【静岡】函南に伊豆最大規模古墳 「ヤマト王権」との関わり示す 筑波大調査
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学生らが発掘調査に取り組んだ「瓢箪山古墳」=9月中旬ごろ、函南町平井(滝沢准教授提供)
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「瓢箪山古墳」の墳丘復元図(暫定案)(滝沢准教授提供)
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静岡県内を中心に古墳の発掘調査に取り組む筑波大の滝沢誠准教授(55)と研究室の学生らがこのほど、函南町平井に伊豆半島最大とみられる前方後円墳の存在を確認した。古墳時代前期(3、4世紀)に造られたと考えられ、滝沢准教授は「当時の伊豆地域の状況を知る大きな手がかり」と話す。
調査は2016年から3年間行われ、東京大や静岡大の学生らも参加した。測量、発掘の作業で墳丘の規模や正確な形状を調べた。推定全長は87メートルで、県東部最大の浅間古墳(富士市、推定90メートル)に迫る規模という。
地元住民によると、平井地区には「瓢箪(ひょうたん)山古墳」と呼ばれる遺跡があることが古くから伝えられてきたが、これまで長らく実態は分かっていなかった。数年前に実施された県のジオパーク関連の測量で実在することが判明し、滝沢准教授らが基礎調査に乗り出した。
滝沢准教授によると、これまで伊豆半島では3、4世紀ごろの古墳は発見されておらず、独自の政治勢力はないというのが定説だった。約10年前に「向山16号墳」(三島市)が見つかったことで定説は見直され、今回の実態解明は伊豆半島に有力な支配者がいたことを改めて裏付けた。
瓢箪山古墳の特徴は西側の墳丘を大きく見せる造り。西側は現在の熱函道路に面していることから、4世紀ごろから伊豆半島を横断するルートが存在し、当時支配を拡大していた「ヤマト王権」がこのルートを重視して現地の勢力と結びつき、規模を拡大させていった結果、大型の古墳が築かれたと考えられるという。
発見場所は私有地。調査は9月20日でいったん終了したが、今後も継続していく方針。
静岡新聞 2018/10/23 08:15
http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/556526.html >>4
俺函南出身だけど修学旅行行くと必ず函館の学校と間違えられたわ 伊豆縦貫道の下位かな。
地元民位しか知らんだろうけど、函南にも温泉は出る。 だいじょぶか
丹那トンネルで埋めた労務者じゃなくて? >>15
宝永火口とかまだない時代だから
今より美しかったのでは かんなみって難読だけれど
箱根=函根の南で函南だから
意味がわかればなるほどってなる 大和朝廷をヤマト王権と片仮名にするなら
邪馬台国もヤマト国って書けよ
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glr ヤマトは筑紫だよ
隋書には倭王タリシヒコのいる都が「邪靡堆」で近くに火を吹く「阿蘇山」があるとちゃんと書いてある
隋書によるとタリシヒコは官位十二階を制定をしたり遣隋使の「日出ずる国云々」の手紙で隋の皇帝を怒らせたりたりしたそうだよ 古墳なら面白いけど
まだ石棺も出土品も発見されてないのね >>21
それ聖徳太子じゃん
そういや中国に聖徳太子の記録はないのかな?
日本ではあれだけ偉大な伝説があるのに 高尾山古墳があるから、古くからそれなりの勢力があっただろう。
しかし、高尾山古墳は、どうするのかねえ。
道路をどうするのかきまってないのかな。 石棺やその他諸々が出なきゃ、古墳に似たただの天然地形だからね
古墳時代前期(3、4世紀)なんて言ってるけど根拠については一言もない
夢が広がりすぎなんじゃね
まぁ楽しいけどさ >>23
ないよ
かけらもない
だから今は「そもそもいなかった説」が主流なのさ 歴博報56
>鏡(銘文なし、遺存度・面径不明、出土年不明、所蔵・保管者不明)、伴出、管玉+鉄鏃
>岡崎敬『日本における古鏡発見地名表』東海地方(1978)、歴博報56(1994)。<全国遺跡地図番号>15-422
伊豆半島の前期古墳と東日本太平洋岸域の拠点形成に関する基礎的研究
>測量調査を実施し、その成果にもとづいて墳丘の復元を行った結果、同古墳は墳丘長約87mの前方後円墳である可能性が高いと判断された。
>また、その墳丘形態が示す特徴から、同古墳の築造年代は古墳時代前期後半と推定された。なお、後円部頂の中心部には樹木が密生しているため、
>今回の地中レーダー探査では、埋葬施設に関する十分なデータを得ることはできなかった.
