【歴史】織田信長が今川義元から奪った「天下取りの刀」義元左文字の復元プロジェクトが熱気 生誕500年ひかえ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
刀を鍛える内田義基さん
https://www.sankei.com/images/news/180904/lif1809040023-p1.jpg
戦国大名の今川義元らが愛用し、桶狭間の戦いで織田信長に奪われた刀、「義元左文字」を現代に復元するプロジェクトが有志によって進められている。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が所有し、家康は大坂の陣に持っていったとの説もあるため「天下取りの刀」との異名も持つ。2019年は義元の生誕500年にあたり、来年5月の完成をめざす。(WEB編集チーム 高原大観)
発起人は静岡を中心に、戦国時代のイベントによろい武者役で出演する活動などを行う「遠州鎧仁會」(えんしゅうがいしんかい)の佐野翔平さん(27)だ。刀鍛冶の内田義基(よしもと)さん(48)が刀身を担当し、鞘や柄などの外装を同じく刀鍛冶の水木良光さん(34)が担当する。また、大河ドラマ「おんな城主直虎」で義元を演じた静岡県出身の落語家・春風亭昇太さんを名誉会長、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏を名誉顧問に迎えた。歴史的な見地から助言をおくるという。
■凡将ではない実像
佐野さんは「義元は信長に桶狭間の戦いで敗れたということで、世間の評価が低く感じる。しかし、おひざ元の静岡に住んでいると、世間での評価が低いことに違和感がある。義元は軍備を充実させると同時に内政にも優れた武将だった。今回の復元企画を通じて再評価につなげたい」と話す。
生誕500周年を迎えることを機に義元が統治していた静岡では再評価の動きが広がっている。ゆるキャラの「今川さん」もデザインされた。「静岡で有名な武将は徳川家康」との従来のイメージに異を唱えることなども目的という。
家康の前には義元が「海道一の弓取り」(武将)と呼ばれており、駿河(静岡県)、遠江(静岡県)、三河(愛知県)を領する大名として確固たる地位を築いていた。軍事面においては三河に侵攻してきた織田信秀(信長の父)を撃退し、外交面においては国境を隣接して強大な軍事力をほこる武田信玄や北条氏康と甲相駿三国軍事同盟を締結して国境付近での争いを沈静化させた。内政面では領国を統治する法の「今川仮名目録」に追加の条文を加えて室町幕府からの自立を果たした。金山開発もすすめ、金の採掘を行うと同時に領土の東西を通る東海道での物資流通を促進するなどして国を富ませた。また、家臣団の結束を強化させるなど優れた施策を行っている。暗愚な将とはほど遠い。
■幻の姿
「義元左文字」は刀匠・正宗の十人の高弟の一人に数えられる左文字源慶の作とされている。自身の作品に「左」の文字を入れることから左文字と呼ばれる。三好正長が初めに所持し、その後武田信虎(信玄の父)を経て今川に伝わった。桶狭間の戦いで義元が所持していたものを信長が入手した。信長は二尺六寸(約78センチ)の長さを二尺一、二寸(約69センチ)まで短くして持ち手の表に「永禄三年五月十九日義元討補刻彼所持刀」、裏に「織田尾張守信長」と彫り、金で文字を書いた。
その後豊臣秀吉の手を経て秀頼に受け継がれ、徳川将軍家のもとへ渡った後に明暦の大火にあう。修復のため再度鍛え直された。明治になり、京都に信長をまつる建勲(たけいさお)神社が建てられると、徳川宗家から奉納され、今日にいたる。刀の模様などは変わっており、義元が持っていた当時の姿は残っていない。
刀身の復元を担当する内田さんは「文献など資料が残っておらず、当時の刃の模様などは想像で補うしかない」と話す。
佐野さんは「この企画を通じて義元の魅力を多くの人に伝えたい」と話している。
2018.9.4 18:00
産経ニュース
https://www.sankei.com/life/news/180904/lif1809040023-n1.html 私のおかんの実家は、義元さんに貰った所領を400年にわたって守っております。桶狭間では、その当時の当主が討ち死にしました。 >>476
小姓じゃないけど
前田利家もだっけ
美丈夫だったらしいし >>399
その発給文書をシコシコと集めたのが徳川家なんだよ
普通は領主が変わったら何の証書にもならないから捨てられてしまうが徳川家が集めた
集めた徳川幕府が滅びずに続いたことが北条の文書が多く残る理由なのは間違いないよ 天道では麿だが、
創造からはイケメンに変わったな。
シズオカンからクレームきたんかな? >>480
というか北条の場合、徳川がコツコツ集めた以前に
・小田原城が焼失しなかった(焼失した八王子城関係は文書少ない)
・氏直が高野山に追放後も督姫が小田原城に居残りむやみと手を付けさせなかった
・氏直の高野山下山が早く督姫や家臣達と文書含め北条家関係のものについて
どうするかを話し合えた
・北条遺臣が多く残っており大久保長安がとりまとめていた関係で
後に小田原に入った大久保(養父)と連携して文書保管などができた
・督姫が北条関係のものをかなり持っていたないし父家康に対して
北条関係のものをむやみに処分しないよう強く依頼
・前田や池田が北条について遺臣含めてかなり保護に動いていた
などがあって徳川家が~以前に集められるだけの土台があったんだよ >>1
>刀身の復元を担当する内田さんは「文献など資料が残っておらず、当時の刃の模様などは想像で補うしかない」と話す。
なら復元とは言えないな この20年の歴史をゆがめる動きはものすごい。
歴史の教科書も半分に用語を減らすとかおかしな敵方の動きが強いし。 >>12 >>67
根本的に違う
暴力団は法に守られた犯罪者、武将とは違う
戦国時代は人間を守る法なんてない
だから真の強いもの勝ち
ところが現代は法が有るから人間は好き勝手に強いもの勝ちは出来ない
もし今法が無く、戦国時代に戻ったら
織田信長のような武将も出てくるだろうが、それは今は大企業の社長をやってたり、政治家をやってるような人間の中から出る
今暴力団の組長をやってるようなのは戦国時代では足軽になるのがせいぜいの力量 韓国の刀剣技術が遅れていた最大の原因は秀吉の刀狩にあった
それまで日本ではマトモな刃物が作れず、韓国を侵略した秀吉は
韓国刀の切れ味に苦しんだ末、刀狩でそれを奪い始めた
中には先祖伝来の刀を奪われまいと必死に抵抗する韓国人もいたが、
彼らは日本刀で韓国刀ごと真っ二つに切り殺されたという… >>485
秦が崩壊した時に次のトップになったのは軍人一家の項羽で
次にトップになったのはヤクザ者と付き合いが深かった農民の劉邦
ヤクザの組長でも地方のトップぐらいまでなら普通に有り得るw
三国志だと曹操のボディガードだった典韋はおそらくヤクザ者出身
劉備の義弟二人もおそらく
曹操も名門一族の不良青年だしw
呉の連中はほぼ河賊ヤクザw
ローマ帝国の崩壊時だとローマの軍団長が独立してあちこちの王様に
政治家 起業家 軍人 犯罪者がしっかり分離されてると
有事にのし上がってくるのは後者二つ >>487
つうか劉邦はヤクザもんそのものだろ
中国の皇帝はヤクザもんか遊牧民の酋長がなるもんだろ >>488
ヤクザ者と付き合いがあった豪農さんの次男坊やし…
後の晋に繋がる司馬懿は春秋の頃からの1000年近い歴史のある名家出身だし
(「なんでたかが400年前からの成り上がり者(曹操)に仕えにゃならんのか?」と就職しなかったら曹操がキレたんで就職したw) ヤクザも戦国大名も人民に寄生し不労所得を得るためってことで共通している。
同じものではある。中国など王朝開いた皇帝にはヤクザ、ヤクザ同様のアウトロー組織の
出身者がしばしみられる。
国家、秩序とはそういった人達がうまみを得るために形作られるもんだし、人民もそれを
承知で支持してるんだよ。WinWinの関係w
これが否定されなければならん事とは思わない。あらゆる秩序が崩壊した国家無き社会
がどんな社会になるのか知っているなら、軽々しく否定などできんはずだ。 劉邦はちんぴらだが奥さんの呂雉一族は大したもので
あの秦の大宰相で大商人の呂不韋の一族だともいう
豪傑で有名で劉邦の護衛を務めるハンカイも呂后の妹をめとり義弟だった
いってみれば呂一族で劉邦は人材のかなりの部分を賄っていた
呂后の兄の呂沢・令武侯も軍事に長けた人物で、劉邦が項羽にまけたとき
命からがら呂沢の大軍に逃げ込んでる
呂沢は劉邦が皇帝になって3年で死んだとされ、また息子は相国になったが
呂一族は皆殺しになった。故に史書にあまり出番がない >>491
貴族連中がケガレ気にして警察、司法、軍事放り投げたから武士が生まれたんだけどな。
学校では絶対に教えないが。
まあそのおかげで、大陸とは違う政治体型になった。
保元の乱〜承久の乱までの流れはある意味、革命だから。 >>487
そりゃ当時の話だろ
当時は今のような法律に守られながら
犯罪行為で飯を食ってる暴力団はいない
自分で自分を守る、武将の一種だ
まあ清水の次郎長のようなものだな 日本の戦国時代の話に中国史持ち出す奴は十中八九ゲーム脳 藤原頼長
