【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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0001樽悶 ★
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2018/12/07(金) 21:31:05.93ID:CAP_USER9
奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg

 県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】

 石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。

 石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。

 続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。

 講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。

毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra

★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/
0115名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:15:25.48ID:hjkEcsbG0
>>102
こういう「〜を真っ直ぐ延ばすと〜にぶち当たるからゴニョゴニョ」って人は、そのころまともな地図があったって思って言ってるの???
0116名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:17:32.27ID:OTCDWIeT0
畿内は魏志にある東の別国。
いつになれば理解できるんだ。
記紀にある古代史は天智が改竄したもの。
漢の時代から外交で半島、大陸とコミュニケーションが取れた人材は九州にしかいないよ。
0118名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:24:50.38ID:wfrLgb7c0
>>99
彼ら海の民の中でも高い身分の者は、南海産のゴホウラ貝で作った貝輪を腕につけるのが縄文時代からの伝統だったが、
弥生時代中期以降、青銅でこれを模した有鉤銅釧がこれに取って代わる

https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm
>南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
>古墳時代前期前半で終焉に向かいます。

この有鉤銅釧の分布を見ると、>>78に似た分布を示し、尾張や越前、吉備、そして畿内の玄関先である大阪湾岸からも多く出ている
この地域に海人の高位者が地盤を持っていた証だろう
そして有鉤銅釧の鋳型は現在のところ北部九州、それも福岡平野から筑紫平野にかけての地域からしか出土がない
そこが本国で、各地に出張った有力者に有鉤銅釧を授けて送り出したのだと思われる

銅釧出土地
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png
0119名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:30:49.59ID:fKfQJ8t/0
どうせ古すぎて解らないんだろwww
堂々巡りになるのが解っていて研究してるんだろうwww

税金が勿体ない
0120名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:30:51.21ID:25ebbeC20
纏向遺跡からは北九州産の土器がほとんど出ない
北九州との交流がほとんどなかった事を示してるんじゃないの
伊都国などは北九州に比定されてるじゃん
帯方郡の使者を迎える大事な玄関口
北九州との交流がない時点で邪馬台国の可能性は低いと思う
0121名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:31:27.69ID:NAtYmIkC0
>>118
グローバル企業の本社と現地法人みたいなもんじゃないの?
0122名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:35:48.04ID:wfrLgb7c0
>>99
なお関東には九州とは別系統の海人がいたようで、帯状円環型銅釧(>>118の銅釧分布図の白丸印)は関東系の
オオツタノハ貝輪を用いた海人の縄張りと思われる
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg

ここに九州系の有鉤銅釧が相当数重なって分布しているので、九州の海人が関東の海人の縄張りに攻め込んだことが考えられるが、
実はこの東方の有鉤銅釧出土地をよく見ると、ヤマトタケルの東征伝承の地と多く重なっている
草薙剣で火難を逃れた焼津、海上で波浪に遭って后が入水した横須賀、その后を思って過ごしたという木更津、
白い鹿を討ったという足柄峠など、これらがいずれも九州系の有鉤銅釧の出土地になっている

つまり九州海人にとって畿内征服は最終目標ではなく、そのさらに東の地域を征服するための通過点だったのだろう
縄文時代に既に関東とも貝の交流があった彼らにとってはその視野は自然なものだと言える
東海以東への進出をも視野に入れていた彼らにとって、本拠地が九州のままでは遠すぎて指令を出すのに不都合だったため
本州西部では最後まで抵抗した畿内を陥落させたのを機に、そこに前線司令基地を作ったのがヤマト政権の起こりだと考える

しかし東西に広い日本を広範囲に支配するにはむしろ畿内のほうが地理的に好都合だったため、やがてそちらが中心となっていったのだろう
いっぽう旧都の九州北部は徐々に衰退していき、恐らく白村江の敗戦で決定的に放棄されたものと思われる
0123名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:44:54.28ID:8nA+O8dZ0
>>120
纒向はどうみても邪馬台国じゃないよね。
だからといってヤマト王権か?というとそれもどうかなと思う。
0124名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:48:03.09ID:0+FK9oQd0
>>8
何が大惨敗なんですか?
0125名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:49:31.32ID:0+FK9oQd0
>>79
九州にはもっとあるよ。よく勉強しような?
0126名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:51:01.51ID:wfrLgb7c0
>>121
その可能性は否定しない
陥落とかいう表現をしたけど、必ずしも武力によったとは限らないしね
縄文時代から海上交易で様々な遠方の物資を持ってきた彼らは尊敬もされていただろうし、混血もあったと思うので
案外あっさりと連合を組めた可能性もある

ただ、相手が従わない場合は武力による制圧もオプションの一つとしてはあったように思う
その場合彼らには下記の3つの利点があり、戦いを優位に進めることが出来ただろう
特に3は重要であったと思う

1.体型が変わるほど過酷な船漕ぎで鍛えられた腕力
2.半島から手に入れた鉄で作った優れた武器
3.長年の交易で手に入れた地理の知識

縄文時代からの交易で彼らは日本沿岸の何処にどんな勢力がいてどの程度の力を持っているかをおおよそ知っていただろう
それどころか、物々交換のために集落内部まで入れたとすれば、城柵や堀の配置、指導者の住む館の場所まで把握していたかもしれない
つまり、彼らがその気になれば船で前触れも無く現れ、防御の薄い場所から一気に大将の首を狙いに行けた、ということである
これは当時の争いにおいて決定的な優位性であったと思われる

おとなしく従うものとは手を組み、まつろわぬ者には恐怖の電撃戦を仕掛ける
これが海人が広範囲に勢力を伸ばすことが出来た原動力だったのではないか
0127名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:53:39.55ID:0+FK9oQd0
>>82
大体から滋賀県は志賀県だからな?九州北部の方が宗家なのは言うまでもない。
0128名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 06:54:49.56ID:0+FK9oQd0
>>93
勉強しような?
0130名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:00:39.96ID:ta/eIqYO0
238年公孫淵の反乱をおさめたその年に朝貢
266年西晋建国の同年に朝貢

ヤマトの中央にお伺いを立ててから使者を派遣してたら時間がかかるのに
対応が早い
纏向と伊都国の信頼関係みたいなものがあったんじゃないか

あと桜井市三輪山ふもとの大神神社は
福岡県旧三輪町の大己貴神社を模して作られて
周辺の地名も一致してるところが多い
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/fa/8bb155e98cf905ea32b65ac219bdcbb9.jpg
0131名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:00:42.19ID:3V1u7NqF0
>>129
出雲族もツングース系の説がある

喜べ
0132名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:00:46.02ID:0+FK9oQd0
>>98
三輪は筑前の朝倉(朝闇あさくら)に元宮がありますよ。おんがさまですね。おおみわは新しい読み方。古代はおんがと読んでいた。遠賀川も古代は大神川と書かれていた。
0133名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:02:19.73ID:33c8W2Oj0
>>120
ブラジリアのような政略的な新造首都とみなしても良いと思う。
首都建設負担は周辺国、特に開発地である東側が多いので、
伊勢、東海の負担が多かったとすれば、隣国の狗奴国にあっさり負けるのも納得できる。
北九州が外交の中枢、支配機構の先進である事は文献的に認めるが、考古学的には文化性と開発性(統治性)で劣ってなかった。
0134名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:05:03.06ID:n9Qi1GeK0
>>130
地名が似てるって、

古事記の国譲りのように、都市移転があったのでは

国津神→天津神
0135名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:05:34.92ID:GO/wrNDw0
九州説ってロマンあるよね でもロマンはロマンだから
それがあたかも史実だと主張しちゃダメです
0136名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:15:29.33ID:wfrLgb7c0
海人が縄文時代から既に全国と交易する力を持っていたということは、後漢の光武帝に朝貢して
漢委奴国王の金印を貰ったのも恐らくこの海人たちの国であったと思われる
>>114の通り、対馬海流に逆らって半島そして大陸まで行くのは容易ではないので、航海に長けた彼らでなければ難しかっただろう
海人の最大勢力・安曇氏の本拠地は福岡県志賀島であり、ここから金印が出土したのも当然といえる

たまに「何故金印が志賀島なんかに?」と言う人がいるが、それは弥生時代=稲作農耕というイメージが出来上がってしまっているせいだろう
確かに稲作の観点からのみ言えばあんな島には何の価値もないと言っていい
だが実際には当時日本の広範囲に力を持っていたのは海上交通を制していた海の民であり、その本拠地が志賀島であるという認識に立てば
金印が志賀島にあるのは至極当たり前であり、そう認識を改めるのが当時を理解するのに重要だと言えるだろう
0137名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:28:48.48ID:580FmLV80
>>122
ヤマトタケル伝承とも関連するのか、面白いな
0138名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:35:25.89ID:u0hrol+I0
>>111 記紀のファンタジーによると西暦紀元前だから卑弥呼と関係ないw
0139名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:46:14.90ID:oC7sHMJu0
>>110
辺鄙なド田舎が?
0140三河農士 ◆R2srkOAYfTmd
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2018/12/08(土) 07:50:16.79ID:EuVSWreW0
記紀によると纏向の辺りに都を築いたのは第十代祟神天皇第十ー代垂仁天皇第十二代景行天皇
この垂仁天皇の時代には都怒我阿羅斯人や天日矛といった渡来人の伝承がある。
このうち都怒我阿羅斯人の行程は道に迷って遠回りをしており、魏志倭人伝の行程にも似ている。
0141名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 07:53:24.99ID:u0hrol+I0
>>115
高い山に登って望遠鏡の脚の一本を北極星の方に向けて
夜、刻限を決めて双方から花火を打ち上げて方向を確認したんだよ。
花火の見えた方向が3地点で一直線になるまで繰り返せば
中間の地点を決定できる。
0142三河農士 ◆R2srkOAYfTmd
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2018/12/08(土) 08:00:04.19ID:EuVSWreW0
>>138
それは日本書紀な。
古事記は在位期間が日本書紀より長めだけど記載のないのも多いんだ。
記紀の年数表記はあてにならないというのは同意。
また雄略天皇以降は暦が正されたらしく誤差がなくなっている。
0143名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:12:02.57ID:opvWqClZ0
クロネコヤマトって何でクロネコヤマトって名前なのだろう
0144名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:14:56.05ID:JWHBigBa0
>>111
記紀の最初のほうは神話で、それは天皇(大王)やそれ以外の豪族の伝承を組み合わせて、
編纂当時の持統(元正)天皇から孫への継承を正当化する意図も含めて創作されたと思われる。

そのため神武東征も、邪馬台国系の豪族の伝承を元に作られたのかもしれない。
0146名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:17:44.92ID:iI50YNnB0
>>13
すでに書いてるけど
モロッコじゃなくてシエラレオネなら南東じゃん
重要なのはモロッコの位置じゃなくてワシントンD.Cから南東を指すという事

そういうの理解できないのかな?
どうせ揚げ足取りしかできない畿内説だし、しょうがないか
0147名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:17:48.02ID:u0hrol+I0
>>139
辺鄙なド田舎から「漢委奴國王」印wwwww
その頃から村おこし、町起こしして観光で儲けようとした黒田藩
0148名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:20:09.15ID:FvywOh8+0
>>130
一部だけじゃなくて全体に位置関係や配列まで似てるっていうのが面白いな
一族や身分ごとに住む位置が決まっていた感じかな
0149名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:20:56.52ID:iI50YNnB0
>>144
神話も、元々は何かしらの史実があっただろうから
東遷も国譲りも、
そのままではないかもしれないが似たような事があったんだろう
0150名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:23:31.23ID:FvywOh8+0
>>137
ヤマトタケルが女装してクマソタケルを討ったのは有名だし時代もすごく近い可能性があるね
0151名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:25:00.57ID:iI50YNnB0
>>53
東や南にしか進まないのに北上したことにするのは
自分ルールだよね

