3世紀前半に列島の相当部分の人が集まる大遺跡があって、
そこで始められた墳墓祭祀が短時日のうちに列島の相当部分に広まった(受け入れられた)

それと同時に、その大遺跡を含む地域の様式の土器が、全国でも共通に使われるようになる

この状況を客観的に見れば、その大遺跡こそが3世紀前半の倭国の政祭の中心であり、
そこに倭王がいたと考えるのが妥当

これだけのことだよ、畿内説が主張していることは

そして、3世紀前半から中期に日本列島から魏に遣使した王がいた、となれば、
この大遺跡にいた倭王がその王だろうと考えるのが当然