>>403
従った、とはちょっと違うと思うけどな。
初期のものは、連合政権に加わったみたいな。
ただ、初期の古墳はヤマト以外にはでっかいのは丹後にしかないけどな。

規格が統一されるというか、同一規格の縮小版が各地に現れるのは、佐紀墓山古墳らしい。
これは、垂仁の妃と言われる日葉酢媛命陵の伝わる。
狭穂彦の乱のあと丹後から呼び寄せた妃だ。
纏向に宮がある天皇は、崇神、垂仁、景行(途中から大津)
纏向遺跡は、2世紀末から4世紀初頭あたりで廃れる。
4世紀前半あたりで、古墳の規格が統一(つまりヤマトの技術者を派遣)し、それが
近畿だけでなくもっと広く普及する。
そのエリアでは、それなりに安定した嵌合が出来上がっていたのだろう。
上記の三代のころ(纏向後期)、ほぼ国内の統一が終わり、その後半島へ出ていく。
出ていくってのは語弊があるな。半島南部には倭人がいるから。