「かわらけ」などが見つかった遺跡
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 戦国時代の武将、伊達政宗などで知られる伊達氏が13世紀中頃(鎌倉時代初期)に、現在の伊達市梁川町に拠点を置いた可能性が高いことが伊達市教委の調査で分かった。伊達氏は同市保原町から拠点を移した当時、梁川八幡宮を創建しており、創建が鎌倉時代と判明。創建時期を巡って平安時代後期から室町時代まで諸説あったが、今回の調査で長年にわたる"論争"に終止符が打たれそうだ。

 市教委は、創建時期の判明につながった梁川の堂庭(どうにわ)遺跡で発掘調査を行い、21日、報道陣に調査結果を公開した。伊達氏は拠点を移すたびに、その土地に八幡宮を築いて氏神としてまつっていた。梁川への移転は、梁川城跡の発掘調査などから鎌倉時代の可能性が高いと考えられていたが、裏付けられた格好だ。

 堂庭遺跡では、梁川八幡宮を囲っていた堀とみられる溝などから、武士の儀礼で使われていた食器「かわらけ」のかけら約3500個が出土。様式から鎌倉時代に使われていたという。

 伊達氏は、常陸国(茨城県)の武将中村入道念西が1189(文治5)年の奥州合戦で功績を上げ、源頼朝から伊達郡の領地を受けて伊達朝宗と名を改めたことで発祥したとされている。

 当初は、伊達市保原町に拠点を置き、その後、同市梁川町、桑折町、山形県米沢市、仙台市などに拠点を移していった。名高い伊達政宗は第17代に当たる。梁川に移転した当時の当主は3代義広か4代政依と考えられ、約300年拠点を置き、力を付けた後、桑折町に移ったとみられる。

 市教委によると、当時の梁川では、まちの北側に梁川八幡宮、南側に梁川城などが配置されており、このまちのつくりは米沢市にも見られ、伊達氏が梁川でのまちづくりを基に、米沢のまちの配置を検討した可能性もあるとしている。

 また現存する梁川八幡宮の建物が江戸時代に建てられたことも分かり、市教委は「伊達氏が拠点を移した後も、八幡宮が地域の人々の心の支えになり、維持されてきたと考えられる」としている。

■城跡の国指定、伊達市具申へ

 市は年度内に、梁川城跡の国史跡指定を具申する方針で、梁川城跡が指定されれば、梁川城跡に追加する形で堂庭遺跡の国史跡指定を目指す考えだ。市教委は25日午前10時30分から、現地説明会を開く。

福島民友 2018年11月22日 10時15分
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