31日、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントは「会津、庄内両藩から
北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を出した。
両藩は当時、北方警備のため、幕府から根室や留萌などに領地を得ていた。
手紙には「交渉は長引かせることができる。どの当事者も困窮した状況で、優位な条件を引き出せる」と記されていた。 福島県も会津以外は郡山みたいに大久保利通に恩を受けたところもあるのにな
西田敏行は子供の頃特に家庭で話をすることがなかったが
NHKのファミリーヒストリーで父親が薩摩武士の出で
加山雄三の祖先の近所だと知って驚いていた 会津藩は戦費調達のためプロイセンに北海道売却を持ちかけた
日本史上唯一の売国奴 会津は大変だったんだな
こっちでは「え、ウチの藩も戊辰戦争に参加してたの?」ってくらい忘れ去られてるのに
by 庄内 >>67
日本全土をイギリスの傀儡国家として売り渡すよりも
蝦夷地切り売りの方がマシだったと思うが。
蝦夷地切り売りなら安倍政権もやったし。 >>71
薩長がイギリスの傀儡にした証拠が無い
むしろ会津の方がな
柴五郎
生誕 1860年6月21日 会津藩領陸奥国
日英同盟締結の強力な推進者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BA%94%E9%83%8E
そして幕府はフランスから金を借りようとする
左翼のフランス帝国にありがちな
占領方法に引っかかりそうになるし
長州の高杉は戦争で負けた時に
香港みたいになるのが嫌だから
彦島を貸さなかったし 青森からの年賀状1つ断ったら原発爆発と津波に地震
会津と長州の因縁とかそれ以上のものだろうな 鬱陵島も本来は徳川幕府が
わけのわからん立ち入り禁止令を
出さなければ鬱陵島は朝鮮領土とはならなかった
長州の桂=木戸は鬱陵島は日本領と言っている
徳川は朝鮮通信使を受け入れたぐらいだから
鎖国と言っても当時はロシア・中国・朝鮮・オランダ
とは交流があり、これらの国が現在反日なのは
明治政府が特権を奪ったと思ったのかな 昔の人はこんな癖の強い字で書かれた手紙ちゃんと読めてたんだろうか?
楷書でみんなに読めるように書こうと思わなかったんだろうか? >>61
大大阪の礎を築いたのは薩摩の五代友厚と長州の藤田伝三郎
大阪の戦後復興を主導したのは長州の杉道助 >>71
イギリスに売り渡した?じゃあ、台湾出兵の時に、アメリカ、フランスを味方につけてイギリス、清と外交バトル繰り広げたのは何故だ?
後、江戸城総攻撃の時に勝がパークスに圧力をかけたため、中止されたのは何故だ?
内戦が長引けば武力介入のチャンスがあって、日本をインド化す事が出来た筈だ。
ロッシュの方は慶喜に抗戦を勧めて、兵器売却や武力介入のチャンスを狙っていたのに、慶喜が断り、フランスの外交政策の変化も手伝って
武力介入の危機を回避出来た。会津と庄内だけが、列強から武力介入を受ける事も辞さない
無意味な戦争を行ったんだよ。
後、維新後、陸軍や国家体制をドイツに学び、海軍をイギリスに学び、法律をフランスに学んだが、イギリスはこの当時、東アジアにおいて
自由貿易帝国主義政策を取っていたから、日本に中立的な立場をとっていたというのが真相。
領土欲は微塵もなかったの。むしろ、日本に朝鮮半島を与えてロシアの南下を食い止め様としていた。
台湾出兵の際の外交交渉ではっきり、「清には手を出さないでくれ。朝鮮半島ならいい」と言ってるんだが。
共産主義者ってバカしか騙せない陰謀論よくネットに書いてるけどなんなんだ?
日本人じゃないだろ? 共産党や創価学会が現代社会を帝国主義時代化させようと
必死に西側先進国で分断工作やってる様に、この当時の外交は徹底したリアリズムで
善悪なんて微塵もなかったんだよ。
アジアで最初に民族自立を成し遂げた維新政府をなんで罵倒するのかなあ。 おのれ長州。百年の恥辱の後に土地まで滅ぼしおった。
この恩讐が晴れることは永劫にない。 >>67
それ会津若松城開城後に「会津藩の承諾を得た」と称してるウソ手紙な。
ほかにも「新政府が琉球奄美長崎を売った」とかウソ情報が書いてある
紹介した箱石大はとっくに論争から離れている。 >>74
証拠がないって、お前が紹介したフォンブラントの同じ手紙に書いてあるぞ。
新政府は琉球奄美をイギリスに売りましたから我々も急ぎましょうと。 >>82
木川田一隆
木村守江
佐藤善一郎
全部福島県出身 >>42
よ、陰謀論者wwwwwwwwwwww
パヨクだろおまえwww >>82
さっさと降参しない容保が悪い
家老の首を三つほど差し出して自身も蟄居謹慎くらいしとけばよかったのに
もちろん武装は解除するのが前提だ
それでも戦うなら庄内藩くらい勝て >>7
という想像をしてみたのか
でもそういう歴史に関する想像って面白いよね 会津・庄内藩は、プロイセンに北海道を渡して武力介入させ、天皇を傀儡にして操るつもりだった。
その書簡がドイツ国立軍事文書館で発見された。
http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/28769788.html
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html
プロイセン海軍大臣は、日本の混乱に乗じて、領土確保すべきと進言したが、
宰相ビスマルクは国際協調を重視し、武力介入を断っている。
会津・庄内藩は、北海道を売って外国軍に武力介入させ、天皇のクビを挿げ替えて、国を奪おうとしていた。 >>42
田布施システムは嘘がバレて失敗した反日デマだよ >>89
枝野と菅直人の東北滞在合計より既に多いわけだが 会津・庄内藩は、輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で天皇扱いしており、
「東武皇帝の閣僚名簿」という文書が残っている。
当時のアメリカ公使は本国に対して、
「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。 現在、北方政権のほうが優勢である」 と報告し、
米国の新聞にも同様の記事が掲載された。
会津・庄内藩は、北海道を差し出して外国軍に武力介入させ、
天皇のクビを挿げ替えて、国を奪おうとしていた。 >>84
共産主義者は沖縄が好きだねえ。
琉球藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/琉球藩
琉球藩の設置に先立って日本では全国的に1869年(明治2年)の版籍奉還により諸大名から天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)の返還、さらに1871年(明治4年)の廃藩置県と、
中央集権化が進んでいた。この時点ではまだ、琉球王国は薩摩藩および後身の鹿児島県の付庸国であり続けた。明治政府の意向としてこの琉球版図についても版籍を奉還さしめ、
皇民に列する意図があった。
廃藩置県の翌年の1872年(明治5年)、琉球国王尚泰は明治政府の命により尚健(伊江朝直)と宜野湾親方朝保を慶賀使として東京に送る。明治天皇により尚泰を「琉球藩王」に
封じ大日本帝国華族に列する詔勅を尚健が代理で受ける。天皇より尚泰に下賜金があり、また旧薩摩藩への負債も明治政府が肩代わりすることとなった。以上により琉球は旧薩摩藩から
明治政府直轄の支配下となり、琉球藩が設置された。
尚泰はその後も清への朝貢を続けたが、1879年(明治12年)、明治政府は尚泰を東京へ強制的に連行。これにより名実ともに廃位となり、琉球王国は滅亡した。明治政府は内務官僚・警察隊・
熊本鎮台分遣隊を派遣し、琉球藩を廃止して鹿児島県へ編入、同年中に沖縄県を設置した。 >>84
>新政府は琉球奄美をイギリスに売りましたから我々も急ぎましょうと。
違います。実際は、
「英国政府が琉球諸島の権益をにらんで水面下で準備しているとのフォン・ブラントの
続報を受け、翻ってその情報が確かめられた場合は件の提案についての交渉を、万全の注意を払い
つつもブラントに与える事になった」
しかし、その間に戊辰戦争が集結し、同件が立ち消えになった、が正解。(「戊辰戦争の新視点 上」)
フォン・ブラントの情報は確認されてないし、後の琉球の状況を考えるとイギリスに売り払われてもいない。
日本の琉球処分で清がやたら琉球権益を主張したが、この件の仲裁に入ったのはアメリカ。
そして、琉球問題は日清戦争によって完全に決着がつくが、この時のイギリスの外交方針は日本支持に変わっている。 >>71
松平容保がスネルを会津藩側の全権委任代表に任命し、
与えた訓示の内容は驚くべきものだ。
「蝦夷における我々の領地を、銃で武装した軍隊の用意、または借款と引き換えに
担保として与えるように、先に述べた我々の土地の請け渡しの期限は99ヵ年とする」
庄内も同様の委任状をスネルに渡している。
(「戊辰戦争の新視点 上」) >>12
素朴な疑問だけど
どういう立場から見ると笑えるんだろ?