も字面だけみたら相当なもんだと思うけどなぁ、「頼」がダメなのかな? 武士が台頭するには金、経済力がなければならない
やくざでいえばシノギ
全国に地頭を置きたいと北条時政が上皇に奏上し認められる
頼朝が日本追捕使に任ぜられ、日本中の守護をおく権利を獲得
応仁の乱で京都に大軍をくぎづけにする補給線のため守護に「半済」
がみとめられ天皇公家寺社の荘園も例外なく守護が差し押さえた
守護が強大化し、貴族は収入を失い天皇も窮迫する
日本の近代化は応仁の乱にはじまる、とされる
ここで天皇や貴族が完全に形骸化して武士のあらそいになる
守護を置くことをみとめたのは後白河上皇だからそのへんの責任になるか >>496
なおその武士もryで下っ端が
ローマ帝国は外国人傭兵に頼るようになって崩壊
なお現在の大英帝国の王子様「タリバンぶっ殺すの面白ぇw」
…大英帝国は当分安泰だなw >>497
古代中国や日本でもヤクザ者は権力者やその子弟となあなあで付き合っているようなw
法でも守られている >>503
古代中国のどういう法が当時の暴力団を守ってたんだよ
今の日本は一般人が暴力団員でも攻撃したり殺したりしたら簡単に警察に捕まる
それ以前に攻撃手段の刀や銃とかも持てなくなってる
だから暴力団は犯罪人にすらなる気なら一般の人間を攻撃できる
そういうことが古代中国で有ったという主張か? >>480
その集められたものは今日具体的に何文書という形で伝わってるんですか?
上からの流れ見てても全然根拠出さないのが気になるよ >>502
日本の皇室は今のイギリス王朝の祖先がイギリスを征服した頃から既に武力行使は下っ端の武家に丸投げだぞw >>502
21世紀になっても「銃剣突撃サイコー!」な国だからな。
まぁ、小銃がL-85なせいかもしれんが。 >>112
北条早雲も備中伊勢氏の出身で、名門の御曹司といって差し支えないんだけど 早雲も素浪人ではなく、政所執事伊勢氏の一族で幕府にも出仕していたようだが
関東ではたとえ伊勢氏でもよそ者だからな
息子の氏綱が伊豆出身で関東に縁のある北条に改姓したのも理解できるよう
足利一門で駿河守護の今川とは同列には語れない >>511
地味に家康の150年くらい前の先祖も伊勢氏に仕えてたんだよな
素性の怪しい松平氏の確認できる最古の記録だと
微妙な因縁と言えば因縁 >>513
伊勢氏と松平徳川氏とは今川も含めると重層的な縁があるよね >>506
投げまくったおかげで神輿として残れたともいえる
投げなかったりすると中華王朝みたいに易姓革命起きてる可能性
自分でやろうとしたら「いけませんなあ」と時の為政者が比較的優しく取り押さえてくれるw
松永久秀は手加減の出来ない男にござる 想像で復元(笑)wwwwww
それはただの妄想だよww >>260
十河最強
なんせ6歳だから無駄に時間だけはある >>510
没落してたから相模の国に流れていったんでしょ
それを御曹司ってw
出自と現況を一緒くたにするなよ 義元はもう充分名誉回復されてると思うよ
センゴクや最近の信長の野望でもかっこよく書かれてるし
これ以上望むのは最終的に敗者である以上無理 そういや武田家滅びた時、天目山に楯無は持って行かなかったんでっか? 子の氏真の肖像画は残ってるので推察すれば容姿は普通
さらに若い頃ならそこそこ美男であったはず
息子がハマってた蹴鞠もかなり過酷なスポーツでサッカー選手並みの
身体が要求される
先祖もだいたい優れた武将だった。義元もいい男ぶりではあったろう
織田信長も女顔の美男とされるけどあれはあくまで現代流のすっきり美男だから
当時の感覚は違った
曹操が痩せていて小馬鹿にされていた(当時は偉い人はデブ)例もあるが >>526
妹のお市は美形で通ってなかった?
西南戦争時薩軍の美少年剣士と謡われた人の息子は、第二次末期の玉音放送盤奪取事件に
関与した陸軍将校だった。(名前忘れた)
その将校の写真見るにオッサンに差し掛かろうとする年齢ながら、少年期は日本的美少年と
思われる顔立ちだった。これはオヤジの影響だと思われる。
つまり、まだ日本固有の美的感覚が濃厚であった西南戦争時においての「美少年」は
現代的尺度でもそれなりに通じるということだ。長々と述べたけどw
まったく不細工が今だとイケメンって評価はないんではないか? 歴史教科書でイケメン人気であろうアレキサンダー大王のイッソスの会戦の横顔と
切れ長な目の源頼朝の画だが一説にはあれは足利直義だとも
弟が美男となると、尊氏の異常な勝負強さやカリスマもわかる
親族の今川範国も美形だったのではないかと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています