【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg
県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/ >>341
>でも南じゃない
結局、九州説の畿内説批判てこれ「だけ」なんだよな
だから、末盧国ー伊都国間の方角間違いを決して認められないw
九州説の人はその場にいる人が方角を間違えるはずがないと言うけれど、
それが大陸に伝わる過程は確実ではない
魏使は倭国滞在中も文字記録を残していただろうけれど、今のような
紙やノートを自由に使えた訳ではないし、おそらくは木簡、竹簡を使っただろう
そうであれば、方角を記した木簡一本がどこかで紛れてしまえば、
それでもう方角は分からなくなる
さらに魏志倭人伝を撰述した陳寿が、倭国を南国だと認識していたのは
「當在會稽、東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」という記述からも明らか
なので陳寿の認識では、倭国内の長距離移動は南向きとなるのが当然
なので北部九州から先の水行陸行は、陳寿にとって当然に南向きと書かれる蓋然性が高い >>456
だから、その頃から朝鮮半島に住んでるって話。 天皇の出身が九州というのは本当だと思うけどな
朝鮮なり中国出身だったらもっとそっちを主張するだろう
当時は大陸のほうが権威だったんだし
太伯の子孫を自称したのも一回だけで胡散臭いし伝承が残る範囲では九州だろうと思う >>459
前から中国人が住んでたってことね。了解
ついでだから書くけど、中国は新羅は秦韓だから中国の歴史だって主張してる >>457
雑賀が鉄砲作ってたって話あるの?
僕が昔読んだやつは、
紀伊国で鉄砲を作ったという記録はないとかいうもんだったはずだけど。
紀伊国は古代からそれなりに地下資源を掘ってたとは思うけど、
中世以後は太平洋側の各地で鉱業と物流を担ってたから、
鉄砲を大量に手配できたんじゃないかなと思ってるけど。 >>461
新羅は倭人の王だったんじゃないの?そんな話を聞いたことがあるけど。
韓(漢)人は一部でほとんどの国民も倭人だったはずなんじゃないかとも思ってるけどな。
要所を占めてたのは韓(漢)人だったんだろうけど。 >>460
薩摩半島の上加世田遺跡から、「久米」と墨書された土器が出ているよね。
東征軍の主力をつとめた、決死剽悍の戦闘集団だ。
>>46
鉄砲の話はしとらんがな。
真弓常忠「古代の鉄と神々」(学生社)によると、鉄の異称「サヒ」は
サブ、サビ、サムとも転訛し、雑賀もそのひとつらしい。 >>462
鉄砲を大量に作ってたのは雑賀でなくて根来だよ
本州作成一号も根来にいた堺の鍛冶師で作られたといわれる >>465
ごめん。
まあ、ちょっとした製鉄ぐらいはしてた可能性は十分考えられるだろうな。
熊野はひょっとすると製鉄技術も一応持ってた可能性もあるんじゃないかとも思ってるし。 >>467
根来が陣頭指揮を執ってただけで、作ったのは他国ってことでしょ。 日本には何の記録も証拠も残ってないのに
中国の文献に踊らされてぶっちゃけ馬鹿みたい >>469
違う。根来の鍛冶場で作られてる
種子島→根来→堺→国友
この順に伝わっていってる 本格的な製鉄はもうちょい後だね
あれは完全に大陸由来だから、タタラ製鉄用語はなかなか不思議 >>468
製鉄遺構(に限らず、水銀や青銅も含めて冶金一般の遺構)は、
集落や古墳なんかとは別の場所に作られるから、出にくいんだよね。
別の例を挙げると、磐井の乱でヤマト王権が手に入れた糟屋の屯倉
(今の福岡市東区から糟屋郡)には多々良川という川が流れて、
その支流の宇美川の上流には「炭焼」という地名まで残っているが、
肝心の遺構は見つかっていないのだ。
京都の妙心寺の日本最古(698年)の梵鐘は、おそらくここで鋳造された。 >>464
3つくらいの王統があって交代で王になってたみたいで、倭人系の王もいた
ただあの時代の半島は日本以上に謎。新羅の言語も不明
韓国が歴史に興味がないというかファンタジー前提というか
元の時代に住民の強制移動があって、別もんになってるしね とにかくモンゴルツングースのハプロタイプCはユダヤと同族だった時期がない
文化の創造や経済的優越によって成したものでなく騎馬戦力による文化の破壊と殺戮によってマウント取りした上での寄生であり
良くない良い人種でない
劣化する >>471
作ったのはせいぜい数本程度じゃないのかなと思うけど。
堺から鍛冶師が来てる時点で、地元の技術力は大したこと無さそうだし。 >>362
>魏志倭人伝の記述が現実と合うように解釈するのが詭弁?!
「現実と合うように」ww
「自説に合うように」だから嗤われてるのに
そもそも解釈したり解読したりする必要があるという発想が捏造体質
史書は判じ物でも暗号書でもないんだから、そのまま読まないとw
あと、畿内説批判が南≠東しかないからって、方角の間違いを認められないって言うのが
目的化してるのもおかしい >>476
根来で量産化されて、その後根来で製作されていったのわかってるよ
この鍛冶職人が後々堺に伝えてるんだけど
元々堺の人なのか後から堺の人になったかは分かってない
伝来銃を種子島から1丁譲渡してもらって根来に持ってきて量産化までしたんだし
たまたま、この鍛冶職人が一番腕がよかっただけだと思うよ >>473
紀伊山地をくまなく探しまくれば出て来るかもしれないかなと思ってるかな。
空海も修験道とか言いながら、そういった類のところで働いて、
中国語も学んだんじゃないかなとも推測してるし。 >>379
>現実に三国志だけでなく新羅本記とかでも使われてるからな。
それ三国史記だろ? 12世紀成立の
古代の部分は古い史書を適当に引用してでっち上げただけの代物だから、根拠にならないよ >>478
じゃあ、僕が昔読んだやつがガセだったか、その後に新発見があったかのどちらかか。
まあ、和歌山は秀吉にぺんぺん草も残らんほど焼きまくられたらしいから、
それ以前の記録はかなり希薄なんだろうな。 熊本から鉄のやじりが良く出るけど
http://inoues.net/honpen00.gif
剣とかはあまりでない
http://inoues.net/honpen02.gif
国力で北九州に劣っていた狗奴国は
接近戦はせず弓によるゲリラ戦法をやってたんじゃね >>479
鉄生産を律速するのは、鉄鉱石の算出量じゃなくて木炭の量なんだよね。
粗鉄を10トン作るために、1ヘクタールの山の木を燃やさにゃいかん。
その意味では、沖合に温かい黒潮が流れて雨量が豊富な紀伊半島は
まさに製鉄民にとっての約束の地なのだ。
だから、風の神(スサノオ)が木の神(イソタケル)を連れて、朝鮮半島からやってきたと。 >>89
そういや二見ヶ浦も九州の糸島んとこにあるのがオリジナルぽいな
春分の日と秋分の日に岩と岩の真ん中から太陽が上がる岩
イザナギとイザナミの岩らしい >>481
刀鍛冶と硝石を入手する貿易ルートがあれば鉄砲鍛冶は成り立つからね >>396
>魏志倭人伝に巻向の「マ」の字も無い
>奈良の「ナ」の字も無いから
大和の「ヤ」「マ」「ト」は魏志倭人伝に三文字ともあるだろ?
邪馬臺国ってはっきり書いてある
「東京都庁があるのは新宿だ、東京じゃない」っていうのは無意味だろ? >>483
僕はほとんど直に近い状態で秦の人間が来たと思ってるかな。 >>486
ヤマトは九州の地名でも古くからヤマトだけど?
なにがいいたいのかわからん >>483
まあ、そうなると物流を担ってたんじゃないかという推測の根拠が薄くなってしまうな。
今まで構築してきた歴史感にかなり影響するかもしれん。 >>482
熊本平野を勢力圏に抑えてたなら国力はほぼ互角とみていいと思うけどな。 >>439
>何が何でも倭人伝否定w
末盧国が、松浦川河口平野の唐津平野
伊都国が、旧怡土郡の三雲遺跡群
この間を東南陸行五百里で移動したというのが「正しい」と言う人は「おかしい」
以上 根来の津田の子孫は紀州藩に仕えてるし
明治でも初代和歌山県知事だし
資料は残ってるよ >>481
秀吉はああ見えて愛国と言うより愛日本人や愛日本文化だった
日本人キリシタンが外国人宣教師商人を介して日本人を奴隷として売っていたことに激怒し
宣教師やキリシタンの鼻を削いで宣教師に送り付けたうえで処刑するなどした
秀吉の世ならば阿倍自民などは全員打ち首だろう >>490
古代は鋳鉄だったんだろうけど、
中世あたりから鉱石等→粗鋼→鉄鋼の製鉄になってんたんだろうな。
鍛冶屋は粗鋼→鉄鋼担当といったところだろうか。 >>445
>帰りの話が何で必要なの?
「地理の記述」が行きと帰りで異なるのはおかしいだろう?
そんな表記方法を取る文明がどこにある? >>493
それ秀吉に焼きつくされた後じゃん。
まあ、高野山と熊野は無事だったって話だから、
全く記録が残ってないという話ではなさそうだけど。 秀吉は和歌山で大虐殺して焼き払ったが
神武天皇も和歌山で最大に荒ぶった殺戮劇をやっていたらしい
女酋長を何人かバラバラにしてそれぞれ遠く離れたところに棄てた
拾われて小さな祠や社となっているという >>494
でも、秀吉はバテレンにそそのかされて、和歌山を焼き尽くしたと信じられてるみたい。 >>492
末盧国が、松浦川河口平野の唐津平野
伊都国が、旧怡土郡の三雲遺跡群
この決めつけが間違ってるんだよ
自分の誤りを倭人伝の誤りにすり替えてる。 >>448
>なんで必ず国を横断しなけりゃいけないことになってるんだ?
横断でも縦断でもいいけれど、国境でその国に着いたと書かれていると言い張るなら
ある国の国内移動距離が、その国と次の国の間の距離という不合理になる
→移動方向
─┼─────A国──────┼──────B国─────┼─────C国──────┼
国境 国境 国境
ここで至A国 ここで至B国 ここで至C国
A国の国内移動距離が、B国へ至る距離になる
おかしいと思わないかい >>470
天孫族は、文字を持たない、つまり漢字を使う中国以外から渡来した人々だから仕方ない >>455
>もっとも自然なのが伊都国=吉野ケ里近辺。
しかし、佐賀伊都国説を採る人はほとんどいないよね? 雑賀か
畿内を取り巻くように賀が分布しているんだよね
何の名残りなんだろう
敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)
賀は牙じゃないかな?牙城の牙
旗印を掲げた拠点
国境を守る拠点、関、天岩戸 >>502
漢字ではない神代文字があったと言われるが広く認められるものではないな >>457
>大和国の南には、巨木が鬱蒼と茂る「木の国」があるやんか。
木の国→紀国、これが
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、
次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有「鬼國」、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、
次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
の鬼國でいいのかな? 倭国大乱前の倭国の版図は、賀で囲まれた地域なんじゃ無いかな? >>496
行程文だから行きと帰りで違うのが普通だろ? >>359
宮室樓觀城柵嚴設
樓觀=物見櫓が出土してないのは
吉野ケ里、北九州の致命傷だな、 >>484
>そういや二見ヶ浦も九州の糸島んとこにあるのがオリジナルぽいな
糸島の夫婦岩は、黒田が大名として入ってからだから新しいよ
江戸時代から >>504
天皇を守る12の牙とか、そんな伝説は無いの? >>488
その九州のヤマトはどこだい
みやま市辺りの山門のつもりなら、その辺に弥生時代の重要な遺跡はないよ >>502
九州にやって来た華南人は農民と船乗りばっかりだったろうから、
読み書きはほとんどできんかったんだろうな。 >>500
既に定説になっている比定地を違うというなら、
それだけの根拠と正確な論証が必要だが、それを示せるかい?
「ボクの考えた最強の魏志倭人伝の読み方」に合わないから、というのでは弱すぎるよ >>504
「賀」の字そのものは、奈良時代の好字令でつけた物だろうから
あんまり意味はない気がする。
たとえば古事記に出てくる敦賀は「角鹿」だよね。
そのイメージに引きずられたせいで、敦賀駅前のツヌガノアラシト像は
キャシャーンみたいになっとるw
https://stat.ameba.jp/user_images/20160829/16/kai-drum/2e/cd/j/o0702063313735184212.jpg
>>506
そこはどうなんじゃろ。
関西人は「目ぇ」とか「歯ぁ」とか、一字の単語も二音節にしたがるから、
「木ぃ」→「紀伊」だよね。 「賀」を姓名辞典でググってみたら興味深い記事が
賀
兵庫県、鹿児島県大島郡喜界町、福岡県。イワイも含む分布。
@シナ系。後漢の安帝の父である劉慶の名前を憚って慶姓から類似した意味の賀姓に改姓したと伝える。シナ音はホー。兵庫県神戸市中央区楠町に分布あり。慶イワイ参照。
A創賜。鹿児島県の奄美群島の一字姓。発音はイワイ。 >>512
もう掘り尽くしたの?