畿内説は自分ルールなのか
0152名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:26:57.14ID:25ebbeC20
>>147
ど田舎と馬鹿にするけど今の基準じゃなく弥生時代の基準で考えないと
志賀島からは弥生時代の遺跡が多数発見されていて弥生時代中期の銅剣の鋳型も見つかってる
0154名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:36:09.35ID:JWHBigBa0
そもそも記紀なんて天武天皇の時作り始めた(らしい)のに、天智天皇の逝去が曖昧なくらいなんだから、
神代の記述なんてあんまり信用できないよね。
0155名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:42:19.92ID:96aC0j9L0
どうせ
これも奈良判定でしょ
0156名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 08:46:50.70ID:SqzbVTdd0
雄略天皇は鉄剣からほぼ確定、
宋書等から履中まで推定可能だが、
記紀にはその代での朝鮮半島進出が書いてないな。
朝貢も安東大将軍とかも全く書いてない。
0159名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:00:38.86ID:vfPV8v/t0
>>60
じゃあ君の解釈で末廬国、伊都国、奴国、の位置関係はどうなるの?
説明が付かないから魏志倭人伝の記述はデタラメだとしか言えないじゃないかw
魏志倭人伝の記述を信用するなら魏使の上陸地点は呼子か名護屋浦だし
伊都国は糸島市の東南部、奴国は福岡市周辺、不弥国は那珂川町、春日市付近となるだろ。
0160名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:01:07.85ID:iI50YNnB0
>>92
よくわからん

>邪馬台が大乱に負けて、男の王を諦めることで「和議」が成った、
これは邪馬台国VS他の倭人国という構図なのか?
だとしたら男王をあきらめるとかそんなまどろっこしいことじゃなくて
邪馬台国を引きずりおろして別のどこかの国が代表になればいいんじゃないか?
もしかして、他国が邪馬台国の王を男から女に変えろと言ってる設定なのか?

>卑弥呼の死後、約束破って、男が王になったので、また戦争。
そういう話は成り立つかな?
0161名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:01:13.74ID:mZkHzKtn0
>>73
うむ
朝鮮人のデタラメな話を返されても、誰も支持してないんでな
反論不可とみなし朝鮮人の敗北だろう
ナラは朝鮮語ではない
ヤマト朝廷には朝鮮語は無いって事だ
0162名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:02:08.12ID:vZi8MAL50
つまらないことを調べてるんだな
0163名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:02:24.54ID:sFxk5Rwe0
邪馬台国の場所はハッキリしないが、魏で皇帝に会った使者は九州の人。そして邪馬台国の本当の名前は「やまと」。
皇帝に謁見の時にあまりに緊張しすぎたか長く待たされてイラついていたのかわからないが、「何処から来た」の問いに、つい方言が出てしまって「やまとタイ!」と。
しかも早口だったので「やまっタイ!」にしか聞こえなかった。
0165名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:03:58.33ID:iI50YNnB0
>>163
いや、
普通にヤマトでいいと思うよ

でも、後の畿内大和ではないだろう
というのが、九州説の主な見解
0166名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:13:12.34ID:OTCDWIeT0
纏向は吉備からの入植者が支配してたんだから
近畿なんて掘っても意味ねえだろ。
調べるなら吉備なのに頑なに纏向周辺掘ろうとしてるよね。
頭がおかしいとしか思えない
0167名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:15:08.14ID:iI50YNnB0
>>166
巻向を邪馬台国だ卑弥呼だと言い張ってこすり倒して
ボロボロの出涸らしになってから、

しれっと吉備を邪馬台国だ卑弥呼だ
と言い張る予定なんだろう
0168名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:19:25.73ID:vfPV8v/t0
>>154
天智、天武の時代も凄く怪しい内容なんだよな
この時期に大和朝廷が成立して歴史を全て書き換えたとしか考えられない。
0169名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:27:57.84ID:jFnQWs3F0
>>89
こういうフィクションを信じちゃうのが九州説信者なんだよな
0170名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:28:18.93ID:jorFyyxQ0
>>86,89
面白い!
実に読ませるね
0171名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 09:34:20.79ID:LkohFD3D0
纏向が邪馬台国とは関係ないことははっきりしてきた
大和朝廷に繋がってるのかというとそれも怪しそうだけど
この時代は変に中国に史料が残ってるから逆に難しいな
0172名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 09:42:19.87ID:y6R9DFVPO
古墳時代の終わりころに政情がめまぐるしく変化した痕跡があり、
古墳を作らない動きが逆に畿内から地方に広がってるよね。

