【福岡】浮かぶ、筑後平野の先進性 邪馬台国「卑弥呼の鏡」説 三角縁神獣鏡発見で注目 朝倉・平塚川添遺跡
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弥生時代中期から古墳時代初頭にかけての大規模環濠(かんごう)集落遺跡、平塚川添遺跡(福岡県朝倉市、国史跡)についてのシンポジウムが同市内で開かれた。「卑弥呼の鏡」との説もあり、同遺跡付近で出土したとみられる三角縁神獣鏡が最近発見されたことが報告され、同遺跡一帯の重要性が改めて浮かび上がった。
平塚川添遺跡は筑後川の支流・小石原川沿いの低湿地にある。1991〜93年に発掘調査。17ヘクタールの範囲で最大7重の環濠や柵列を巡らせた中に、竪穴住居跡300カ所や大型掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。住居、工房、倉庫の用途ごとの区画が存在したとされる。大量の土器や木製品のほか、玉類などもあった。遺跡の最盛期は邪馬台国時代に当たるため、「魏志倭人伝」に登場する「国」の存在を示す遺跡として知られている。
朝倉市教委文化財係の中島圭さんは、遺跡一帯の地形に着目した。朝倉市では北部の山地から筑後川に向けて小石原川などの支流が流れるため扇状地が発達している。川に沿った高い台地に弥生〜古墳時代の遺跡が多数見つかる。ところが平塚川添遺跡は低湿地で、台地は遺跡の東部に広がる。中島さんは「国の中心は台地にあって、平塚川添遺跡はむしろ新興の開拓地だったのでは」と推測した。
それをうかがわせるのが発見された三角縁神獣鏡だ。旧福岡藩士の家に所蔵していたもので、今年3月に朝倉市に寄贈された。100年以上前の絵図で存在は知られていたが現物は所在不明だった。出土地点は文献から、同遺跡東部の台地にある、平塚大願寺遺跡の方形周溝墓だった可能性が高いという。これまで同市内で唯一の三角縁神獣鏡の出土地だった神蔵(かんのくら)古墳も、この台地にある。平塚川添遺跡では銅鏡や銅矛の破片しかなく、首長の墓は確認されていない。一方、三角縁神獣鏡は初期大和政権が各地に配布した威信財とされ、地域の首長墓の存在を示す。
中島さんは「平塚川添遺跡は氷山の一角。台地にはまだまだ遺跡が広がっている」と想像する。武末純一・福岡大教授も「平塚川添遺跡の全容はまだ分かっていない。三角縁神獣鏡と共に葬られた人が当時どこにいたのかも探してほしい」と今後の調査に期待を寄せた。
朝倉市の隣りの筑前町では近年、弥生時代の硯(すずり)が相次いで発見され、文字使用の可能性を巡って注目されている。同町の遺跡では「王墓」とみられる墳丘墓や銅製品の鋳型も確認されている。平塚川添遺跡を巡る調査研究の進展は、当時の筑後平野の先進性を探る上で鍵を握っているのかもしれない。【大森顕浩】
毎日新聞 2018年9月6日
https://mainichi.jp/articles/20180906/ddl/k46/040/424000c?inb=ra 卑弥呼の墓について
「魏志倭人伝」の記述には「径百余歩」と合わせて、
「棺あって槨なし、土を封じて冢を作る」とあります。
早い話「槨のない木棺の直葬」です。
神郷亀塚古墳
https://kofun.info/kofun/1064
*形状 前方後方墳
*規模 全長36.5m
*築造時期 3世紀前半
*後方部より並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、
有力者の夫妻であろうと思われる。
※魏志倭人伝の記述によれば
卑弥呼は高齢であり、夫は(すでに)なかった。 >>46
不彌国:いまの津屋崎付近
投馬国:遠賀川流域 新聞記事のタイトルとスレタイが違ってる
新聞記事には卑弥呼の鏡の説がある三角縁神獣鏡は大和政権から配布されたとあるが