環濠集落が出て来るとすればその辺じゃないかと思ってんだけどな。
もしくは八女か。 >>508
>行程文だから行きと帰りで違うのが普通だろ?
大陸史書の地名記述は、基本的に地理記事であって、旅程、行程記事じゃないんだよ
そして、国邑間の方角・距離で示されている
そして領域国家段階ではないから、そもそも国境という概念がない
魏志倭人伝のみを、行程文だと見て地理記事と異なる読み方をすることに合理性がないし、
国境概念のないところに、「国境で次の国に着いたと考える」のは、仮定としても無理がある >>518
このスレ的にはイワイ=磐井と紐付くな
祭祀を担う一族だったのかもしれない
古代渡来系で太陽祭祀を追い求めたとしたら九州から伊勢まで追い求める壮大なストーリーが想起されるw >>516
對馬國 対馬
一大國 壱岐
末盧國 唐津
伊都國 糸島
奴國 福岡平野
ここまでは紛れがなく定説となっている
これを認めない時点で、ほぼトンデモ確定 >>517
>「木ぃ」→「紀伊」だよね。
これは好字令で二文字地名にしたんじゃなかった? >>515
ごく少数だったと思ってるし男性ばかりだったろうとも思ってるから、
母親の言葉が子供の母語になってっただろうなとは推測してる。
周や春秋時代の呉・越の言葉の名残とか少しくらい残ってないの? >>523
あ、そうかも知れない。
でもそこで「紀野」とか「紀賀」とかにせず「紀伊」にしたのは
「目ぇ」「歯ぁ」に通じる感性だという気がするw >>501
→移動方向
・海─┼─對馬國─┼─海─┼─一大國─┼─海─┼─末廬國─┼─伊都國─┼─奴國─┼
・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・国境
1000里・・方4000里・・・1000里・・・方300里・・・・1000里・・・・・500里・・・・・・・100里・・・・・・100里 >>513
漢字はまだ無かったんじゃないの?
甲骨文字とか
太白とか紀元前12世紀とかの人だし
漢字を知っていたとしても遺伝するものでなく後天的に学んで習得するもので
世間が使う使える状況でないとすぐ消える
神代文字は甲骨文字のようにも見える >>519
>もしくは八女か。
でも、八女にヤマトの地名はないよね?
上の方で安本流の地名遷移説のマンガを貼ってる人がいたけれど、
周辺の地名が一致してもその九州の地名の中心に「ヤマト」がない
甘木であり朝倉なんだよね
その意味で奈良盆地のヤマトは、奈良盆地のオリジナルの地名と言える
実は奈良盆地にも朝倉はある
雄略天皇の初瀬朝倉宮の朝倉 >>528
かもしれんね。
調べてみんとよくわからんかな。 >>525
稲作の伝来は、数人の中国人が、刈り取った稲穂とともに遭難して流れ着いたのだろうとは思っている。
でもそれは、文化や言語、人種に影響を与える、渡来人とは言えないレベルの人数だった。 「ヤマト王権」なんて聞いたこともない歴史用語を勝手につくるな。 >>527
もう諦めなよ
その読み方、末盧国から伊都国の方角がおかしいって言われて、
「最近九州説が思いついた」読み方なんだからさ
魏志倭人伝の方角に間違いはないって言うためだけの発明なんだから
合理性はないよ >>520
>そして領域国家段階ではないから、そもそも国境という概念がない
どんな小さな国「村でも国境は存在しますよ
貴方の家と隣の家に境界があるように。 >>532
>「ヤマト王権」なんて聞いたこともない歴史用語を勝手につくるな。
のちの律令制の整えられた大和朝廷と区別するために、
古墳時代の奈良盆地の王権をヤマト王権という言葉で呼ぶようになってるんだよ
別に誰かが勝手に作った言葉とかではない >>520
>そして領域国家段階ではないから、そもそも国境という概念がない
どんな小さな国邑でも国境は存在しますよ
貴方の家と隣の家に境界があるように。 >>529
僕が想像してるのは、事実を伝えたかどうかはともかく、
魏の役人には筑紫平野一体を邪馬台国として報告したと思うんだよね。
その場合、もちろん真の邪馬台国は朝倉辺りだった可能性は高いと思うけど、
環濠集落や楼観なんかは狗奴国との境付近に作ったと思うんだよな。
熊本平野は狗奴国の勢力下だったんじゃないかと推測してるから、
可能性が高いのはみやまか八女あたりかと。 >>533
図にすると方可○○里も国の通過距離だと分かるだろ。 邪馬台国なんかにこだわってるから、日本の古代史は行き詰まるんだよ。
北九州か山陰に勢力を誇ったけど、滅んだが正解だろ。
ヤマト政権に潰されたのであって、邪馬台国=ヤマト政権では絶対にない。 >>534
詭弁は止めな
土地登記のある現代では私有地の境界もはっきり決められている必要があるが、
未開拓地が広がっている時代に、その人が住まない無主の土地に国境を引いたりはしないよ
というか、国は人がまとまって住んでいるところだけで、人里離れたらそれはどこの国でもない
国境でその国に着いたなどと考えるという想定がそもそもおかしいんだって 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。 >>525
飲茶とかなれ鮨とか鳥居とか
野球選手の江夏は本来コウカと読んで長江下流域から来たと伝えられる人だそう
古墳時代に特に価値が高い扱いされていたらしい画文帯神獣鏡は中国南部の鏡 邪馬台国との位置関係
【さらに北】(よくわからんぐらい遠く絶たっている)
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、
華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
↑
【もっと北】 (朝鮮半島)
狗邪韓国
↑
【北】 (九州北部)
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国
↑
【女王国】
邪馬台国 ←←←←←←←←←←←←
↓
【南】
狗奴国
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、
次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。 >>540
>ヤマト政権に潰されたのであって、邪馬台国=ヤマト政権では絶対にない。
そのヤマト政権が、卑弥呼の時代にはもう既に立ち上がっていて、
北部九州までの協調関係を築いているんだが 神功皇后が400年頃とすると卑弥呼の時代は丁度崇神天皇なんだよな
景行天皇あたりで九州を平定してるから日本の歴史書を見る限り邪馬台国は畿内か
畿内勢力に滅ぼされた九州勢力のどちらかだよな… >>531
最初は流れ着いた人から聞いたんかもしれんけど、
話を聞いて九州側から迎えに行った可能性も考えてるけどな。
それでも大人数を連れてくることはできんだろうけど。
まあ、元々九州にもそんなに人住んでなかったとも思うけど。 >>544
>【さらに北】(よくわからんぐらい遠く絶たっている)
これ、魏志倭人伝を素直に読めば、直前に自女王國以北、其戸數道里可得略載、って
書いてあるんだから、邪馬台国の向こうの南側だろう? 邪馬台国=北九州。
狗奴国=ヤマト政権。
狗奴国が邪馬台国を滅ぼす。
狗奴国が東遷して畿内でヤマト政権になる。
そうなると神話の高千穂も日向も整合性が出てくる。 何千通りもできる解釈なんて意味ない、発掘あるのみ。
トロイヤ遺跡にくらべたら最近のことだから楽勝でしょ。 神社の鳥居はシナ南部に原形が見られ
縄文神と言われるミシャグジ神の御柱はツングースのトーテムポールに原形が見られるという >>541
ここんとこは同意。
農耕民(稲作民)にとって「自分たちの領域」は開墾地であって、
その周囲の「野」は、利用はしても無主(神の土地)だと思っていたっぽいよね。
常陸国風土記の、開拓農民と夜刀の神との争いの話が傍証になる。 >>546
僕は、 >>409 に書いた通りだと思ってるけどな。 >>537
九州説を主張するとどんどんエスカレートしていって、
ヤマト王権も認めない、前方後円墳も認めないって人が異常に多いのに驚いた なんで素直の神話を読まないのかね。
ヤマト政権は高千穂・日向がキーワードであって、高千穂を土着信仰したのであって、
あそこらへんには西都原古墳みたいな古墳がある。
邪馬台国なんか関係ないのに、妄想で邪馬台国とヤマト政権を結びつけるバカがいる。
当時で中国や朝鮮と交易をおこなえるのは北九州ぐらいしかない。
で、邪馬台国は南の狗奴国に苦しめられているのであって、それからしばらくして音信が途絶えるのだから、滅んだと考えるのが筋だろう。
で、北九州の南は高千穂や日向であって、美々津から畿内に東遷も話しがあってくる。
だから、狗奴国こそヤマト政権の原型なんだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています