【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★3
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卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181014/20181014-OYTNI50010-L.jpg
◇纒向フォーラム
東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志)
市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。
俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html
★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539642549/ >>633
今の基準で考えても意味はないな
大都会東京が関西になんか支配されるわけがないとか言ったら頭おかしい
昔は九州は大陸からの最先端の文物がやってくる地の利があった >>829
URLが違う
>>834
意味不明すぎる
岡村編年に文句があるなら自分で根拠を出せといっただけだろが 古墳なんかの保存も、ある程度の広域的な政治的権威の確立が必要だと思うな。
連合国家の女王に、大王をしのぐ権威が果たしてあったかどうか。 >>846
唐ならず〜と後の時代。
三国志の時代だぜ。
諸葛亮孔明、曹操孟徳、孫権とか知っている? >>621
もうそれで答えが出そうなんだが
畿内説信者が邪魔をする ギリシャが東ローマ帝国を名乗ったみたいな捻れだろ、これさ
それをそのままアスペ解釈してギリシャの起源はローマとか言うようなもんだろ 皇族も認めてる日ユ同祖論がヒントだと思うんだよな。
ユダヤ人が朝廷の祖、神道の祖、日本の祖って話。
ローマやギリシャの帝国を築いたほどの文明、その基礎になった数学。
これが花開いたのはどこか。
言うまでもなく、建築だろう。
スカイツリーの発想の元でもあるし、土木もだが、水道技術。
九州のどこにそんな遺跡があるよ。 >>837
それは中国史の合間の話
中国の混乱で歴史書が順番に作られなくて宋書まで間があるというだけ
日本が消えてなくなってると勘違いしてる人多いけどw
中国側の記録は魏、晋、宗、斉、梁、隋と台与の後の王が続けて使節を送っていると書いてる
そもそも卑弥呼の後なら完全に古墳時代だからね
そこまで行ってしまえばもう畿内中心の歴史が展開して細かい部分はともかくとしてその勢力が継続してるのは周知のことだからね >>848
前方後円墳だったらそれこそ事細かに形状を書くんじゃないかね
サイズよりも形が変わってるんだから
形状について触れていないというのが、前方後円墳じゃない根拠になると思う >>851
砂糖が採れる
宮崎に行くとサトウキビ畑が目立つが
いつ頃から栽培していたのだろう >>852
コピーしてブラウザのアドレス欄に貼りつければ見れるよ
制作年代の件を確認してね
それから岡村編年でこの26面をどのような根拠で分類しているかあなたが出せば終わるんだよ
墓誌以上に根拠のある材料があるってことでしょ
>>72八草の矛盾を突いてるんだから
まああなたでは無理だってことはわかったよ >>850
だから国号も日本に変えたんだよ
天武天皇は『私は新しい国を作った』と宣言して大友皇子への弔問の使節を送り返したりしてるからね
とはいっても昔の事を全否定したんじゃない
あくまでも「刷新」した
昔の伝統を維持しつつ新体制の構築を急いでたんだよ
その辺が白村江の大敗で国家的な危機にあった日本の立場が見えて面白いところだね 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。 >>847
方角を誤認するということは使者は大和まで行っていないし
卑弥呼の墓も見たことないってことかな >>852
上のはたどれなかったわ
グーグルで「漢鏡編年」で検索して
「後漢鏡の編年 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ」ってのを読んで 邪馬台国が見つからない本当の理由
25年以上前に台湾出身の学者が魏志倭人伝を完全に解読していた
https://kazunohi.exblog.jp/18921676/ 卑弥呼の時代、ヤマトは近畿にはなかっただろうね、それが神武東征伝承だよ >>859
というか魏の使者は邪馬台国に行ってないから、卑弥呼の墓を
自分で見たわけではないし、大きさを計ってもいないだろ。 縄文人の血が濃いのは沖縄と薩摩だけどさ
沖縄のが中華化して薩摩と対立してた時期あるわけじゃん
最終的には薩摩が沖縄を支配してたけど
文化的には薩摩が沖縄のモノを自分達の名産にしてる
焼酎とか黒豚とか薩摩芋とかさ
これが古代の北九州でも薩摩から見て逆ベクトルであっただけじゃね?
邪馬台国と狗奴国でさ >>859
確かにその辺は難しいところだね
とは言っても高句麗の積石墓もピラミッド状の特異な形状をしてるけどそこには触れてないからね
記載については基準が不明なところがあるね
でも卑弥呼の死後の250〜260年ごろに登場する特筆される墳墓となると前方後円墳以外には考えにくいかな >>866
呉の背後に倭があると考えていたようですからね・・・
方角は誤認していたのは確か 沖縄一つ取っても文化圏としては日本語で多元王朝じゃんかよ
同じように天孫神話があった上でさ
古代なら尚更だろ 卑弥呼候補の中でも箸墓の百襲姫は
共立女王死ぬ→巨大な墓作る→殉死者も増大→
貴人死ぬ→繰り返す→続けるの無理→埴輪が身代わり
とか
凄い巫女が死ぬ→守り神にしよう→
皇女が祭る→相応しい神殿作る
みたいな後に繋がる流れも見えていい感じだ >>872
縄文は東北やアイヌも、強く残してるよ。
だから、弥生文化の朝廷の夷敵って事で征夷大将軍が征伐に出たのが坂上田村麻呂だし。 >>862
Cドライブになってると指摘したんだがwww
文句つけてる方が根拠出すのが筋だろが
なにを言ってるんだ?
そもそも中国出土の鏡を岡村氏がどのように判断したかをおれが知るわけないだろ >>872
え?
焼酎とか米や麦でも作るけど?
黒豚は六白豚といって欧米から入てきているはず
サツマイモは元々唐芋だな >>880
すまんねー上に検索ワード書いたからそれで見て
知らないことの議論で相手の論拠にケチをつけたのはあなただよ
だからそれに変わるものを出すのが筋、当たり前
もうあなたには無理ってのはわかったよ 距離と方角どっちが間違えやすいかというと、やっぱり方角だと思うんですが。 >>875
会稽東治の東は帯方郡より南に万二千余里の距離だそうですよ >>879
だから多元王朝で何の問題ないし
沖縄にしたってアイヌにしたって交易はしてた
だから畿内の土器が出たからなんだって言うんだよと
沖縄からは本州からの鰹節から昆布まであったけど
それで沖縄は本州に支配されてたとかなるのか? >>850
だから、別ものだけど、関連性あるかもしれないとも言える。記紀とダブル部分もあるからね。どういう過程で強力な中央集権になっていくのが、興味なんだ。 北部九州にシュマイかシェマイという町名残ってるとこない?
邪馬台は中国語でシェマイらしいから >>881
沖縄を中継して文化として入ったという意味
原理的な由来を言ってるわけではない 張氏が言っている・・・「日本の学者は、『魏志倭人伝』を
読めないのが問題なのでは無く、読めないということを
知らないことが問題なのだ・・・」っと。
お恥ずかしい限りですわ日本のお偉い先生方 >>885
いくつかの、色んな支配者が日本列島に居たんだろなってのは、当たり前だと思うよ。
統一王朝は、明治の時代だからな。
それまで、江戸時代ですら統一して無かったんだから。
俺たち、現代人は古代から統一した国家があるんだろうと考えるから、邪馬台国論争が起きるけど、
どこが統一してたなんて事は、古代にあるわけねえんだわ。 >>882
ただのイチャモンになってきたな
言ってることが支離滅裂
安本がインチキ論法で岡村編年に文句つけただけのこと
終了 >>887
そりゃ関連はあるよ
政体としては別物で連続性はあまりないな
遠く海の向こうのマケドニアの国名問題と同じだな >>886
岡山の桃太郎伝承を忘れんでくれ、桃から生まれた男子が鬼を退治する
これは鬼道と深い関係のある伝承だ ところでこの板は邪馬台国関連スレがよく立つが、ここで論争したいがために
関連ニュース見つけてスレ建てしてんの? >>883
太陽は東からしか昇りませんよ?星は?
二十日も船に乗ってるんでしょ? >>875
魏が呉の政治・経済の動向を探っていれば、
呉が裏で倭と接触を維持していることぐらいわかる。
そりゃそうだ。
南西諸島経由で交易ルートあるんだから。 >>891
使者が実際に行ったことのある末盧国までが約一万里ですので
残り二千余里の場所ですね >>854
ちょっと何言ってるのかよくわかんない
奈良の唐古・鍵遺跡が唐の時代だとでも思ってるのか? >>876
琉球も統一まで幾つかの国だったんだよ。琉球の場合、三山から統一までしか知らないよ。オモロソウシも面白いね。 >>885
土器ってのは基本的に自分で作って使うものだからね
土器の変化は「現代人の生活がアメリカっぽくなった』とは全然意味が違う
作成から使用法まで全部変わる
生活の様式を根本から変えることを意味する
畿内式と九州の土器はそれこそ全然違うからね
他地域の様式に一方的に変わっていく事はただの交易なんてレベルを超えた動きを読み取ることができると思う
そしてこの土器の動きは常に中央の変化に連動する
単に便利な土器が入ってきたんじゃない
X式から庄内、布留式と新しい物が現れるとそれがまた地方で導入される
一体化しているような様相を呈しているのがわかる
更に言うなら土器の分布域は祭祀の分布とも合致していて弥生時代後期まではかなり排他的なものだった
これが土器から祭祀まで全部外来の物に代わるという事は、生活から権力基盤まで全部変質してることを意味する
この時期のX式から始まる土器の拡散はそんな適当な現象じゃないから重視されるんだよ >>897
春分と秋分は東から登るけど、夏冬は東からずれますよ。 まず宮内庁が古墳の発掘を認めるべき。
もし遺骨が出てきたら、DNA鑑定までやってもいいと思う。 >>893
イチャモンでもなんでもない
ただあなたが墓誌による判定にケチをつけたのに肝心のそれ以外のあるべき根拠を出さないだけ
いや知らないだけだからもっとたちがわるい
それから岡本編年でも制作年代を漢鏡編年に使うなんて出てこない
そもそも制作年代ががわかれば苦労しないって話だわな
嘘知識言うのやめようね 九州倭国は半島を支配していたんだろ
それが邪馬台国でええやん
奈良政権は半島倭国の不満分子が作ったんだろ
なんでそんな国を邪馬台国にしたがるんだ >>888
福岡の志免(しめ)はどうよ。元々はしめんだったのかも知れない ちなみに畿内形土器の拡散地域においては祭祀遺跡で畿内形の供献土器が使用されるようになる
在地の人がわざわざ畿内形の土器を作って祭祀をしてる様子も出てくる
これは祭祀の方式までも畿内式に代わっていることを意味している
古代の祭祀はそのまま権力者の権力基盤の確認作業でもある
これが外来の物にとってかわられてるという事は、権力基盤の根本的な変化が現れたという事
そして、この延長線上に古墳が出現する
ただの交易や生活様式という範囲を超えた政治的、権力的な背景をその後ろに見ることができるというわけ 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。 何か朝鮮陶工が日本に来てるから
日本は朝鮮化してる理論か? >>906
不満て言うより、中央集権過程で戦わず吸収した方が、良いと判断しただけかもしれない。内外的にも正当な後継者のアピールにもなる。 張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。
2・原文を絶対に修正しないこと。
3・国々の位置が陸上にあること。
すばらしい やっぱ書かれてる文は書いたお国の学者さんでないとな >>907
水行10日もかからないような気がするよ
張氏は言語を訳しただけだから未完成なグーグル翻訳の状態
そこからさらに意味を汲んで日本人が解読した方が良いと思い >>909
ちょうど下で書いた>>910の祭祀の変化という形でも在地文化の塗り替えが起こっている
その地域の個性を急激に変質させて、常に「中央」から流れてくる動きに従属するような図式が生まれている
この時期だとまだまだ弱いけど、定型化した古墳が出たころになるとかなり明確になる
その前段階としてこの時期の土器の変容は重要なものとして評価できるね >>898
自分の認識では、魏は公孫氏殺した後、倭が朝貢してきたから
喜んでたよね。
魏にとって呉対策で帯方郡から倭までのルート確保は必然だった。
けど狗奴国は呉のルートを持ってた。
当時の呉は航海術すごいしね。
ちなみに熊本から呉の神獣鏡が出てる。 >>911
学界が全て正しいわけでもない。
タブー扱いもあるからね。
なんせ、今までの歴史や権威がひっくり返る事には、慎重になる。 張氏は高千穂とか日向とか知ってるの?
水行10日陸行一月なら、佐世保から鹿児島の阿久根よりも宮崎の方がしっくり来る 沖縄も天孫神話から祭祀や日本語圏だけど
ぜんぜん中央政治の埒外だったよ?
そもそも半島南部も倭の範囲だと言うけど
多元王朝だよな?
九州も近畿も同じように並立してても何も問題ないわな >>915
神獣鏡の銘文についても気持ちよくメッタギリしてるね
ぐぅの音も出ないわw >>902
基本は流行の流れだよ
土器は庶民の生活基盤だ
仮に征服されたとしても、作成する土器は変わらんだろう
政治的云々よりも影響があるのは交流の主要地域。
ここから本格的な流行がはじまる
土器の変化は庶民内の流行だからね
政治的に変わるとしたら、やはり支配者の墓の様相の変化は重要だろうね
ここも思想的な流行も考えられるので、慎重にならんといかんが ちなみに自分は元香椎民だけど志免って神功皇后がおしめを替えたから
志免って名前がついたって郷土史で習うよw
宇美で応神天皇を産んだから宇美になったとか、神功皇后の足跡として
地名の上塗りをしていったかもね。 >>920
俺の予想と合うな。高千穂伝説とか?
霧島だから噴火多いから出土品が出にくいのが欠点。 >>922
沖縄みたいな遠隔地や言語まで違う外国は比べてもしょうがないよ
地理的限界は古代なら尚更大きいからね
当然古代王朝にそこまで強力な統制力はないから各地の半自立的な王のような存在がいたことは当然だよ
日本だと「造」というカバネを与えられた人たちとかね
ただそれらも中央政権の大小さまざまな影響下で活動しているに過ぎない
時代を追うごとにその在地権力は削られて縮小消滅していく
邪馬台国はその初現として大きな注目点になってるね >>924
流行という一言で片づけられない動きなんだよ
くどいようだけど生活から、権力者の基盤である祭祀まで中央からの動きに従うようになってるんだからね
それまではかなり排他性の高い障壁があったことからこの動きはかなり特異だとわかる
各地の独立性がどんどん薄められていく過程の上にある現象
実際、九州も関東も出雲も東海も急激に個性を失い中央からの動きに従い在地の個性を失っていく
むしろ過小評価は危険だと思う >>928
沖縄は言語も同じだし外国でもない
むしろ縄文系で原日本人じゃないか? >>910
その年代はいつ頃の話?
例えば、具体的な遺跡等はどこ? 造の事を書いたけどこの造も最初は強力な地方王的な存在だけど、時代を追うごとに中央からの干渉が強くなって弱体化していく
そしてただの地方官から下級の名目だけの存在変わる
そういう段階を踏んで地方が大きな組織に組み込まれていき次第に手足をもがれて弱体化させられる
この統合と中央集権化の現象の最も最初の動き
後の大和朝廷の誕生の部分になっていると思う
注目に値する部分だと思うよ 旅をするのって、冬の寒い時期じゃなくって、夏のほうがしやすいと思うんです。
そして夏は日の出は東からでなく、北東が日の出になりますよね?
もし日の出の方向=東だという認識なら、九州から近畿までは南に進んでるつもりでも東の方角へ進んでいくわけですが・・・
それに対し、何回太陽が登って日が沈んだか。
それってあんまり誤認しなさそうなんですが・・・
実際、10世紀を過ぎたような古地図でも日本を南北に伸びる列島と誤認しちゃってますし・・・ 仏教が入ってからじゃないの?
中央化はさ
土器は半島南部にもあるけど何の影響もないじゃん 日本地図中心で考えるから近畿だ九州だってなるけど
三国時代の地図中心で考えたら、魏が絶対に陸伝いに
倭のルートを確保したいのがわかるかも。
邪馬台国VS狗奴国っていうか魏VS呉みたいな。
そうすると、あぁ魏志倭人伝って三国志なんだなって気がしない? >>936
何か島国だと思って放置してたら
いつの間にか鉄利権が大規模にあると知って魏、呉の両者とも本気を出した感じだな >>929
弥生時代は人口が増えてったんで、単に畿内の余剰人口が
新しい集落を作りながら西日本に浸透していっただけかも。 >>937
だからそう言ってるじゃんw
魏書 第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条でしょ? >>791
倭の人口推移
縄文後期 16万人
縄文晩期期 7万人
↓
紀元600年 539万人
縄文晩期は寒冷化による減少
500万人に増えるには途中、150万人ほどの流入民があっただろうと推察される >>929
その祭祀土器とは具体的に何の事?かがわからない。
共通の祭祀って何?
それは何世紀の話?
墓の様相等の話は、卑弥呼当時の3世紀前半はまだまだその段階ではないと思うが
初期の古墳が各地、バラバラな規格で作られはじめはするけど
そして、徐々に広がるが、4世紀に入る布留1の時でさえ、まだ墓の様相は様々 物部が大和物産を操業して鉄器を分けて貰ってただけじゃね?
そんで畿内ではナガスネヒコに天孫からの贈り物ぞよ
とか言って下賜してわけよ
へへ〜とナガスネヒコ 移動しやすい夏に旅した場合、日の出は北東だが、日の出=東という認識なら南に移動してるつもりでも実際は東に移動してることになる。
一方、日の出日没の回数はそう大きく間違えようがない。
やっぱり、水行10日は当時確立されてた瀬戸内海ルートの九州〜大和ことを記したとするのが自然では? 当時は鉄なんかより丹の方が遥かに貴重だぞ。
ヤマトにはされがあるから権力が集中したくらいいい加減理解しような。 >>947
それはそれで良いよ。丹も貴重だからね。 https://44051510.at.webry.info/201101/article_12.html
これを見ると、張明澄とやらはとても頭の良いアンポンタンだな、
という感想しか出てこない。
かなり論理的なんだけど、かなり視野が狭くて、
その論理だと「どこにも当てはまらない」という結論にしかならないだろ、
って思われるものにも、メチャクチャ強引に当てはめようとして、
結果、アホな結論になる。 志免町歴史資料室見てきたが卑弥呼の年代と遺跡が合致しなかった
それより近くの宇美八幡が神宮皇后が応神天皇を産んだ場所に驚いた 倭人伝で鉄について記述されてるのはたった一ヶ所、鉄鏃が骨の鏃と一緒に出てくるだけなんだぞw
邪馬台国とは何の関係もない。
しかも卑弥呼は民を鬼道で支配してたとある。
丹は呪術、神仙思想でも必需品だろ。
ましてや鏡とくれば水銀朱とセットだ。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。