一方、スレタイだけ読むと邪馬台国が筑後平野にあったかもしれないというニュアンスが感じられる
180度逆の意味になってしまう >>37
>それよりか、面土国ってどこなんだろうな
>こっちの方はまるで見当もついてないんじゃなかったっけ
情報が、面土の二文字しかないからねww
それでも、そこからいろいろ考える人もいて、
面土⇒メタの音訳⇒米多と考えている人がいるよ
肥前国三根郡米多郷は、吉野ヶ里の近くだし、旧事本紀の国造本紀にも
米多国造が見えるから、それなりの地域首長が居たのは確か >>63
記事は
筑後平野に「女王が治める三十国」のうちの一つがあった
ってニュアンスなんだろうから、180度逆って事はない
まあ、いずれにせよ誤りだけど
邪馬台国連邦は、ざっくり滋賀中心に福井南部・岐阜西部・三重・奈良・京都南部くらいまで
https://blog-imgs-45-origin.fc2.com/y/a/m/yamatokoku/yamatokoku_global.png
大阪平野が「狗奴国」に当たるから 中国から貰った三角縁神獣鏡を元に
日本で大量に複製し各地にばらまいてる
一つ見つかっただけでは邪馬台国の場所はわからない
沢山見つけてばらまかれた傾向を調べる必要がある いくら関係ねえからって、こんな暇人共の戯言載せてる余裕なんかあるのか?
全面使って震災特集でもした方がいいんじゃねえの? そもそも三角縁神獣鏡って青銅でしょ
銅鐸が山ほど見つかってんだし余裕で国内生産できんじゃん
何ありがたがってんの この手の希少な物に価値があったのは、例えば天皇の位とかどこぞの大陸の県令
辺りの印綬と同じく任につくのに必須だったからだ
今や何でもかんでも電子データだ、この手の物の役割なんか遠い昔に終わってるわ 弥生時代は九州で後の古墳時代は近畿。
邪馬台国は弥生時代。 >>68
同じ型でたくさん作られるから
同じキズとか癖のある鏡が作られる
それもまた研究の対象になる >>69
青銅器持ってたら天皇になれるって、、、?
まあそもそも、
優れた青銅器加工技術を持っていたのは、
古代中国の殷・周、これは北方の国
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9d/Bronze_Bo_bell_China.jpg/199px-Bronze_Bo_bell_China.jpg
で、この周王朝の分家が、長江流域の「呉」
>「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
>周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、
>この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。
>長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、
>呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。
「呉人」は北方の周にルーツを持つ人々と長江ネイティブの人々の混合
紀元前473年、呉は滅亡し、呉人は日本列島に亡命することとなる
それが「弥生人」、
特にその中の、周王族にルーツを持っていた一族こそが「天皇」 >>73
そう、邪馬台国人は埴輪作ってないし、ミズラ髪にもしてなかったんだよね 九州の邪馬台国を乗っ取った近畿政権の言い訳が日本書記。
今の天皇が呉人の血を受け継いでいれば邪馬台国人の末裔と言える。 >>76
苦しいなあ立正佼成会
確かに立正佼成会(漢民族)は一時、ヤマト朝廷を乗っ取った
それが神武ー武烈だね
中国遼東半島辺りから来て、「邪馬台国」に南から回りこもうとして
九州まで行って日向から上陸し、
ムダに巨大古墳をこさえた後に侵略脳が抑えられず東征
でも継体天皇から、ヤマト民族に取り返されたでしょ ああまあ、「呉」には漢民族(立正佼成会)も紛れ込んでいたのよ
それが「伊都国」人
https://blog-imgs-45-origin.fc2.com/y/a/m/yamatokoku/yamataikoku_kouro.png
後の黒田家な
中国春秋時代において、ネトウヨぶっこいて呉をけしかけて越と戦争させたのもこいつら ・ジャップ(天皇、上流)のバックは、アングロサクソンの軍事産業。
・さらにこのバックは「白人至上主義者」。ネオナチ。
・このバックの目的は、ジャップを「すごい」とおだてて強いと勘違いさせ、
中国とまた戦争させること。
・そうやって、彼らの憎悪する最も優れた有色人種の中国人を、
ジャップともども、弱体化し潰そうと企んでいる。
・明治から現在までのジャップの富は、連中から与えられたもの。
ジャップに「ジャップすごい」と錯覚させるため。
だから「ジャップすごい!」と信じてる馬鹿ジャップは、
白人至上主義者に都合よく洗脳されてる馬鹿、といえる。
明治で植民地化される前の江戸時代までのジャップを見れば、
アジアの3流国家であることは明らか。馬車も発明できず、貨幣経済さえ未発達だった。
ちなみに、この「白人至上主義の軍事産業の重鎮一族」と、
「ジャップ皇室」の二つの血を引いてる混血猿が、安部晋三。
やつの権力の源泉は、この血筋。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ノーベル賞も、大谷も、ワールドカップも、オリンピックも、
「ジャップすごい!」
とジャップに勘違いさせる罠。
バックに米英の大物軍事産業があれば、こんなもん簡単。
,mv >>80
>バックは、アングロサクソンの軍事産業。
>・さらにこのバックは「白人至上主義者」。ネオナチ。
ねえ何を自己紹介してるの立正佼成会は 妙に徳島説に説得力あるんだよね
歌も残ってるし距離とかいろいろ >>82
「東征」の途中で住み着いたのか、徳島にもけっこう漢民族いるらしいよね
坂東英二とかああいう顔
テキトーにでっちあげてるけど滋賀ほどの説得力を示せますか
https://youtu.be/zKD9WWFkQWU
https://youtu.be/pFMxLO3IySI
福岡藩主黒田家が「漢委奴国王印」の金印を保持していたが
黒田のルーツは滋賀県湖北、旧伊香郡
https://blog-imgs-45-origin.fc2.com/y/a/m/yamatokoku/yamataikoku_kouro.png
「魏志倭人伝」における「伊都国」
漢の使者がとどまる所と書かれた場所 >>1
あの遺跡は工事で移転してるやろ?
違った? 邪馬台は北九州。
狗奴国は九州南部宮崎辺りにあった馬韓の属国。
そのため邪馬台は狗奴を滅ぼし半島に攻め入った。
代々王都は太宰府筑紫城があった場所
3世紀当時近畿には青銅器文明しか存在しておらず
それらも邪馬台傘下であり東北部にかけての日本海沿岸部は邪馬台に属する倭人。
出雲から硯が出土するのは、大陸王朝成立時邪馬台国各々の国の王が使者を送った痕跡
近畿は倭人半島進出後任那倭国領から奴隷として送られた半島開拓民が九州弱体化に乗じて勢力を伸ばしたクーデター勢力 偽史倭人伝だから
2000年後にラノベ解析してるようなもん。
金印w
見抜けないやつに魏史倭人伝を語るのは難しい >>88
見抜いてるやつが来てますので、何でも質問してください 邪馬台国(滋賀)vs狗奴国(大阪)の対立は、
そのまま、日本神話における
高天原(滋賀)vs葦原中津国(大阪)
アマテラスは忍穂耳命(あめのほしおみみ)を説得にあたらせたが
命は天の浮橋から覗き、『葦原中国は大変騒がしく、手に負えない』←The大阪
と高天原のアマテラスに報告した。
「...この国にはすばしこい荒ぶる国つ神どもが大勢いると思われる。←That's大阪
そこで、どの神かを遣わして、帰順させてほしい。」 邪馬台国と日本国が倭国の中にあったんじゃないの
日本国と倭国の歴史がかみ合わん理由がそれじゃないの
近畿にあった日本国の歴史だけが残って倭国の歴史とすり合わせて変なんでしょ >>93
完全にかみ合ってる
邪馬台国=滋賀・近江盆地=高天原
高いあまはら(海)…琵琶湖(標高84m)
狗奴国=大阪平野=葦原中津国
「難波江の 葦の刈り根の・・・」の和歌に読まれるように、古代大阪平野は葦が生い茂る地 記紀神話は殷の時代から東夷に伝わる口伝と入植した半島人伝承を編集したもので、半島人との混血である天智天皇が邪馬台王権を抹消し偽倭王史をでっち上げたものである。
そこに邪馬台の記述は一切なく、近畿に伝わる古代神社、古墳に埋葬された権力者、埋葬品、壁画は半島奴隷と土着青銅器倭人が融合されできた勢力である。 天智天皇はただしく邪馬台国=高天原のアマテラスの末裔ですし
近江宮で生まれた娘の持統天皇は「高天原広野姫」の名を与えられた
ただ「卑弥呼」がアマテラスの一族かというとたぶん違う
この人はたぶん縄文系住民から選出された議長みたいなもん 記紀作った人は魏志倭人伝読んだ形跡があるだろ
その人物が続いてるように書いてないのだから違う国だったんだろ 高天原伝承なんてのはそもそも半島北部に存在する話なんだよな。
これこそ渡来人にすり替えられた歴史なんだろうけど >>98
まーーた立正佼成会(漢民族)が起源主張し始めたよ >>99
遺跡も痕跡もねえ口伝にあやかって村興しでもしたいのか知らんが、いい加減古代のファンタジーラノベ信じ込む妄想から現実見たほうがいいぞ 邪馬台国は大和なのに
箸墓が卑弥呼の墓なのに
未だに九州とか言ってる人が信じられない 今になっても九州がどうたらいうやつがいるのは、願望だね。
まあ、夢があるというかロマンがあるというか。
卑弥呼がヤマトで今の天皇家に続いていたらちっともロマンじゃない。
ロマンじゃなくておもしろくもない事実になっちまうからな。 >>100
わたしゃルーツはほぼ県外なんで、口伝なんぞ得てないわ
遺跡が欲しいならどうぞ
○神郷亀塚古墳
https://kofun.info/kofun/1064
*形状 前方後方墳
*規模 全長36.5m
*築造時期 3世紀前半
*後方部より並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、
有力者の夫妻であろうと思われる。
ー魏志倭人伝の記述より
*卑弥呼の墓について
「魏志倭人伝」の記述には「径百余歩」と合わせて、
「棺あって槨なし、土を封じて冢を作る」とあります。
早い話「槨のない木棺の直葬」です。
*卑弥呼は高齢であり、夫は(すでに)なかった。
○伊勢遺跡
http://biwap.raindrop.jp/ise1_2_lb.jpg
http://img01.shiga-saku.net/usr/himiko135/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%85%A8%E6%99%AF2004s11%E6%9C%88%E5%85%A8%E6%99%AF%E5%A0%80%E6%9F%B5.jpg
滋賀県守山市
約30ヘクタールに及ぶ大規模な遺跡、弥生後期としては国内最大級
さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見
それらが円と方形の組み合わせて計画的に配置されています。
直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、
中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。
そばには楼観が建っています。 >>101
卑弥呼の墓は径百余歩
アンタは竹馬にでも乗ってんのか 女王国と邪馬台国は別の国
「魏志倭人伝」は書き分けている
同じ国なら書き分ける必要はない >>104
後円部は径100余歩
前方部は構造の違いから分かる様に後代に増築されたんだよ
つまり、最初は倭人伝の記述通り、円墳として築造されたんだよ。 倭人伝にある
「女王国迄 水行十日 陸行一月」
これ完全に九州圏外ですよ >>106
構造はわかってないよ。
宮内庁が外観しか見せてくれないから。 >>109
少なくとも、最後に出てくる水行10日〜については総行程と読んだよ。
中国人が。 親実家が北陸の滋賀住民だからこそ
使者の行路に対して土地勘がある
https://blog-imgs-45-origin.fc2.com/y/a/m/yamatokoku/yamataikoku_kouro.png
末盧国ー伊都国ー奴国ー不弥国、そして南に「水行」(渡海とは書かれていない)
この位置関係は確実に敦賀ー湖北周辺
敦賀は気比の松原、海岸の松の群生で有名 近畿に3世紀、数年毎に半島攻めるだけの大規模国家と海軍、鉄器文化なんてねえよ。
邪馬台の時代進出の矛先は半島であり、当時秘境だった近畿にはごく少数の人間しか存在してねえっての
何時迄炭素年代詐欺続けるのか知らんが >>110
箸墓をヘリコからレイザー測量した地形図がある。
これを見れば一目瞭然だが、後円部と前方部の段構造に連続性がない上に、後円部と前方部の間には無理な増築による亀裂が発生しているのが分かる。
https://r.nikkei.com/article/DGXNASDG0503K_V00C12A6CR8000 >>114
と思われる。
思いたいから。
常に想像ベース。
箸墓は4世紀の墓だ。 >>115
4世紀築造とか、それこそ説の域だ。
3世紀の古墳という説もあるんだよ。
状況的に見れば後者で正解だろ。 三世紀後半。
ヤマトトヒモモソ姫(日本書紀・古事記)=台与(魏志倭人伝)の墓
「モモソ」は本来は「クマソ(縄文人)」だろうね で、箸墓・マキムクは
近江盆地から甲賀ー伊賀ー名張を通って奈良盆地に抜けた所にあるわけだけど
なぜ滋賀から奈良に首都機能が移されたかというと
そこが大阪=狗奴国(葦原中津国)との接点だから >>116
箸墓古墳のすぐ近くにホケノ山古墳がある。
そちらの方が古いが既に石棺がある。
つまり箸墓も古墳時代の墓ってこと。 *卑弥呼の墓について
「魏志倭人伝」の記述には「径百余歩」と合わせて、
「棺あって槨なし、土を封じて冢を作る」とあります。
早い話「槨のない木棺の直葬」です で、その頃京都はというと、桂川が暴れて発展は望めない地だったのだが
忽然と秦氏が現れ、治水工事を行い、
京都盆地をナイスなニュータウンへと変貌させたのだという
この秦氏がどこから来たのかと言ったら、
狗奴国=葦原中津国をヤマト勢に譲って退いた、大国主御一行 なんでもかんでも卑弥呼にするな。
掘れば吉野ケ里や平塚川添程度の遺跡は
北部九州に多数あるのがわかっているから
確定できないのが現状。 >>38
どうやら葬式に使う為に造られたものらしい、故人の身内とかが身代わりに納めたモノじゃないかな、殉死の代わりやな、
だから形だけの未完成品とかも出て来ている 大急ぎで取り寄せたんだろな、 >>2
>毎日新聞が推してるのか・・・
持ち上げて落とすゴッドハンド商法再び >>123
吉野ヶ里遺跡なんて全部墓だぞ、墓の上で生活するはずがないだろ、
当時のn棺のコストからしたら支配者層の墓地だったんだろうな、
ばけて出てこない様に堀とか逆に付けられているし、 まだ九州説唱えてるんか福岡土人はw
奈良で邪馬台国の証拠となる出土品がこれでもかと出てるのにまだ四の五の言ってるんか?
もう引くに引けなくなってるんやろなw >>14
その柄悪い国にインフラ整備してもらい人並みの生活できるよう支援してもらったチョンの立場がないからやめたれw
未だに犬食ってる野蛮人やが マジでチョンが必死に九州説唱える理由がしりたい
日本人の大半は畿内説提唱してるんやがな https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E6%B0%8F
阿曇氏(あずみうじ、安曇氏)は、「阿曇(安曇)」を氏の名とする氏族。
古代日本を代表する海人族、海人部として知られる有力氏族で、
発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。
古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、
後に最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から離れて全国に移住した。 >>128
奈良からは出てこないんだよ。
出てきては困るものが出てきたり。
畿内説は崩壊寸前ってとこ。 >>131
このスレでは畿内説言ってる奴もチョンなんだが
スレ荒らしやってんだよゴキどもが 何が言いたいかというと吉野ヶ里遺跡ってのは阿曇氏の遺跡
で、お手数だけど>>72を読んで欲しいのだけど
紀元前473年、呉は滅亡し、呉人は日本列島に亡命することとなる
その後
紀元前334年、越もまた滅亡し、越人も呉に続いて日本に渡来した
これが阿曇氏の起源 朝倉って地名は713年に元明天皇が諸国郡郷名著好字令という好字二字令という
勅令を発したので当て字で付けた地名だからな
元々は 麻?(←氏の下に一)良マテラという地名 親魏倭王の印綬が見つかるまで、もしくは部下が貰った銀印が見つかるまで
どこが邪馬台国か、なんて確定は出来なさそう >>139
>親魏倭王の印
そんなもんねーわ
船で日本に来れたのはせいぜい漢まで >>68
なんでもかんでも「渡来人が作った!」って意味不明だよな。
同時代よりも前に、近江の巨大銅鐸を作ってる人がいるのにさ。
渡来した工人、呉の職人が作ったに違いない!とか、なんで考古学者は決めつけるんだろ。 >>143
そもそも呉・越(春秋時代、三国志とちゃうよ)から持ってきた銅剣やらを
もう戦争やめて呉越同舟しようぜってことで、溶かして置物にしたんだと思うよ >>140
倭人伝を見る限り、帯方郡からだが
魏の時も長政やらが色々倭に来てるぞ
倭人伝の最後の方には新しく女王になった台与が
部下を付けて長政を送った記述もある
ついでに朝貢してたりする とりあえずね
紀元前473年、春秋・呉 滅亡
紀元前334年、春秋・越 滅亡
この中国史と
日本史における弥生人の渡来が結びついてないのが頭おかし過ぎんのよ
史学関係者全員に総辞職迫ってもいいレベル 邪馬台国は大和だが、卑弥呼は愛知出身かもしれない
伊勢内宮神前祝詞
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。
撞、ツキ、槻
槻神社のある三河と関係あるのかな?
伊勢の向かい側にある三河は、向津のイメージに合う
纒向遺跡の外来系土器の主体も尾張三河 今度は天理教が湧いてきたか、、
平城京政権はチマチョゴリ着た物部氏の乗っ取りクーデターだった
その当時作られた伊勢神宮もニセ神宮だと
そこまでバレてると説明せなあかんか 三河地方について言えば、「渥美」半島の名が示す通り
阿曇氏のテリトリー
>>132
>>136
>>137 >>62
オリジナルの外国製なら一気にほぼ確定となる
近畿で見つかるのは後年コピーされた国内産だけだからオリジナルの場所はわかってない >>110 はっきりしているのは戦前までは壺形として紹介されて居たのにGHQが来てドンガラ漁って行った後からは下請け在日に依って逆様の鍵穴形として紹介される様になった事だけだよね(・∀・) 麻氐良布(まてらふ)神社は上座郡の式内社、下座郡の式内社は美奈宜神社、
俺の先祖の墓の近くだからもうすぐして墓参りした帰りに立ち寄るつもりだ。
筑前町には於保牟奈智神社(大神神社)もある。奈良の大神神社は
大己貴神社と新しい字体で書かれている。大己貴命とは大国主の事。
要するに九州から興った勢力が東征して奈良に首都を構えて日本を支配したんだよ。 >>147 GHQ下請けの朝鮮文科省と朝鮮日本歴史学会とは何が何でも朝鮮人が日本に文明を恵んだ事にでっち上げたいからね
中国人が日本列島と朝鮮半島とに同時に散り散りに辿り着いたとか絶対に認めたくない >>155 あっ謎のリンク貼っちゃったゴメン。真ん中スルーして 箸墓古墳は盗掘された際に石積であることが分かったんだよね。
つまり古墳時代4世紀の構造だって分かったわけ。
なのに宮内庁が弥生時代3世紀の墓だと認定しているのは何故? >>157
てか古墳時代の定義がバカでかい古墳作ってたって事なら
古墳時代の開始が3世紀末に遡るだけやん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています