>>99
なお関東には九州とは別系統の海人がいたようで、帯状円環型銅釧(>>118の銅釧分布図の白丸印)は関東系の
オオツタノハ貝輪を用いた海人の縄張りと思われる
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg

ここに九州系の有鉤銅釧が相当数重なって分布しているので、九州の海人が関東の海人の縄張りに攻め込んだことが考えられるが、
実はこの東方の有鉤銅釧出土地をよく見ると、ヤマトタケルの東征伝承の地と多く重なっている
草薙剣で火難を逃れた焼津、海上で波浪に遭って后が入水した横須賀、その后を思って過ごしたという木更津、
白い鹿を討ったという足柄峠など、これらがいずれも九州系の有鉤銅釧の出土地になっている

つまり九州海人にとって畿内征服は最終目標ではなく、そのさらに東の地域を征服するための通過点だったのだろう
縄文時代に既に関東とも貝の交流があった彼らにとってはその視野は自然なものだと言える
東海以東への進出をも視野に入れていた彼らにとって、本拠地が九州のままでは遠すぎて指令を出すのに不都合だったため
本州西部では最後まで抵抗した畿内を陥落させたのを機に、そこに前線司令基地を作ったのがヤマト政権の起こりだと考える

しかし東西に広い日本を広範囲に支配するにはむしろ畿内のほうが地理的に好都合だったため、やがてそちらが中心となっていったのだろう
いっぽう旧都の九州北部は徐々に衰退していき、恐らく白村江の敗戦で決定的に放棄されたものと思われる