先祖が新政府側? >>100
長州人の奥平謙輔に面倒みて貰っておきながら
恩知らず甚だしい畜生のことか <戊辰戦争の真実>
会津藩は苛酷な税金を課していたうえ、防衛の為と称して無慈悲に村々を焼き払った。
領民は新政府軍を 【官軍様】 と呼び全面協力し、会津藩士を 【会賊】 と呼びすてにした。
(会津落城 77頁)
江戸に送られる松平容保を、領民たちは一人も見送りに来なかった。
(英国公使館員の維新戦争見聞記)
会津藩士による略奪が多発した。
新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が、町民によって捕らえられて処刑された。
(新潟市史通紙編3)
「会津武士道」だのと美化されているが、実際は、クズ集団で庶民に恨まれていた。
悪政に苦しんだ会津領民は、新政府軍に全面協力したのが史実。
住民の恨みが凄まじい為、会津藩士の生き残りは、殆ど会津を出てる。
白虎隊の生き残りも会津には住めず、長州藩士に育てられて、その後帰郷したが、
住民の憎悪が収まっておらず、仙台で一生を終えている。 会津戦争はやっぱりまだ続いているんだなとこのスレをみて改めて認識した。 幕末の各藩の立ち位置を見てると、政治の中枢にいる藩よりも辺境の地の方が危機感を持って国難に対応してるな。
先月の西日本豪雨の時のマスコミ対応もそうだが、中央にいると情報が全て入ってきてるように思えても、それを取捨する能力が鈍っている。
酷いのになると、1年前のミサイル問題でJアラートを「うるさい」という奴まで出てくる始末。 >>103
これについてはいろんな立場の人からの証拠があるのがなんとも 庄内藩は戦をすれば連戦連勝、降伏しても領民が藩主様出ていかないで下さいと嘆願だぞ。
単に会津は弱くて、悪領主だったってだけの話。 >>108
庄内は徳川四天王に連なる酒井だから武勇と徳望あったのかなぁ
と思ったが、徳川四天王の井伊は関ケ原はともかく幕末はダメダメだ 会津プロパガンダの嘘に騙されてるバカがまだいるのか? 会津っ子宣言改め会津プロパガンダ宣言
人を貶めます
ありがとう、ごめんなさいは言いません
我慢しません
卑怯なふるまいをします
会津プロパガンダを推進し山口を貶めます
会津プロパガンダが史実になるよう頑張ります会津プロパガンダのためなら何でもやっていい
会津プロパガンダのためにやらねばならぬ
会津プロパガンダのためならならぬ事などない >>57
容保も慶喜も長州は許したが裏切り者の薩摩は許せんっていってたらしいのにな 会津って市をあげて薩長差別してるからすごいよな
もう21世紀だよ
もう平成も終わるんだよ
架空の小説を真実だと信じて同じ日本人を差別し続けるとか
ちょっと理解できないわ >>113
慰安婦と同じ
都合よい嘘を広めたから今更撤回も謝罪もできない 薩長と会津が未だに感情的に対立してるとか嘘くさいから
もう止めたらいい。創価や共産、在日、新左翼らもろもろの連中は
中国様や金将軍様のためにトランプみたいな事やってるのバレバレじゃけの。 御所に向けて砲撃した長州は朝敵になったのに
天皇が代替わりしたらドサクサにまぎれて官軍になった
日本人の感覚では理解できない 薩摩藩は新政府に対し西南戦争起こしてるんだから、会津云々なんて実際、鹿児島県民としてはどうでも良い事だろ。
長州だって萩の乱や奇兵隊脱退騒動を起こして鎮圧されている。
土佐は新政府に居場所がなく、征韓論で下野した軍人板垣退助を担いで、自由民権運動という権力闘争を起こしている。
明治維新の内乱は戊辰戦争じゃ終わっていないのに、山口、鹿児島県民を名乗る連中と福島県民を名乗る連中の茶番劇はなんなのだ。