前の王朝が前方後円墳つくりすぎて滅んで巨大古墳を作らない勢力が台頭したんだろうか。
そうなるとやっぱり渡来系か、二世三世かその子孫とか。
0173名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 09:43:24.12ID:SqzbVTdd0
日本書紀には雄略天皇の朝鮮半島進出が書いてあるな。
しかし、安東将軍や朝貢に関する記述が無い。
0174名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 09:48:57.38ID:LkohFD3D0
天皇陵と言われる古墳は現代に至るまで大事に管理してきてるので素直に朝廷のご先祖様と思っていいんじゃないの
少なくとも朝廷はそう思ってもしくはそう知らしめて今までやってきてる
大事にされてない古墳は盗掘とか破壊とかされてるからね
0175名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 09:50:54.75ID:oC7sHMJu0
纒向説の変人は今日は寝てる様だな
0176名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 09:51:21.75ID:CWaEmHQc0
チョンコ精神崩壊w
0178名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 09:52:42.34ID:HSdrjDrS0
正史を含めた文献上も考古学的にも皇室の祖先が列島の唯一の支配者じゃないとはっきりしてるのに
それこそ正史自体が該当する人物の不在を告白している状況でよく女王国とヤマトをつなげられるもんだわ
帝大に蔓延るカルト宗教の一つとしか言い様がない
0179名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 09:54:07.57ID:RR+Ga9NX0
>>89
ロマンあるね

古事記もファンタジーだが、国譲りは間違いなさそうだわ

近畿大神、三輪の祖は海人族と考えれば普通に北九州起源を考えるわな
0180名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:01:09.20ID:jEzauvbo0
まぁ
仮に卑弥呼がいたとして

その墓地と規模が適合するのが、纒向遺跡の箸墓古墳 以外 に ひとつも存在しないからねぇ

九州に300m級の 3世紀中期後期の 古墳 が 発見されるんなら 話 別だけどなwww

考えてみろよ

5世紀後半に
日本武尊(ヤマトタケル)が埋葬されたと言われる
軽里大塚古墳が全長約190mだぞw

3世紀中頃に
建造された最古にして
当時他に類を見ない巨大古墳。
かつ。
最初の巨大前方後円墳

全長278mの 纒向遺跡の『箸墓古墳』は、
当時どれだけの ”大物” が埋葬された事になるんだ?

他の古墳は全部
4世紀以降の産物。コレだけが異常に突出してんだよね

はっきり言って
この当時、実在した最大の 権力者は、生前名:”卑弥呼(日巫女)”
崩御後名(アマテラス)しか
存在しないんだよ
0181名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:03:09.78ID:96aC0j9L0
>>108
鳥羽伏見の戦いとかな
最新武装した新政府軍に
旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗北
結局は武器の優越で決まる
0182名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:04:34.56ID:oC7sHMJu0
三世紀の先進地帯で穀物、人口、武器、宝飾品が
溢れていた九州が倭人国であり女王国
東に別の国があるという正体不明の国が奈良以東
九州の戦乱や人口膨張から徐々に東に移民して
分国や提携国を作り倭人勢力を広げていった

その東端が纒向という四世紀の植民国家
何も出ないのは当然やね
0184名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:06:17.59ID:jEzauvbo0
まず 伊勢← ここが重要

アマテラスは伊勢

つまり
纒向遺跡のある桜井からみて、日が昇る最果ての地が・伊勢
日が沈む最果ての地が、出雲なんだよ

そして
卑弥呼 = 日巫女

であると考えれば
纒向遺跡のある桜井に存在する

日本最古にして、伊勢より格が高い

【大神神社】が存在する事は、諸説を圧倒するほどの見過せない根拠なんだよ
0185名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:08:41.16ID:HSdrjDrS0
>300m級の 3世紀中期後期の 古墳
こういう「考え」方をする奴って日本の一里塚とかをどう説明するんだかすげえ興味ある
0186名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:09:24.78ID:y6R9DFVPO
>>180
卑弥呼は三世紀中頃でなく初期。
魏史では卑弥呼の墓は径百歩、箸墓が300メートルなら一歩3メートルになってしまうよ。
0187名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:12:20.49ID:jEzauvbo0
卑弥呼と同時期の天皇が、10代目の崇神天皇。

邪馬台国と覇権を争っていた
狗奴(くな)国の男王が崇神天皇。

「狗奴国」(熊本説などが有力)

この狗奴国の男王を
『魏志倭人伝』では【卑彌弓呼(ひみここ)】と記している。

卑弥弓呼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%BC%93%E5%91%BC
卑彌弓呼(ひみここ、生没年不詳)は、
『魏志倭人伝』に記録される狗奴国の男王
3世紀の倭国(現在の日本)の人物である

崇神天皇陵(行燈山古墳) 【天理市】←※【重要(狗奴国の国王の墓が奈良の天理に実在)】
古墳は全長約242m
築造された年代は4世紀後半(古墳時代前期後半)
0188名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:17:16.36ID:kTbcAaEK0
なんで畿内って思ったんだろ
普通に読んだら畿内とか無関係なのわかるだろうに
畿内は、最初出雲・丹波、そこに吉備、さらに尾張や越が合流した別の国
立ち位置は関東と同じ
魏志倭人伝に倭種って書かれてる以外は登場しない。舞台の外です。
0190名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:19:53.82ID:oC7sHMJu0
無理やり卑弥呼の死亡時期に近づけようと炭素年代を無視してる詐欺師みたいなヤカラ、ソレが畿内説
もはや頭おかしい畿内説だ
そのうち学会の重鎮が死ねば綺麗に消滅するのじゃね
0191名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:21:21.15ID:SyvSI2JT0
土器の編年と年代が古くなってるのがな
庄内式も布留式も半世紀くらい古くなった
0192名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:24:15.30ID:u83iWQvr0
>>86
九州説が学問ではなく、エンタメコンテンツだという典型的な例だな
笑った
0193名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:27:45.86ID:kTbcAaEK0
畿内説は、どんなにがんばっても畿内に国がありました
以外の結論な無い
0194名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:28:12.67ID:qcXlAoRy0
干支を独断で西暦に当てはめてみる

西暦54年  神武天皇が東征開始(太歳甲寅)
西暦61年  神武天皇が橿原宮で即位(太歳辛酉)

西暦204年 10代崇神天皇即位(太歳甲申)
崇神天皇3年 磯城瑞籬宮に遷都 桜井市三輪山のふもと
崇神天皇7年 大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する
崇神天皇10年 倭迹迹日百襲姫命の占いが外れて死亡 箸墓に眠る
崇神天皇10年 四道将軍派遣
崇神天皇11年 四道将軍帰参

西暦212年  11代垂仁天皇即位(太歳壬辰)
垂仁天皇2年 纒向に遷都
垂仁天皇5年 皇后の兄が反乱 皇后とその兄焼死
垂仁天皇15年 新たな皇后を迎える
垂仁天皇25年 天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す
垂仁天皇28年 殉死の禁止
垂仁天皇32年 埴輪採用

西暦251年  12代景行天皇即位(太歳辛未)
景行天皇4年 美濃行幸 帰国 纒向日代宮に遷都
景行天皇12年 九州巡幸
景行天皇19年 帰国
景行天皇43年 日本武尊命病没
景行天皇53年 東国巡幸
景行天皇54年 帰国
景行天皇58年 大津滞在

いろいろおかしくなるのは気にしない
0195名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:28:41.47ID:HSdrjDrS0
>>188
確認できる最も早い「説」は南北朝時代の北畠親房「神皇正統記」らしい
博学なのが災いしたのか南朝の正当性の主張が斜め上に滑りすぎ
時代はずっと下がって江戸の国学者もそれを(当然科学的論証なしに)継承した
某帝大は若干の屁理屈を肉付けしただけで伝承してるだけ
0196名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:38:40.07ID:oC7sHMJu0
倭人国も畿内を知らない
畿内の大和朝廷も倭人国を知らない

当時別種で後に移民が作った分家だからそうなる
ブラジル日系四世が郷里の宮崎県を知らんのと同じやね
0197名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:39:44.29ID:g5xW5NNT0
卑弥呼はヒメミコ=姫巫女だろうから特に意味が無い名前だと思うが、
阿毎多利思北孤(アメタラシヒコ)って誰よ?
0198名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:51:27.11ID:kTbcAaEK0
>>197
記紀と無関係の誰かでしょうね。
対魏では名前が残っても、記紀では残らない誰か。
0199名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 10:58:22.16ID:wRUcWMahO
天武以前の人間って出処から生死などが全部、ボヤけてる(天武・天智を含む)

ここら辺の登場人物て唯一ハッキリしてるのって
筑紫の君の磐井とその身内だけ

なんとなくおかしいと思わないか
0200三河農士 ◆R2srkOAYfTmd
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2018/12/08(土) 11:04:40.91ID:EuVSWreW0
>>197
タラシヒメなら神功皇后のことなんだけどなあ。
タラシとつく人名はこの時代には多いから特定は難しいな。
0201名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:07:26.48ID:HSdrjDrS0
>>197
実のところヒミ「コ」の可能性はあまり高くない「コ」は別字をを当ててるんで
かつてはヒミカあるいは音韻上ピミカが有力とされていたんだが
>>200
「利」を「ラ」と読むのは無茶
0202名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:09:07.10ID:wRUcWMahO
一人の人間に二つ名と三つ名と授けて
さらに株みたいに分割しちゃうからなw
0204名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:11:04.42ID:6omVg6Os0
人間に二つ名三つ名を付ける古代日本で
国の名前に二つ名がないと何故言い切れるのか
0206名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:14:42.06ID:LYiqu9sa0
>>194
殉死を禁止して埴輪を埋めるようにした垂仁天皇。

記紀では埴輪については記述あるんだな。
0207名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:15:00.75ID:oC7sHMJu0
炭素年代を無視しても全然倭人国に接続しないなあ
無駄な執着は諦めたらどうや
もはや日本中から笑われる畿内説やで
0209名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:16:15.16ID:3V1u7NqF0
>>197
ググり寝、倭国王やん

有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭

阿蘇を領地にしてるんだから、倭国は九州
0210名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:19:41.81ID:vzZtydLi0
>>197
天皇には名前は無いはずだから
600年の 阿毎多利思北孤(アメタラシヒコ) は
和語の音で 天帝=天の垂らせし彦 を名乗ったってだけのことでしょ。

倭の五王時代に、中国名を名乗ったことを恥じて、記録を消してる?
これ以降、今上は無名、皇族内での幼名による別はあっても
事績を讃える死後の諱号以外は 宮の場所や呼称で区別する習慣になっている。
0211名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:21:18.11ID:HSdrjDrS0
>>209
道すがら見える(中華としては珍しい)活火山を特記しただけであって日出る処の天子の所在とは無関係キリ
というのが合理的に見えるかどうかが分かれ目
0212名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:22:14.56ID:oC7sHMJu0
東に別種の倭人ありがこの畿内だよ
倭人国から見ても別種だからもともと人種的ルーツも違うのやろ
卑弥呼と倭人伝の時代には別種だったが後に九州からの移民勢力が畿内に侵入して植民国家を作ったのが纒向
辺鄙な辺境だからロクに遺物も出てこない
これが真相じゃん
0213名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 11:24:29.56ID:HSdrjDrS0
>倭の五王時代に、中国名を名乗ったことを恥じて
委「奴」の字に船中でw急にw気づいて怒りのあまり海中に投げ捨てた、というのと同レベルに凄い
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