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 飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪府大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、その大きさや形容から古墳時代の大王クラスを葬った石棺とみられている。府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員が、巨石の特徴をもとに、さらに製作時期を絞り込み、被葬者に迫る説を打ち出した。仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子の弟の来目(くめ)皇子らが候補という。狭山池の巨石は、古墳から運び出した石棺を水路に転用したと考えられているが、古墳を特定する研究はほとんどないという。同館の特別展「王者のひつぎ」(11月25日まで)で紹介されている。(小畑三秋)

■改修工事で思わぬ発見

 狭山池は周囲約3・4キロで、川をせき止めたダム形式のため池としては国内最古。奈良時代の僧・行基(ぎょうき)や、東大寺再興で知られる鎌倉時代の僧・重源(ちょうげん)らが大規模に改修した。

 巨石は、大正時代末〜昭和初めと、昭和末〜平成初めに行われた堤防の改修工事で計20点以上見つかった。多くが長方形で、最大のものは長さ2・6メートル、幅1・3メートル、高さ約1メートル。内部がくり抜かれ、遺体を納める石棺の本体とみられる。水路にするため、石棺の前と後ろの壁面を削り取って「U字溝」の形にして利用。家の屋根の形をした石材もあり、5〜6世紀の古墳にみられる「家形石棺」とされている。

 重源の功績を記した鎌倉時代の文献には、「狭山池に石の樋を築いた」と記載。出土した巨石は、重源の時代に複数の古墳から掘り出されて水路に転用したとみられ、「狭山池石棺群」と呼ばれる。

 家形石棺は近畿の巨大古墳に多く「王者のひつぎ」と呼ばれる。西川さんは、狭山池では長さ2メートル以上の大型のものが半数以上あることに着目し、「大王クラスの古墳から掘り出された可能性が高い」と推測した。

 2メートル以上の家形石棺は、欽明天皇の墓ともいわれる巨大前方後円墳、丸山古墳(奈良県橿原市、全長318メートル)、金銅製の冠など豪華な副葬品が見つかった藤ノ木古墳(同県斑鳩町、直径50メートル)など天皇や皇子クラスの墓に多い。

■候補に聖徳太子の弟

 「博物館の見学者から、狭山池の石棺はどの古墳から運ばれてきたのか質問されることがあるが、研究がほとんどなく回答に困った」と西川さん。巨石は重さ1トン以上あり、遠方から運ぶのは困難とみて大王クラスの古墳が集中する百舌鳥(もず)・古市古墳群から候補を探した。

 石棺は、蓋石の形状から築造時期がある程度分かる。古いものは屋根上部の平坦面の幅が狭く、新しくなるにつれて広くなる傾向がある。

 大正〜昭和初めに見つかった石棺の蓋石(長さ2・2メートル、幅1・4メートル)は、屋根の平坦面が広いことから6世紀末〜7世紀初めと推定。狭山池から約5キロ北東にある陵墓の来目皇子墓(大阪府羽曳野市、一辺50メートル)は、市教委の調査で7世紀初めの築造とされ、603年に死去した来目皇子の墓の可能性が高く、狭山池出土の石棺と時期も合致するという。

 同古墳について江戸時代の文献では「石室はあるが石棺はない」と記され、西川さんは「狭山池近辺で7世紀初めの皇族クラスの古墳は来目皇子墓以外になく、ここから運び出されたのではないか」とする。

■国内最大級の石棺

 一方、昭和末〜平成初めに発掘され、狭山池石棺群で最も大きい2つの石材についても詳細に検討。いずれも長さ2・4〜2・6メートル、幅約1・3メートルで石棺本体部分とみられ、国内の石棺でも最大クラスになる。石の細かい材質や底部の加工した跡が共通しているとし、同じ古墳から運び出されたと判断した。

 そのうえで「巨大な石棺を2つも納めるには、相当大きな石室が必要」とし、約8キロ北にあり国内5番目の墳丘規模を誇る前方後円墳、河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市、335メートル)を候補に挙げる。

 この2つの石棺とほぼ同規模の石棺2つが実際の石室に置かれているのが、欽明天皇の墓ともいわれる奈良の丸山古墳だ。墳丘は河内大塚山古墳に次ぐ全国6番目の規模で、築造時期もほぼ同じ6世紀後半とされ、「狭山池の巨大な石棺を納めることができるのは、丸山古墳に匹敵する古墳。河内大塚山古墳以外に見当たらない」という。

 さらに、両古墳は密接な関係があったと指摘。日本書紀では、欽明天皇は死後、「古市」で葬送儀礼の一つ「もがり」が行われ、その後に飛鳥に葬られたと記述。「いったん河内大塚山古墳に埋葬されたが、丸山古墳に改葬されたのでは」と推測する。

(続きはソース)

産経新聞 2018.10.30 10:00
http://www.sankei.com/west/news/181030/wst1810300003-n1.html