アイヌ差別とほじくり返した似非アイヌ人みたいな連中かね。こういうのも、もう失敗したから終わらせたらええんじゃないかの。 東北人ってカラっとした爽やかさが無いよね。
気候のせいかね。 >>103
会津藩士の悲劇は創作だったのか。
まあそうだろうなとは思っていたけど。
鹿児島県や山口県の方が東北人より良い人多いもんな。 >>113
旧会津藩士なんて西南戦争では政府軍として薩賊討伐に参戦して戊辰の恨み晴らしたハズだから、
薩摩に関しては恨むの止めるべき >>116
昔から勝った方が官軍認定されてただろ
北条氏なんて上皇そのものに勝って島流しにしてるし >>116
あの時代にそんな認識の政治センスの無い人間がリーダーになって表舞台に立ってしまったのが会津の間違い >>120
薩摩がいなければ長州にぼろ負けしていた会津。
あまりの糞弱さに新選組なんて不逞浪人を雇い入れて戦わせる始末。
西南戦争での抜刀隊の活躍なんてデマを流して溜飲を下げるのが関の山。 >>123
長州の主力は禁門にたどり着く前に新撰組に蹴散らされてなかったっけ >>116
御所に狼藉働いた南都北嶺や御所に向けて放火した高師直のように
別に御所になにかしたから朝敵になるわけではない
朝敵になるかどうかは朝廷工作の結果だぞ
>>120
国の金で安積疏水を整備してもらったり
三島通庸に道路整備してもらってるのになぜ感謝しないのか理解に苦しむところ >>119
殆どの会津藩士は出ていったので、
今の会津市民は薩長に感謝すべきなんだよ。
少なくとも、当時は感謝していた。 薩長は会津で強かん掠奪をしまくった
歴史は勝者が都合よく事実を塗り替える >>113
今やプロレスじゃないの?
ネタ作りの為にやってるだけだと思う 俺は仙台藩士を先祖に持つが、維新後、ひどく落ちぶれたもんだ。
しかし、奥羽列藩同盟は全く愚の骨頂ここに極まれりだな。
世良修蔵暗殺は会津、庄内、仙台、米沢の佐幕派が陰謀の限りを尽くしてやったもんで、
殿様伊達慶邦始め、君側の奸である安田竹之助、若生文十郎、玉虫左太夫、佐藤宮内、瀬上主膳、姉歯武之進ら
一派の暴走によるもの。世良暗殺によって、仙台藩は勝てもしない新政府軍と戦うことになった。
それどころか、奥羽越全体を強引に戦火に巻き込んだ。
仙台藩にも真田幸村の子孫の真田喜平太みたいな慧眼の人間がいて、大政奉還の時に、郡県制を提案すれば
仙台藩は薩長と肩を並べて革命を牽引できるなんて事を殿様に提案しているのに、
結局は仙台藩の旧態依然とした体制が聞く耳持たなかった。
討幕派による革命が既得権益を奪う事を知っていたんだよ。
戦国時代そのまんまの体制で戦国時代で活躍した武将や一門衆の領土が福島藩や天童藩なんかと同じ規模を持っていて
重臣達が各々勝手に領地経営してたから藩政改革もろくに出来ないでいた。
奥羽列藩同盟の盟主になったとか目先の事しか見えない馬鹿としか言いようがない。 会津・庄内藩は、プロイセンに北海道を譲渡し武力介入させ、
輪王寺宮公現法親王を天皇にするつもりだった。 書簡がドイツ国立軍事文書館で発見された
http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/28769788.html
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html
プロイセン海軍大臣は、日本の混乱に乗じて、領土確保すべきと進言したが、
宰相ビスマルクは国際協調を重視し、武力介入を断っている。
輪王寺宮が会津入りする以前の1868年4月の段階で天皇扱いしており、
「東武皇帝の閣僚名簿」という文書が残っている。
>>129
世良修蔵の暗殺は4月20日。
その時点で既に、会津・庄内藩は、北海道を売ってドイツにに武力介入させ、
天皇のクビを挿げ替えて、国を奪おうとしていた。 >>130
そのフォンブラントの手紙には
「新政府は琉球・奄美をイギリスに売却した」と書かれているのは有名な話
その程度の信憑性しかない >>124
蛤御門の会津藩兵が崩れたのは当たり前だろ
藩公の容保が寝込んでて慶喜が代わりに指揮を執ってるうえに
長州派公卿がたびたび策動を起こすのでしょっちゅう御所に戻ってるから指揮系統が混乱
しかも隣の中立売門を守ってる福岡藩兵が国司勢に破られて蛤御門まで一部なだれ込んできてる
諸藩兵が恐慌を来たして逃げようとするから、一橋兵や桑名兵が発砲できないような状況だからな
とても狭い所で戦ってるから、門の中まで入りこんだ長州勢はそんなに多くないようだが >>128
市民までプロレスかどうかは知らないが、
会津若松市と萩市は歴史愛好家や学芸員クラスの交流は非常に盛んだけどな
まあ、禁門の変の戦闘状況や戊辰戦争の戦闘状況のように、
お互い足りない史料が相手の所にあるんだから利害が一致してるのだろう >>97
うんうん。ネタ元の本は同じね。そこまで分かってるなら、
ガゼ情報を本国に伝えてるフォンブラント書簡じたいの信ぴょう性が問われるわけじゃん。
しかもフォンブラント書簡の3通目は会津落城後だぞ。
どうやって落城後に領土売却の委任ができるんだ全藩士謹慎なのに。
ちなみに、そのフォンブラント書簡の裏付けとなる史料はイギリスでも日本でも一切発見されていない。
なお同書簡はイギリスが列強間において優越的地位を占めることへの危惧から
現地のフォンブラントがかなり誇張した情報を送って本国の介入を要請したものであることはほぼ通説だが。 >>103
そこに書いてある3つの史料ぜんぶ見たけど、
・「会津落城」は星亮一の著作だが彼は「官軍の暴行は会津藩兵よりはるかに苛烈」
として史料をいろいろ引いている
・「英国公使館員の維新戦争見聞記」はリベラリストの傾向があるウィリス医師による記録で
「封建領主」とみなされた会津藩に対してかなり批判的で、伝聞情報も多い
(なお、ウィリスの日記の多くの部分は官軍の捕虜虐殺について)
・「新潟市史」は当然ながら官軍による課徴金(と称する略奪)についても触れている
それで破産した豪商の家もある。
あとそれ新潟占領後に官軍に捕まった同盟側の兵士が見せしめになった記事じゃね? >>116
そもそも天皇から権力を奪い取って隔離したのは徳川家康だろ
その先見性のある政治力で幕府が260年続いた
江戸方の中には天皇なんか隔離してしまえっていう人達がいたぐらいだ
都合のいい時だけ天皇天皇って
だから負けたんだろう 私の父母の世代では、会津と聞いただけで顔を歪めた。
幕末の会津藩(会津人)の蛮行は東北の農村社会の津々浦々までも口伝されていたのだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/62904412.html >>136
長州藩自身も7月27日の本支藩会議で禁裏に発砲した罪を謝して
三家老の死罪を決めてるから、違法行為だという認識は当然ある
処分を決めたのは椋梨党ではなく麻田党の政権だからな 天皇を、というか朝廷を幕末の政争に巻き込んだのは幕府サイドで
今まで通り朝廷や帝を無視して政治をすれば良かったんだよ
家康ならそうしてたはず >>137
このブログ見て不思議に思うんだが、
蝦夷地って清水谷公考が閏4月26日に函館を接収してるから、
庄内藩も会津藩も船が使えず藩兵をすべて引いてるんだわ
旧幕兵が蝦夷地の支配を回復するのは榎本艦隊が来航する10月以降
どうやって既に支配を放棄した所領を売却するんだよ
だから論文集でも裏付けとなる証拠は見つかっていないことに触れたうえで
「活発な外交活動をしていたことを裏付ける」という中途半端な結論にあえてとどめてるわけだが 会津藩がプロイセン(ドイツ)に、蝦夷地(北海道)を提供したという事実は、
近年の外交文書により明らかになった事実である。
そして、その実現に動いたのが、駐日プロイセン公使の「ブラント」と、農業専門の「ゲルトナー」。
特に「ゲルトナー」は積極的で、函館近郊の地の開拓を開始していたという。
http://eikojuku.seesaa.net/article/213039019.html
出典:BS歴史館 発見!戊辰戦争 「幻の東北列藩・プロイセン連合」 >>141
これも論文集でちゃんと断りが入っているが
フォンブラントの手紙は「最近発見された史料」ではない。
前々からドイツ側が日本側にこういう手紙があるから鑑定に来てくれと頼んでたが、
日本側は裏付けがないから興味を示さなかった
それが10年くらい前に会津藩士の子孫と知り合った研究者が関心を持って
「庄内藩と会津藩の外交活動」として紹介したのがきっかけで
ちゃんと論文読んでないネットの一部で間違った方向のデマが広がってるというのが現状
論文集ではその辺の経緯もちゃんと断ってある。 あとこの手のスレでコピペみたいなの貼り付けて会津藩を叩いてるやつは
10年くらい前から日本史板で暴れ狂った基地外なので要注意
日本史板で前にこいつの貼ったコピペを実際に出典史料とともに検証したのだが
すべて原史料や研究書を読まずに引用してることがわかって出禁になってる >>135
こいつチェリーピッキングによる印象操作ひどくね?
星亮一は学者ではないし、司馬先生が〜みたいなトンデモ孫引きも多く捏造も多いよね?
新潟が年貢半減してもらったことや山口の豪商がいくつも破産したことは触れないしw >>131
97名無しさん@1周年2018/08/11(土) 20:57:53.60ID:Qa/j1+dh0>>134
>>84
>新政府は琉球奄美をイギリスに売りましたから我々も急ぎましょうと。
違います。実際は、
「英国政府が琉球諸島の権益をにらんで水面下で準備しているとのフォン・ブラントの
続報を受け、翻ってその情報が確かめられた場合は件の提案についての交渉を、万全の注意を払い
つつもブラントに与える事になった」
しかし、その間に戊辰戦争が集結し、同件が立ち消えになった、が正解。(「戊辰戦争の新視点 上」)
フォン・ブラントの情報は確認されてないし、後の琉球の状況を考えるとイギリスに売り払われてもいない。
日本の琉球処分で清がやたら琉球権益を主張したが、この件の仲裁に入ったのはアメリカ。
そして、琉球問題は日清戦争によって完全に決着がつくが、この時のイギリスの外交方針は日本支持に変わっている。 >>129
江戸城開城交渉前から、
会津・庄内藩は、天皇のクビを挿げ替えて、国を奪おうと動いていた。
それに東北全体が巻き込まれた。 >>134
>うんうん。ネタ元の本は同じね。そこまで分かってるなら、
>ガゼ情報を本国に伝えてるフォンブラント書簡じたいの信ぴょう性が問われるわけじゃん。
>しかもフォンブラント書簡の3通目は会津落城後だぞ。
>どうやって落城後に領土売却の委任ができるんだ全藩士謹慎なのに。
会津降伏は1968年11月6日、3通目のブラントの本国へ送った日付は11月13日。
で、容保が委任した旨、及び、ヘンリースネルへ訓示した書状の日付は10月。
横浜のブラントに会津降伏が伝わらなかったとしてもおかしくないよな?
むしろ、この段階では降伏したかどうかも分からないし。 会津と朝鮮人は被害者アピールするのが好きだけど
これはすでに会津や朝鮮は正しいという大前提があるので
「相手は弱者を虐める悪」という証明さえできれば
自らの正統性の証明になるという謎理論によるものらしい >>134
>なお同書簡はイギリスが列強間において優越的地位を占めることへの危惧から
>現地のフォンブラントがかなり誇張した情報を送って本国の介入を要請したものであることはほぼ通説だが。
以上に見たように、シュネルが戊辰戦争の東北戦線から持ち込んできた話に、ブラントは情勢の
刻一刻たる変遷をにらみつつ、機会と状況が許し次第身を乗り出して応じようとする構えをとった。
これに対する本国政府の反応を示す文書は、調査途上でありいまだ詳らかにしえない。
一方、戊辰戦争の東北戦線の経過を振り返ると、実は、プラントが前記の書翰を認めた一八六八年
(明治元年)11月半ば当時、奥羽列藩同盟の諸藩はすでに新政府軍に次々降伏し、東北戦線は終結に向かいつつあった。
すなわち会津藩の降伏は十一月六日、庄内藩は翌七日であり、前述の書翰が記された十一月十二、十三日はその後となる。
会津、庄内藩は戦闘の決着が着く直前のきわめて切羽詰まった情勢下で蝦夷地を梃子とした戦局の打開策を急ぎ具体化しよう
としたものの、シュネルが東北の戦線から委任状を構え、横浜まで移動してくる期間のうちに、両藩の相次ぐ降伏に至ったものと
推測される。
ただしブラントは問題の書翰中で「始まった案件[会津·庄内藩との交渉]はいつでも長引かせることができる」との見解を示しており、
両藩が間もなく新政府に敗退し、交渉そのものが成り立たなくなる可能性を、かなり考過小評価していた様である。
そもそも、ブラントは時事情勢をどのように理解していたのであろうか。
(中略)
ブラントは内戦が早期に終わらず、長引くと見ていた様である。(後略)
>なお同書簡はイギリスが列強間において優越的地位を占めることへの危惧から
>現地のフォンブラントがかなり誇張した情報を送って本国の介入を要請したものであることはほぼ通説だが。
通説じゃないよ全然。インチキばかり書きやがって。
ブラントはイギリスが琉球や蝦夷地で優越的地位を得れば、フランス、ロシア、アメリカの反発を招き、
旧幕府が自領を取り戻せばイギリスの目論見は達成不可能となる。しかし、我が国が蝦夷地を取得すれば
イギリス、ロシアの影響力を削ぐ事になるから、一部列強から歓迎される事になるだろうと十一月十一日付けの
ビスマルクへの書翰に書いている。 >>134
>うんうん。ネタ元の本は同じね。そこまで分かってるなら、
>ガゼ情報を本国に伝えてるフォンブラント書簡じたいの信ぴょう性が問われるわけじゃん。
>しかもフォンブラント書簡の3通目は会津落城後だぞ。
>どうやって落城後に領土売却の委任ができるんだ全藩士謹慎なのに。
<「戊辰戦争の新視点 上」より抜粋>
以上に見たように、シュネルが戊辰戦争の東北戦線から持ち込んできた話に、ブラントは情勢の
刻一刻たる変遷をにらみつつ、機会と状況が許し次第身を乗り出して応じようとする構えをとった。
これに対する本国政府の反応を示す文書は調査途上であり、未だ詳らかにしえない。
一方、戊辰戦争の東北戦線の経過を振り返ると、実は、プラントが前記の書翰を認めた一八六八年
(明治元年)11月半ば当時、奥羽列藩同盟の諸藩はすでに新政府軍に次々降伏し、東北戦線は終結に
向かいつつあった。
すなわち会津藩の降伏は十一月六日、庄内藩は翌七日であり、前述の書翰が記された
十一月十二、十三日はその後となる。 会津、庄内藩は戦闘の決着が着く直前のきわめて切羽詰まった情勢下で
蝦夷地を梃子とした戦局の打開策を急ぎ具体化しよう としたものの、シュネルが東北の戦線から委任状を構え、
横浜まで移動してくる期間のうちに、両藩の相次ぐ降伏に至ったものと推測される。
ただしブラントは問題の書翰中で「始まった案件[会津藩、庄内藩との交渉]はいつでも長引かせることができる」との見解を
示しており、 両藩が間もなく新政府に敗退し、交渉そのものが成り立たなくなる可能性を、かなり過小評価していた様である。
そもそも、ブラントは時事情勢をどのように理解していたのであろうか。
(中略)
ブラントは内戦が早期に終わらず、長引くと見ていた様である。(後略)
>なお同書簡はイギリスが列強間において優越的地位を占めることへの危惧から
>現地のフォンブラントがかなり誇張した情報を送って本国の介入を要請したものであることはほぼ通説だが。
通説じゃないよ全然。インチキばかり書きやがって。
ブラントはイギリスが琉球や蝦夷地で優越的地位を得れば、フランス、ロシア、アメリカの反発を招き、
旧幕府が自領を取り戻せばイギリスの目論見は達成不可能となる。しかし、我が国が蝦夷地を取得すれば
イギリス、ロシアの影響力を削ぐ事になるから、一部列強から歓迎される事になるだろうと十一月十一日付けの
ビスマルクへの書翰に書いている(「戊辰戦争の新視点 上」より)。 >>134
>うんうん。ネタ元の本は同じね。そこまで分かってるなら、
>ガゼ情報を本国に伝えてるフォンブラント書簡じたいの信ぴょう性が問われるわけじゃん。
1868年11月12日にビスマルクに送った書翰にも、会庄両藩からの委任状を
携えたスネルから、借款と引き換えに蝦夷地の領地を99ヵ年の担保として出すと書かれてる。
(「戊辰戦争の新視点 上」) >>134
>うんうん。ネタ元の本は同じね。そこまで分かってるなら、
>ガゼ情報を本国に伝えてるフォンブラント書簡じたいの信ぴょう性が問われるわけじゃん。
1868年7月31日にビスマルクに送った報告書にも、会庄両藩から蝦夷地もしくは
日本の西海岸にある領地をプロイセンに売却したいと内密に申し入れてきたと書かれている。
また、
1868年11月12日にビスマルクに送った書翰にも、会庄両藩からの委任状を
携えたスネルから、借款と引き換えに蝦夷地の領地を99ヵ年の担保として出すと書かれてる。
(「戊辰戦争の新視点 上」)
(「戊辰戦争の新視点 上」) ヘンリースネルが会津から委任状を得ている以上、ガセネタではないという事。
なんなら、ブラントがビスマルクに宛てた容保のスネルへの委任関連の記述も抜粋する。
また、会庄両藩の蝦夷地売却の動機であるが、幕府から命じられた蝦夷地管理というのが
過酷で割に合わなく、敗北が目前に迫っていた会津には売り払った所で、新政府がイギリスを
バックにつけていた様にいいんじゃね?くらいに思っていただろう。この件のソースも必要なら提示する。
琉球云々というガセネタも、奥羽列藩や他の列強向けの情報操作として撒かれた可能性がある。 この人
相手の議論する気を削いで曖昧にするのが狙いか? お前ら創価共産じゃないの?
ソース提示しないのはこの人に因縁吹っ掛けてる方でしょ。
お友達なんだ。きもっ >>88
名古屋に養子に行った兄ちゃんに土下座させたら会津と桑名の首はとられなかったんやないか?
大将の仙台も、官軍だった分家の伊達宗城に土下座させて北海道にお引っ越しで済んでるし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています