【静岡市】家康「幻の城」駿府城、発掘したら秀吉の城現る 権力の浮き沈み物語る
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10/16(火) 14:32配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181016-00000044-asahi-soci
https://amd.c.yimg.jp/amd/20181016-00000044-asahi-000-3-view.jpg
新たに見つかった天守台石垣。豊臣秀吉の城に特徴的な自然石の「野面積み」という(静岡市提供)
徳川家康(1542〜1616)が築いた駿府城(静岡市葵区)に、豊臣秀吉(1536〜98)が配下に築かせた城跡が見つかったと、発掘調査を進めていた静岡市が16日、発表した。約330点の金箔(きんぱく)瓦や野面積みの天守台の石垣から、豊臣期の城の特徴に間違いないという。
市によると、6〜7月、現在の駿府城趾(じょうし)の天守台付近から、金箔(きんぱく)で装飾された大量の瓦が出土。さらに8月ごろには、天守台の南東角に重なるようにして、家康の駿府城とは異なる形状の石垣(南北約37メートル×東西約33メートル)が見つかった。石垣は自然石を積み上げた野面積みの技術を用いており、金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しているという。
駿府城は、1585〜88年に家康が築城。90年の関東移封で家康が江戸に移った後、豊臣方の武将中村一氏(なかむらかずうじ)が入城した。秀吉の死去後、関ケ原の合戦を経て、再び家康が駿府城に入り、1607年から大改修を行ったとされる。戦国時代は城を攻め取った後、我流の城に建て替えるのが一般的だったが、中村一氏が建てた駿府城については詳細が明らかでなく、「幻の城」とされていた。 ぬっぺふほふまたはぬっぺっぽうは、『画図百鬼夜行』や『百怪図巻』などの江戸時代の妖怪絵巻にある妖怪。
顔と体の皺の区別のつかない、一頭身の肉の塊のような姿で描かれている。
類話
文化時代の随筆『一宵話』に、ぬっぺふほふに似たものが現れた話がある[3]。
1609年(慶長14年)、駿府城の中庭に、肉塊のような者が現れた。形は小児のようで、手はあるが指はなく、肉人とでもいうべきものだった。
警戒の厳しい城内に入り込む者は妖怪の類であろうと思われたが、捕まえようにもすばやく動いて捕まえられない。
当時の駿府城に住んでいた徳川家康が、その者を外へ追い出すよう命じたため、家来たちは捕獲をあきらめて城から山のほうへと追い出した。
後にこの話を聞いた薬学に詳しい者は、それは中国の古書にある「封(ほう)」というもので、白澤図にも記載があり、この肉を食べれば多力を得る仙薬になったと口惜しがったという[8]。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2b/Suushi_Nuppeppo.jpg >>1
今の大阪城が家康の城という現状より
よほどましだろ 中村一氏って関ケ原の合戦時は病気で息子が出陣したひと
だっけか。違ったかな。 >>7
今の大阪城は市民の募金で作られた
皆の大阪城じゃあ 中村一氏ね。地味武将の代表かなw 一豊が派手に見えるw >>9
徳川の城の設計
徳川の城の場所
太閤殿下の城とは似ても似つかないシロモノ
建ってる場所も違う 秀吉は光秀を謀反人とし、
家康は秀吉を愚か者とし、
明治政府は徳川を朝敵とした。
歴史は勝者が作るもの。
誰もが知ってるが、結局、捏造歴史を信じてしまう。 >>19
よく分かっているじゃないか?笑
でも、捏造とは違うけどね。
勝った者が負けた者を徹底的に悪役にするだけの話。
戦わない奴は無条件で負けた奴になるけど。真顔 >>14
こんな汚いとこで生まれ育って食べられるんだから哀しくもなるだろ >>20
あれ、レーザー銃に変えてからあっという間に決着付いた回が有ったよね?笑
水鉄砲の時は滅多に勝てなかったはずなのに。
始まった瞬間たけしの車からボンっ!って火花上がって終わったの笑えた。真顔 駿府公園にあった児童会館の入り口脇に、駿府城復元模型が飾ってあったなぁ。
つか、今は駿府城公園に改名されて櫓の復元なんかやってるけど、自分にとっては
練兵場跡って印象が残ってるな。 >>2
駿河は今川の後に家康が支配下に置いたが、後北条家が滅んだ後に家康は関東に移封された。
その駿河を家康の後に入ったのが中村一氏。一氏がその頃に、駿府城を築城。
関ヶ原で中村家は東軍に味方し、米子に移動。駿府には徳川直轄として家康が隠居。
新たに隠居の城として、一氏のとは別個に駿府城を築城したとされてきた。
その元の一氏時代の遺構が出たという話。 最近になって気づいたんだけど、駿府城が建ってる場所って
賤機山と常葉大のある方の山麓通して清水山へ抜ける龍脈を
流し組む地に当たるのね。
浅間神社の池が神泉苑の役を成しているのかなぁ? 豊臣の石垣崩してるだろ
大阪城と違ってじっくり作ったんじゃね >>23
違うね
「パパ結婚したい人ができたの」
だよ 今年の調査で東海道側の城塞情報めっちゃ更新されていくな じゃあ大阪城と江戸城のハーフアンドハーフの城を再建したらいいんじゃない?
どうせ設計図や外観図はもう消失喪失してるんだろ? 駿府城の歴史
元は今川氏の居館
→今川氏真放逐後に武田氏の駿河支配拠点に
→武田氏滅亡後に徳川家康が入って近世城郭に改築
→家康の関東移封後に豊臣家臣の中村一氏が入城(今回見つかった遺構はこの時代?)
→江戸幕府開府後に家康が隠居先として再入城して大改築し、現在の姿に
今川氏時代の方形居館が本丸と現存しない旧内堀の元になっていて、その外に堀と外郭を作っていくことで現在の形になったんだろうな >>9
それは天守だけな
堀や石垣は近代以降の手は入ってない >>1
徳川史観の闇がまたひとつ明らかになったわけだ。 >>8
大河ドラマでロンブー淳がやってたはずだからその人でしょう >>13
山内一豊なんてとんでもない屑武将代表だろ
長い事織田、秀吉に使えたのに
関ヶ原であっさり豊臣捨てて家康についたろ
こいつが裏切り者として叩かれるべき武将の一人だわ 人は記憶型と思考型に大別できる
岡崎城→浜松城→駿府城→江戸城
隠居するまでに家康は何度も居城を動かしてる
それぞれに意味があり優れた戦略眼だ
特に江戸を居城と決めた戦略眼が凄い
家康か或るいは麾下にすげーーー奴がいたんだろうな >>41
城ってもともとそういうもの(´・ω・`) スルガジンの心の支え家康伝説崩壊w
静岡駅の真ん前のビルにでかでかと三つ葉葵紋を掲示して家康公の愛した街静岡とかやるぐらい家康ラブな連中だし >>53
ドラマで良い人に描かれがちな
雌の依怙地で世界を狂わせた
大政所こそ最悪の存在なんだけどねw もう少し掘ったら氏真の蹴鞠とか出て来るかもしれんから頑張れ >>53
とっちも豊臣家累代の家臣ってわけでもなし
それをいうなら福島正則だろw
尾張城明け渡しも関ヶ原でもノリノリ
西軍について下手に三成が勝ったら、自分の将来はないから仕方ないけど 一豊は父兄を信長に攻め殺されているし
その後仕えた主君の豊臣秀次も切腹させられているし
織田豊臣に恩はあっても複雑な立場だろ >>57
大政所「ワシが何したゆうだ」
北政所「本当に。子ども産んで人質に行っただけですよ。」 >>61
豊臣秀頼がマジサルの子かと
信じられなかったのだろ
加藤清正は信じていたようだけどな >>54 の続き
今でこそ日本橋、東京駅、皇居がある場所が関東の中心だと誰もが知ってるが戦国時代までそうではなかったんだ
家康が江戸こそ関東の中心だと見極めたのが江戸・東京の始まりなわけさ
源頼朝は鎌倉に幕府を開いた
関東を制圧した後北条家は小田原から動かなかった
神奈川だな
それに元々の関東の中心は群馬だし
誰もが関東の中心が江戸とは思ってなかったのさ >>53
おまえ関ケ原合戦が判ってないニワカだな
合戦時に東軍徳川家康は豊臣の家老で
東軍にも西軍にも
誰ひとり豊臣を捨てた武将なんて居ない >>68 の続き
何で歴代の統治者が江戸を関東の中心から外してきたのか?
それには理由がある
利根川だ
つまり家康は利根川の大工事とセットで江戸を居城と定めたのさ 信長公記なんか読むと、三英傑で結果的に合戦で一番人を殺してないのが家康だと思われる。秀吉は朝鮮征伐で結構殺してるかもしれないが、やっぱ信長の殺し方はけた違い。権力の推移も単純にそういう残虐性に比例してるんだと思われる。 >>53
豊臣捨てて家康に・・・元豊臣の勝ち組武将全員だろ、アホw
一豊の雑魚は大嫌いだけどな 中村築城の土台をどかすと、いよいよ今川館が出土か? バジリスク絆打ってても出てこないもんな
まさに幻の城 >>71
平和ボケの時代のアホじゃあるまいし、当時の武将が
誰一人これが徳川への政権交代の布石だとわかってない武将なんていねーだろ
福島正則は自分にそうじゃないと言い聞かせてた
あるいは黒田長政にそう丸め込まれてたかもしれんけど >>73 の続き
関ヶ原の戦い
家康は三成の挙兵を読んでたぞ
或いは誘ったんだな
なぜなら三成が引き込んだ大名の多くは西国大名
始めは距離があるから西国大名の動員には時間が掛かるからな〜と思ってたんだ
だが、おかしな事に気づいた
黒田長政
藤堂高虎
寺沢広高
こいつら西国大名じゃん
何で三成挙兵時に家康の下にいたんだ?
家康は三成の挙兵を読んで確実に味方になる西国大名を早めに動かしていたんだな 太田牛一の信長の青年期から最後の本能寺の変までのすべて記録して後世に残そうという
執念と、明らかにフロイス文書と対比されるとわかっていながら、キリスト教について一切書いていない
その宗教性を考えると、まあ信長も秀吉も家康も完全にイエズス会とフランシスコ会と英蘭の新教国の
世界戦略の中で教皇に操られた存在というのがよくわかる。 >>80
黒田長政はたんなる間抜けな二代目のボンボン
オヤジは長引かせるために息子を東軍にいれた
もちろん、オヤジがどさくさ紛れに九州全部取るためw
藤堂は家康ラブ >>80 の続き
次の天下人は家康だろうな〜と多くの者が予測してたのは確かだろう
だが必ずしもその予測が当たるとは限らないとも思ってたはず
なんせ戦国乱世だからな
黒田の親父も九州で頑張ってたし、石田方に組する者も少なからずいた
関ヶ原はあくまでも豊臣の内輪揉め
徳川は豊臣に反旗を翻していない
そこを尽かれたのが福島らだろうな
>>82
黒田親子がどこまで通じていたか・・・・
なんせ親父の方は私兵を掻き集めた戦だからな〜 日本の城って
有名な拠点以外は、
みんな小さいよね。
会津若松の天守閣とか、
ただの展望台だから
そこらのワンルームより狭いw
やっぱり城って、本丸だけじゃなく
城内の道や庭園、堀
城下町、町民をもってして
初めて城なんだなあ。 家康が城Aをつくって、そのあとに秀吉がそれを壊して城Bをつくって、
またまたそのあとに家康が城Cをつくって、
城Cが今の駿府嬢っと。 江戸の街造りの際、豊臣の大坂を徹底的に参考にしたり、武田方の優秀な敵将を取り込んだり、
家康は敵であろうと良い物は抵抗なく取り入れる人だったんだよな 今川の駿府城とは、また違うのか?場所、規模なんかは…w 中村さんをはじめ、東海道衆は対家康としての機能を全然なしてないな >>89
そもそも家康は新しいことなんて、ナニもしてないからなw
全部、秀吉のパクリ >>71
徳川が豊臣を滅ぼさないなんて信じてたのは福島正則くらいだろw >>27
中村はじめ氏
って普通のサラリーマンみたいな名前だな これなんら驚くことはないだろ?
家康も秀吉の家臣だったのだから。 発掘現場の見学や発掘体験もやってる。
大御所家康の居城だけあって天守台は江戸城の1.5倍で日本最大。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています