>>111
そこらへんの歴史特集だけ読んで史実に詳しくないな

来るべき関ヶ原の戦いに備えて徳川家康は
我が徳川陣営(巷の東軍ではない)に付くように
京都伏見の島津義久邸に徳川家康自ら馳せ参じてお願いしてるんだよ
朝鮮出兵の文禄・慶長の役時に肥前名護屋城周囲に
日本諸大名達の陣屋群が築かれ長い生活を共にして以来の仲となり
その際島津方に京都伏見城の守りも要請してたが
義久の弟である義弘が伏見城に参じると家康の家来である
鳥居の手違いで入城出来なかった義弘が怒ってしまい
成り行きで石田三成方に付いて関ヶ原の戦いを迎えてしまった訳

その後は島津義久が全面に出て徳川家康と
戦後処理を3年かけ繰り広げ島津家の全所領を安堵するどころか
島津家の所領であった宮崎佐土原藩3万石を島津本家に返し
琉球の明との朝貢貿易や南蛮貿易を目的にした侵攻で琉球9万石を
島津の所領とすることも徳川家康は認めて実質12万の加増となってるんだよ