う〜ん、、、 伊豆は不思議の地なんだよな。
古代から流刑の地だし、修善寺の山奥に船を祭った古社がある。 函南市のすぐ隣の熱海(アタミ)は福岡の志賀島を本拠地とする海人族・安曇(アズミ)が地名の由来と言われている
http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
海人たちは既に縄文時代から沖縄から北海道まで交易していたことが分かっており、
この優れた航海術をもった海人たちが、本拠地の北部九州から東進して勢力を広げた痕跡が地名分布に残っている
地図で見ると、本拠地の志賀島から日本海ルートは出雲を経て近江、さらに岐阜、愛知と東海へまるで畿内を迂回するかのように進出している
瀬戸内海ルートは兵庫を経て淡路島まで進出し、この地図には載ってないが難波にも安曇江がある
神武東征伝説で神武天皇が近畿で最初に上陸したとされるのもこの難波でる
こうして考えると、神武天皇が難波で一度敗れたのちに熊野川を遡って奈良を平定した、という記紀の記述は大筋では正しいのだろうな
隋書に「倭国の王姓は阿毎氏」とあるが、隋の使者に対して海人(アマ)の出自だと名乗ったのだろう
記紀に記された天皇の九州出自は事実で、畿内は被征服側、ということだ
畿内は当初安曇族の進出を拒んだため、安曇族はこれを迂回して包囲するように勢力圏を拡大してゆき、あるときついに畿内勢も
安曇を受け入れざるを得なくなっていった、と考えるべき
それがいつ頃なのか、は畿内で鉄製品が増える時代と考えれば良いだろう
つまり4世紀以降ということになる 伊豆 シャボテンリゾート・ワニ園・秘宝館・伊東・熱海
こんなもんだな。 >>38
「葛城山」や「淡島」っていうのもありますぜ。 熱海から函南にはいる道路の景色が北海道チックでいつもおおお・・となる やっぱり北条一族が古くから支配してたんじゃ無いかな。 伊豆一の宮、三嶋大社の起源は瀬戸内海の大三島神社で、最初は伊豆大島→下田のあたり
→現在の三島市(勿論、起源は三嶋大社)と移転したらしい。 函南というと丹那みたいなところをイメージするけど、古墳があるのは三島の平野の隅にあたるところなんだな。
伊豆独自の勢力というより、沼津・三島あたりの珠琉河地域の豪族が領地の端っこの高台に墳墓を作った感じか? >>21
>隋書には倭王タリシヒコのいる都が「邪靡堆」で近くに火を吹く「阿蘇山」があるとちゃんと書いてある
都は邪靡堆で魏志にある邪馬台のことだと書いてあるのに続いて後漢の時の使者がどうとか倭国大乱に卑弥呼がどうとか
魏や南朝と通交があったとか隋の開皇20年に使者がきたとかその時に聞いた倭の風俗とかが長々と書かれた先に、ようやく
阿蘇山があると書いてあるだけだろ。
邪靡堆の近くに阿蘇山があるとは書いてない。 熱海 東伊豆の玄関
函南 中伊豆の玄関
沼津 西伊豆の玄関 伊豆は小田原北条の所領だった時期も長く、廃藩置県の際には静岡ではなく神奈川に
所属したかった。これ豆な。 台湾が、ジャップ離れ、ネオナチ離れを始めてるから、
ジャップが鉄道事故を起こして台湾を脅迫した。
これが台湾の脱線事故の真相。
死ね糞ジャップ
5 函南 スタイル
上記の単語をくっつけるとなぜか規制がかかる。 西伊豆にある石積みの栗原古墳は7、8世紀だもんな。火山活動が活発だった頃は寄り付かなかったかも。 スマンここ俺の町だわ
サッカー好きなら内田篤人の出身地と言えば分かるかな
しかしこんなのやってるの知らなかったわ
家のすぐ側には古墳時代くらいまで使われてたと思われる竪穴式住居群の遺跡があるが
今回の発見場所とは少し離れてるな >>63
竪穴じゃない横穴だったメンゴ
瓢箪山も歩いて行ける距離だ 3世紀は無い
4世紀、大和朝廷の臣下になった奴の墓 >>38
日本武尊東征と合致するね
二宮には吾妻神社もあるし
ちなみに埼玉の古墳出土の系図付きの
剣は「武」「大王」から雄略のもの
とする説がほとんどだけど
系図の内容はよっぽど日本武尊敬の
地下系図の方が近いし、日本の
中心が任那にあった可能性すらある。
時代の地政学を考えると
四世紀末に一度纏まった旧ヤマトは
崩壊し、旧大王家の子孫が「大王」
を名乗っていてもまったく
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