新井白石から見たキリスト教。


>>「凡其天地人物の始より、天堂地獄の説に至るまで、皆これ仏氏の
説によりて、其説をつくれる
所なれば、これ又ことごとく
論弁するに及ぶべからず」

 白石は仏教の教えを
使ってもキリスト教の説は作れるわけで、とるに足らないという見解を示しています。

「其天戒を破りしもの、罪大にして自ら贖(あながう)ふべからず、デウスがこれを
あはれむがために、自ら誓ひて、三千年の後に、エイズス(イエズス)と生まれ、それに代わりて、其罪を
贖へりといふ説のごとき、いかむぞ、嬰児の語に似たる」

 アダムとイブが天戒を破った罪を三千年もあとに
ゼウスがイエス・キリスト
という人間になってこの世に生まれて、罪をあながうことに
なったという話しなど赤ん坊の片言のようなものだ、と切り捨てています。

 このほか白石はノアの方舟の話で洪水によって人類のほとんどを
溺死させたゼウスを、全能の神であり「大公の父無上の君」
が皆を善人に改良せず、キリスト教の教えに従わせることをせずに絶滅させるとは何事だ、と述べています。

 白石は結局のところ「其教主の像につかへ、灌頂(かんじょう)・受戒・戒律・符呪・念珠等の事共有之候次第、一々仏家と相同じく候」
とキリスト教は仏教と同じ一宗教であろう、とします。そして「謀略の一事ゆめゆめあるまじき事」
とキリスト教には謀略の意図はなく、シドッティの来日にも侵略の意図はなく、ローマの使者として結論付け、その命を助けました。