【福岡】漢委奴国王金印、作ります 謎の製法探る研究者
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
当時の製法解明に向け試作中の金印=共同
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/09/08/20180908k0000e040243000p/9.jpg
約2000年前に中国から伝わり、福岡市東区の志賀島(しかのしま)で見つかったとされる国宝の金印「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」を実際に作ることで、謎に満ちた当時の製法を解き明かす試みを、地元の研究者らが進めている。10月中旬に同市で開催予定のシンポジウムで、最新の研究成果とともに報告する。
金印は江戸時代後期の1784年、志賀島で作業中の農民が見つけたとされる。印面は2.3センチ四方で、重さ約100グラム。中国の歴史書「後漢書」に記されている、紀元57年に後漢の光武帝が倭(日本)の奴国からの使者に授けた印と同じだとする説が有力だ。
製作に取り組むのは、鋳造や考古学の専門家ら約20人からなる「九州鋳金研究会」。印の鋳造技術に関する江戸時代の文献をもとに、約2000年前に存在したと考えられる素材を用いた工程を探った。
福岡市博物館が常設展示している実物は、保護の必要上、手に取ることができなかった。そのため、写真資料を提供してもらうなどして参考にしたという。
研究会はまず、松ヤニを混ぜたろうで金印の原型を作製。この表面を砂や粘土で固めた後、ろうを熱して液体にして取り除き、鋳型を作る。これに、木炭の火で溶かした金を流し込んだ。
印面の作り方は、ろうの原型で文字を彫って鋳型として作ってしまう方法と、最後に金印に直接彫る方法の2通りがある。この点も、当時の中国でどちらの方法が主流だったかをうかがわせる史料は見つからない。研究会は両方を試したが、鋳型にする方法は字がゆがみやすいため、実物も直接彫る方法で作られたと推定した。
研究会会長を務める宮田洋平・福岡教育大教授(金属工芸)は「存在は誰でも知っているけれど、謎が多いのが金印。われわれの取り組みが、古代の技術を知る手掛かりになればいい」と語る。(共同)
毎日新聞 2018年9月8日 10時30分(最終更新 9月8日 10時33分)
https://mainichi.jp/articles/20180908/k00/00e/040/240000c?inb=ra >>1
これって清朝の時代に上海あたりで作られた模造品だからなぁ 周辺国に、同様の金印残っていないのか??
それがみつかりゃ、信ぴょう性も増す。 これをキンインじゃなくてキンジルシと読むのは昔の酒飲みかと >>1
金印の起源は60000億年前の韓国の英雄キム・インであることは歴史的事実ニダ 去年 京都の国宝展で見たけれど
思った以上にちっちゃいのよね−
一番ちっちゃい国宝よ
それ故 オーパーツ扱いで偽物扱いされていた時期があるのよね 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイとして異例のベストセールスを続けた名著を
手軽に読みやすく。短編×100話なので気軽に読めます。
法窓夜話私家版
https://www.amazon.co.jp/dp/B07G389LT1/
続・法窓夜話私家版
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V/
高校を卒業した学生の語学能力が、これほど貧弱で物の役に
立たないのは何故なのか。抜群の語学力を誇り、東大文学
部長までつとめた筆者が、外国にいる若者が外国語を習得する
困難さを正面から取り上げ、正則(期待されるような)
語学教育の重要性を指摘する、英語教育のための基本書。
外山正一『英語教授法』 https://www.amazon.co.jp/dp/B07FB48MRF/
hhw >>7
支那の歴史家から全否定されてるからな。
東夷のさらに先に住む蛮族に金印を渡すことはない。
蛮族は木印でも有り難がるし、銅印でさえもったいない。 原料が高くつく以外に何の見どころもない研究だな
錫でやってろよ 金印の話になると偽物ってことにしたいバカチョンが必ず湧くなw >>7
見付かってるし本物かどうか疑ってるまともな研究者なんていない >>5
>>8
模造品ってことは本物を真似たのね?
本物があったことになる
しかも上海あたりの人だ見ることができるとか
言ってることが矛盾してるよ アベガー (⌒⌒)
ファビョ━ l|l l|l ━ン !!
∧_∧
<;l|l`田´>
/ つ ノ
人⌒lノ
し(_フ 『日本書紀』神功皇后紀には、自注として『魏志』東夷伝の卑弥呼・台与の記述が引用されている。 今のトンキン政府には本物の金員が欲しい生き物も多かろう
研究じゃなしに正式にお願いして作ってもらったらどうだw 他国に送られた印とデザインが似てるので 本物だろう
拾った百姓と届けられた役人が金印のデザインを知ってるわけが無いし >>28
帰れ 朝鮮人 死ね 絶滅しろ 日本に来るな 書き込むな 死ね 帰れ >>28
古事記じゃねーよ 馬鹿朝鮮人 死ね 帰れ 絶滅しろ 書き込むな 死ね 帰れ 江戸時代説があるけど、出てきた本物の金印に
見映えよくしようと当時の技術で手を加えた可能性ってのもあると思うのよね。 毎日歴史を捏造しては 日本人を恨むことしか能の無い朝鮮人が 日本で働きたいとか
ふざけんな
祖国から出てくるな 死ね >>32
漢代の一寸四方サイズだからな
もちろん漢の時代の一寸がどれだけだったかなんて江戸時代の日本に分かるわけもなく、印は本物なんだが 卑弥呼なんて居なかったぽいな
どう考えても邪馬台国は日本じゃないだろ 今で言うと、
トランプ「日本はアメリカの同盟国だ」
シンゾー「わーいわーいうれしいよー」
って感じ 倭国金印 琉球銀印 朝鮮銅印
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。
倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。 どうしても本物なのか疑ってしまう原因はやっぱり見つかり方だよなあ 中国のフェイクを密輸入した黒田の学者が更に職人に加工させたもの
加工の証拠はラクダをヘビに彫り直しているので明らかだな 滅ぼされたどこかの国だよなぁ。
倭国自体がどこかの国だった? >>48
周辺とは思うけどね
あの場所ってのだけはない >>47
珍しくないわ 平安京なんか今田んぼの中だぞ >>52
志賀島だよ
行った事ある?
平安京とは全然違う 当時漢では紙を作っていたそうだから印があるのはいいとして
奴国王はハンコもらってなにに押してたんだ?
紙も一緒にもらって、公文書作ってペタペタ押していたのか >>18
金印は天皇家が中国に臣従してた証だから、否定してるのはネトウヨの方じゃないですかね 受験で日本史でこの辺だけめちゃくちゃ詳しくやり過ぎて近現代史間に合わねえパターン 邪馬台国があったのは北部九州で決まりらしい
関西の人間がイチャモンつけてるけど >>59
天皇の上の人だよね卑弥呼
あのくらいからのだいぶあとの豪族出身って説だからね 2000年前にしては、精巧過ぎる。
紀元前に作られた金印は、イモハンレベル。 >>60
近代史やりたがらないからちょうど良いんじゃね?
やりたい先生は大体地雷 福岡は日本最長の歴史を持つ都市だからな
2000年に渡り栄え続けた日本唯一の都市
京都の1200年なんてまだまだ浅いし東京の400年なんて雑魚すぎて笑えてくる
日本人にとって福岡はルーツであり心のふるさとなんだよな
そう思わない奴は違う民族の子孫なんだろな >>58
奴国王が使うのに貰ったのでなく、中国が属国として扱うために渡したんだよ
現代でも中国から印を貰うって意味を理解していないと恥を書く >>66
でも関東は蝦夷あるし
京都は日本の都だし
邪馬台国は当時の日本の前の前の前くらいの国だし 古事記が作られた飛鳥時代。
他の書物はなぜか焼失。
で、都合よく三種の神器だけが残った。 >>66
そりゃ朝鮮人の子孫とかより他の民族のほうがいいわ >>58
黄金で作られた権威の象徴だから使用目的は必要ない 古事記成立は712年だから、奈良になったばかりの頃か 金や銅が売られてるよね
それと日経平均の一月の山、
バフェットの会社の現金比率といい
なんか嫌な感じがする… 当時黒田藩では慣例に逆らう2つ目の藩校を強引に開校
多くの重役の反対を押し切って開校したために教授は激しく実績不足を批判されていた
そこへ志賀島の場所不明の畠または海岸から氏名不詳の百姓が庄屋を通して金印を掘り当てたとの通報あり
黒田藩はとくに詮議することもなく庄屋と百姓を帰宅させ、それをくだんの藩校の主宰に鑑定させる
すると主宰は瞬時に奴国王の印鑑と判断
これをまとめた論文を九州はじめとする全国の漢学者、国学者に送付して
主宰は一気に知名度を全国区に上げて本居宣長もこれを評価するほどになった
要するにこれでトクをしたのは藩校開設をゴリ押しした藩の重役と藩校の主宰者なのである
その後なぜか国宝に値するこの金印は門外不出となり明治に至るも黒田藩関係者の金庫にしまわれていたそうである 倭を委と略すのは用例でも意味上でも問題ない
から漢倭奴国で間違いない
ただ倭奴国は倭にある奴国という意味ではなく
倭国を侮蔑的に表現したもの
要は倭国と同じ >>58
間違いなく倭奴国王からの文書だと分かるように
奏上文とかに封泥する為のものです。 >>4
勿論偽物
福岡に九大を誘致する為に造ったんだから 金印が本物である証拠は金の成分だな
贋作を作るとしても江戸時代だから手に入る材料は当時流通していた小判しかない
金印の成分は純金に近く小判とは全然違う
純度の高い金なんて江戸時代には簡単に手に入らない。 なんでも鑑定団見てると、江戸時代のトンキンには既に贋作市場があったと言わざるをえない。 倭国は朝鮮に領土を持ち交流してたから有名なだけで日本列島には他の国が無数にあったからね >>4
佐渡金山の黄金で朱子学の奴らが作ってゴッドハンドした説濃厚 当時は漢の一寸のサイズが不明だが、漢委奴国王印は大体合致する
漢委奴国王印のつまみは蛇だが、当時知られてた漢の制度にある印綬のつまみは駱駝や亀で、蛇は無い
金細工は厳しく管理されてて、藩ぐるみでも捏造は難しい
当時の小判と成分が違う(小判は金が85%くらいだが、金印は95%以上)。純度を上げる設備は普通無い
漢委奴国王印綬のつまみ部に付いてる円紋は、現代で発掘された中国の同時期の印綬にも見られ、偶然にしては出来すぎ
これらをクリアしないと江戸時代に作ったというのは難しいだろな 仮に偽物だとして何の為に純度の高い金を使う必要があるのか
江戸時代に金の純度とか計測不可能なのに。 >>4
中国でも同じようなのが見つかって本物説が有力になったはず これ、卑弥呼の金印と誤解している奴多すぎ。
卑弥呼のは親魏倭王ですから。 >>94
贋作の視点で言うと、騙せたら金の何倍もの価格がつくのだからケチる必要がない。 >>95
金印が見つかった当時は似た印は未発見で金印が最も早い発見ですから
本物であることは確定してますね。 >>97
金の純度なんて簡単には分からいですから
しかも不純物も漢代の金製品と同じ
贋作は不可能でしょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています