【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg
県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/ >>359
宮室樓觀城柵嚴設
樓觀=物見櫓が出土してないのは
吉野ケ里、北九州の致命傷だな、 >>484
>そういや二見ヶ浦も九州の糸島んとこにあるのがオリジナルぽいな
糸島の夫婦岩は、黒田が大名として入ってからだから新しいよ
江戸時代から >>504
天皇を守る12の牙とか、そんな伝説は無いの? >>488
その九州のヤマトはどこだい
みやま市辺りの山門のつもりなら、その辺に弥生時代の重要な遺跡はないよ >>502
九州にやって来た華南人は農民と船乗りばっかりだったろうから、
読み書きはほとんどできんかったんだろうな。 >>500
既に定説になっている比定地を違うというなら、
それだけの根拠と正確な論証が必要だが、それを示せるかい?
「ボクの考えた最強の魏志倭人伝の読み方」に合わないから、というのでは弱すぎるよ >>504
「賀」の字そのものは、奈良時代の好字令でつけた物だろうから
あんまり意味はない気がする。
たとえば古事記に出てくる敦賀は「角鹿」だよね。
そのイメージに引きずられたせいで、敦賀駅前のツヌガノアラシト像は
キャシャーンみたいになっとるw
https://stat.ameba.jp/user_images/20160829/16/kai-drum/2e/cd/j/o0702063313735184212.jpg
>>506
そこはどうなんじゃろ。
関西人は「目ぇ」とか「歯ぁ」とか、一字の単語も二音節にしたがるから、
「木ぃ」→「紀伊」だよね。 「賀」を姓名辞典でググってみたら興味深い記事が
賀
兵庫県、鹿児島県大島郡喜界町、福岡県。イワイも含む分布。
@シナ系。後漢の安帝の父である劉慶の名前を憚って慶姓から類似した意味の賀姓に改姓したと伝える。シナ音はホー。兵庫県神戸市中央区楠町に分布あり。慶イワイ参照。
A創賜。鹿児島県の奄美群島の一字姓。発音はイワイ。 >>512
もう掘り尽くしたの?
環濠集落が出て来るとすればその辺じゃないかと思ってんだけどな。
もしくは八女か。 >>508
>行程文だから行きと帰りで違うのが普通だろ?
大陸史書の地名記述は、基本的に地理記事であって、旅程、行程記事じゃないんだよ
そして、国邑間の方角・距離で示されている
そして領域国家段階ではないから、そもそも国境という概念がない
魏志倭人伝のみを、行程文だと見て地理記事と異なる読み方をすることに合理性がないし、
国境概念のないところに、「国境で次の国に着いたと考える」のは、仮定としても無理がある >>518
このスレ的にはイワイ=磐井と紐付くな
祭祀を担う一族だったのかもしれない
古代渡来系で太陽祭祀を追い求めたとしたら九州から伊勢まで追い求める壮大なストーリーが想起されるw >>516
對馬國 対馬
一大國 壱岐
末盧國 唐津
伊都國 糸島
奴國 福岡平野
ここまでは紛れがなく定説となっている
これを認めない時点で、ほぼトンデモ確定 >>517
>「木ぃ」→「紀伊」だよね。
これは好字令で二文字地名にしたんじゃなかった? >>515
ごく少数だったと思ってるし男性ばかりだったろうとも思ってるから、
母親の言葉が子供の母語になってっただろうなとは推測してる。
周や春秋時代の呉・越の言葉の名残とか少しくらい残ってないの? >>523
あ、そうかも知れない。
でもそこで「紀野」とか「紀賀」とかにせず「紀伊」にしたのは
「目ぇ」「歯ぁ」に通じる感性だという気がするw >>501
→移動方向
・海─┼─對馬國─┼─海─┼─一大國─┼─海─┼─末廬國─┼─伊都國─┼─奴國─┼
・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・国境
1000里・・方4000里・・・1000里・・・方300里・・・・1000里・・・・・500里・・・・・・・100里・・・・・・100里 >>513
漢字はまだ無かったんじゃないの?
甲骨文字とか
太白とか紀元前12世紀とかの人だし
漢字を知っていたとしても遺伝するものでなく後天的に学んで習得するもので
世間が使う使える状況でないとすぐ消える
神代文字は甲骨文字のようにも見える >>519
>もしくは八女か。
でも、八女にヤマトの地名はないよね?
上の方で安本流の地名遷移説のマンガを貼ってる人がいたけれど、
周辺の地名が一致してもその九州の地名の中心に「ヤマト」がない
甘木であり朝倉なんだよね
その意味で奈良盆地のヤマトは、奈良盆地のオリジナルの地名と言える
実は奈良盆地にも朝倉はある
雄略天皇の初瀬朝倉宮の朝倉 >>528
かもしれんね。
調べてみんとよくわからんかな。 >>525
稲作の伝来は、数人の中国人が、刈り取った稲穂とともに遭難して流れ着いたのだろうとは思っている。
でもそれは、文化や言語、人種に影響を与える、渡来人とは言えないレベルの人数だった。 「ヤマト王権」なんて聞いたこともない歴史用語を勝手につくるな。 >>527
もう諦めなよ
その読み方、末盧国から伊都国の方角がおかしいって言われて、
「最近九州説が思いついた」読み方なんだからさ
魏志倭人伝の方角に間違いはないって言うためだけの発明なんだから
合理性はないよ >>520
>そして領域国家段階ではないから、そもそも国境という概念がない
どんな小さな国「村でも国境は存在しますよ
貴方の家と隣の家に境界があるように。 >>532
>「ヤマト王権」なんて聞いたこともない歴史用語を勝手につくるな。
のちの律令制の整えられた大和朝廷と区別するために、
古墳時代の奈良盆地の王権をヤマト王権という言葉で呼ぶようになってるんだよ
別に誰かが勝手に作った言葉とかではない >>520
>そして領域国家段階ではないから、そもそも国境という概念がない
どんな小さな国邑でも国境は存在しますよ
貴方の家と隣の家に境界があるように。 >>529
僕が想像してるのは、事実を伝えたかどうかはともかく、
魏の役人には筑紫平野一体を邪馬台国として報告したと思うんだよね。
その場合、もちろん真の邪馬台国は朝倉辺りだった可能性は高いと思うけど、
環濠集落や楼観なんかは狗奴国との境付近に作ったと思うんだよな。
熊本平野は狗奴国の勢力下だったんじゃないかと推測してるから、
可能性が高いのはみやまか八女あたりかと。 >>533
図にすると方可○○里も国の通過距離だと分かるだろ。 邪馬台国なんかにこだわってるから、日本の古代史は行き詰まるんだよ。
北九州か山陰に勢力を誇ったけど、滅んだが正解だろ。
ヤマト政権に潰されたのであって、邪馬台国=ヤマト政権では絶対にない。 >>534
詭弁は止めな
土地登記のある現代では私有地の境界もはっきり決められている必要があるが、
未開拓地が広がっている時代に、その人が住まない無主の土地に国境を引いたりはしないよ
というか、国は人がまとまって住んでいるところだけで、人里離れたらそれはどこの国でもない
国境でその国に着いたなどと考えるという想定がそもそもおかしいんだって 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。 >>525
飲茶とかなれ鮨とか鳥居とか
野球選手の江夏は本来コウカと読んで長江下流域から来たと伝えられる人だそう
古墳時代に特に価値が高い扱いされていたらしい画文帯神獣鏡は中国南部の鏡 邪馬台国との位置関係
【さらに北】(よくわからんぐらい遠く絶たっている)
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、
華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
↑
【もっと北】 (朝鮮半島)
狗邪韓国
↑
【北】 (九州北部)
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国
↑
【女王国】
邪馬台国 ←←←←←←←←←←←←
↓
【南】
狗奴国
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、
次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。 >>540
>ヤマト政権に潰されたのであって、邪馬台国=ヤマト政権では絶対にない。
そのヤマト政権が、卑弥呼の時代にはもう既に立ち上がっていて、
北部九州までの協調関係を築いているんだが 神功皇后が400年頃とすると卑弥呼の時代は丁度崇神天皇なんだよな
景行天皇あたりで九州を平定してるから日本の歴史書を見る限り邪馬台国は畿内か
畿内勢力に滅ぼされた九州勢力のどちらかだよな… >>531
最初は流れ着いた人から聞いたんかもしれんけど、
話を聞いて九州側から迎えに行った可能性も考えてるけどな。
それでも大人数を連れてくることはできんだろうけど。
まあ、元々九州にもそんなに人住んでなかったとも思うけど。 >>544
>【さらに北】(よくわからんぐらい遠く絶たっている)
これ、魏志倭人伝を素直に読めば、直前に自女王國以北、其戸數道里可得略載、って
書いてあるんだから、邪馬台国の向こうの南側だろう? 邪馬台国=北九州。
狗奴国=ヤマト政権。
狗奴国が邪馬台国を滅ぼす。
狗奴国が東遷して畿内でヤマト政権になる。
そうなると神話の高千穂も日向も整合性が出てくる。 何千通りもできる解釈なんて意味ない、発掘あるのみ。
トロイヤ遺跡にくらべたら最近のことだから楽勝でしょ。 神社の鳥居はシナ南部に原形が見られ
縄文神と言われるミシャグジ神の御柱はツングースのトーテムポールに原形が見られるという >>541
ここんとこは同意。
農耕民(稲作民)にとって「自分たちの領域」は開墾地であって、
その周囲の「野」は、利用はしても無主(神の土地)だと思っていたっぽいよね。
常陸国風土記の、開拓農民と夜刀の神との争いの話が傍証になる。 >>546
僕は、 >>409 に書いた通りだと思ってるけどな。 >>537
九州説を主張するとどんどんエスカレートしていって、
ヤマト王権も認めない、前方後円墳も認めないって人が異常に多いのに驚いた なんで素直の神話を読まないのかね。
ヤマト政権は高千穂・日向がキーワードであって、高千穂を土着信仰したのであって、
あそこらへんには西都原古墳みたいな古墳がある。
邪馬台国なんか関係ないのに、妄想で邪馬台国とヤマト政権を結びつけるバカがいる。
当時で中国や朝鮮と交易をおこなえるのは北九州ぐらいしかない。
で、邪馬台国は南の狗奴国に苦しめられているのであって、それからしばらくして音信が途絶えるのだから、滅んだと考えるのが筋だろう。
で、北九州の南は高千穂や日向であって、美々津から畿内に東遷も話しがあってくる。
だから、狗奴国こそヤマト政権の原型なんだよ。 >>556
ううむ、俺の感覚では、「ヤマト王権」という用語と九州説とは
親和性が高いように思える。「大和朝廷」のように中央集権の政権じゃなくて、
ヤマトにもチクシにもヒュウガにもそれぞれ王様が居たイメージ。 神話を素直に読めって。
ヤマト政権は普通に高千穂や日向の豪族だった、。
北九州の邪馬台国からは狗奴国とよばれていた。
ヤマト政権は北上し邪馬台国を滅ぼす→だから邪馬台国の音信が途絶える。
ヤマト政権は美々津から東遷し大和朝廷になる。
神話どうりじゃねえかw >>557
高千穂のすごいところは、天孫降臨の地でありながら
天岩戸まで完備している手際の良さだよね。
いや、茶化しているわけじゃなくて、記紀神話の記述も含めて
そういう「設定」を具現化した意志の存在が興味深いなと。 伊都国(の中心地)は太宰府付近
博多湾から東南方向にあり、福岡平野と筑後平野をつなぐ要地にあり
さらに少し東南に進めば筑後川の支流に出て水行が可能
一大率(ダイソツ)と太宰帥(ダザイノソチ)の音や役割の類似もある
邪馬台国が九州中南部にあったならば九州北部の監視も
大陸から来た文物を邪馬台国へ送る前に確認するにも
太宰府の辺りが適している 邪馬台国に連続性があって、ヤマト政権となんらかのつながりがあるなら、絶対に音信が途絶えることはない。
邪馬台国は親中国大陸・親朝鮮であって、
逆にヤマト政権は、朝鮮を攻める側であって、当然、朝鮮の保護国である中国とも仲良くなることはない。
全然、外交方針が違う。
で、中国と交易おこなえるのなんか遣唐使の時代でも命がけなのに、
古代なんかじゃ、北九州ぐらいしかできんだろ。
畿内だったら、南の狗奴国に苦しめられてるぐらい支配基盤が貧弱なのに、古代で畿内から中国に使者を送れるほど体制は強くない。
邪馬台国が畿内にあったとか、邪馬台国がヤマト政権であったとか、ほんと間抜けだから、冷静に考えろよ。 >>561
天岩戸は全国各地にこれがそれだと主張するものがあるからな
記紀を読んでそうなったと思われ
高千穂のものは記紀以前からそう言い伝えがあったのかどうか >>564
調べてみたら、高千穂の天岩戸神社の社伝では
「ニニギが天岩戸の故事を偲び、その古跡に鎮祭したのが起源」とか
苦しい言い訳をしていたw
さておき、天岩戸そのものじゃなくて、天手力男神が投げた戸の行き先も
いくつかあるよね。信州の戸隠神社とか。 邪馬台国をどうとらえる?
俺は支配基盤が弱い政権に思える。南の狗奴国に脅かされてる国であって、
そんなことを中国に報告してるんだから、強国なんかじゃない。
ヤマト政権は朝鮮を征服しにいくんだぞ。
邪馬台国は北九州だからこそ、大陸や朝鮮と仲良くするのであって、
北九州の勢力が朝鮮を征服するなんて、北九州を支配基盤にしてる勢力の発想ではない。
朝鮮を攻める発想するのは南九州の勢力か、畿内の勢力で男社会の文化だわ。
だから、邪馬台国は絶対に畿内ではない。 >>563
ヤマト政権は新羅に対して敵対的・攻撃的で
中国王朝に対しても日が没する処の天子だなと侮蔑や挑発とも取れる書を送っているな 日出るがごとき日本の天子が日が没するがごとき中国の天子に書を送る
変わりなく元気であるか?
邪馬台国の卑弥呼とは真逆のような日本の天子だな
邪馬台国と大和政権は別物じゃないのか >>569
それ阿蘇山の近所にすむ九州男児タリシヒコさんの手紙やろ
大和朝廷とは別物やで >>569
> 変わりなく元気であるか?
原文では「つつがなしや」(ツツガムシに寄生されてはいないですか?)だよね。
日本では普通のあいさつ文だが、隋の王宮の人にしてみれば
「どこの田舎者だよ…(;´Д`)」と思われたかも知れん。 邪馬台国が畿内にあったという奴は
>>557>>560>>563>>566の俺の根拠の反論してくれよ。
そもそも邪馬台国はそれほど重要な国じゃないと思うぞ。
真田幸村みたいなもんだよ。ロマンあるけど、史実では重要な位置をしめていない存在。 >>566
シナに媚びへつらい
隣の強国の狗奴国攻めに際してシナ人に援助を求めるなど
極めて雌雌しい卑しい根性の卑弥呼の邪馬台国
男社会の男国が邪馬台国を滅ぼして大和朝廷となったんだろ
狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたか
邪馬台国内部で卑弥呼トヨ体制側を誅殺するなど旧体制を廃して乗っ取ったか >>573
今の日本そっくりじゃないか。
アメリカさんの力を借りて中国に対抗しようとしているところなんて。 内乱が収まって南に北に東に侵略を開始したんだろう
東は吉備の協力もあって比較的楽だったようだね
各方面に侵攻したからそれぞれが手薄になって魏に協力を要請したらアホかと指導された
狗奴国とは苦戦したようだけど、存続を脅かしたのは倭国のほうだよ そうだよ。
中国の舎弟にしてくださいと懇願してる邪馬台国と、
朝鮮を攻め、倭の王だから、と中国との対等関係、いや挑発すらとも受け取れる使いを送ってるヤマト政権にどんな関係があるんだよw
全くの別もんだろwww >>509
は?
寝ぼけてるの?
https://ironna.jp/article/10766?p=2
> 有明海北岸地域では、中国城郭の城壁や入り口に付属する突出部(馬面・角楼)のように、環壕を外側へ突出させた部分をもつ環壕集落跡が
> 集中しているが、他の地域では見られない。
> 佐賀平野(吉野ケ里遺跡など11遺跡16環壕)、久留米市、八女市、日田市に、中国の城郭構造が反映されたと考えられる環壕集落が
> 分布している。ただし、突出部の内側に物見櫓を設けたのは吉野ケ里遺跡のみである。
>
> これらの環壕突出部を設けた集落が分布する地域が、文化的なまとまりが認められるが、政治的なまとまりと考えることも
> 可能ではないかと考えている。
> これら集落の中で、すべての突出部に物見櫓を伴ったのは吉野ケ里遺跡だけであり、集落間の階層性が認められる。 誰がどう見ても
ヤマタイ=ヤマトなのに
どうして日本の教科書は
さも別物的な記載をしているの? >>575
日本の国がどのように建国されたかがわかる >>572
面倒くさいな、ここ人は
古いスレにあった名言を転載
東遷説にも何種類もあるのだよ
東遷の時期の範囲を不明にすれば
畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう
>>572は記紀に東征説話を信じたいようだが、それを史実だと仮定しても、
卑弥呼の5世代以上前なら、ごく普通の畿内説で何も問題ない 大和朝廷が自分達の歴史・血統証明書のような古事記・日本書記を書き上げた。
高千穂を土着信仰し、日向に支配基盤をもっていた。
で、本拠地を変えるために、美々津から東遷し、畿内を本拠地にする。
描かれてるとうりに読めよ。
邪馬台国なんか全然関係ないから。
コクリと戦争して、北朝鮮まで侵攻してるんだぞ。
なんで、巫女をトップにして占いで政治を決定し、中国に舎弟にしてほしく懇願。朝鮮とも仲良くし狗奴国に苦しめられていますって泣き言を中国に言っちゃう邪馬台国が
日出処の天子の大和朝廷になるんだよwwwwwwwwwwwwwwwwww 本土人は集団としては韓国人と同じクラスター(注2)に属することも分かった。
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_241101.html
日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大
http://www.afpbb.com/articles/-/2798334?cx_amp=all&act=all
体の部位、基本動詞、数字、代名詞などの主な210単語について、59方言でリストを作成。
数千世代にわたり改変されていない、いわゆる「高度保存遺伝子」を見つけ出すのと同じ要領で、
他の方言に影響されていない「変化耐性」を持つと思われる単語を選び出し、コンピューターで
モデル化した。
すると、これらの単語はすべて約2182年前の共通祖先に行き当たった。この年代は、朝鮮半島
から大量の渡来人が来た時代に当たる。 >>581
>他の地域では見られない。
>これらの環壕突出部を設けた集落が分布する地域が、文化的なまとまりが認められるが、政治的なまとまりと考えることも
>可能ではないかと考えている。
さすがに飛躍してる
しかもその主張は、有明海北岸地域だけの小さな領域だけで、
伊都国や奴国はその政治連合とは関係ないと自ら認めてるわけだw >>585
だから、美々津から船で東遷したの。
日向から船で東遷したの。
そう描かれてるの、わかってるの? 日本の歴史書の中に邪馬台国や卑弥呼の名前は出てこない。意図的に触れないようにしてるとすれば大和王権の前に九州で一大勢力を誇っていた邪馬台国を滅ぼした大和王権が歴史を改ざんしてる。
当時倭国には30ほどの国があってその中、九州の一大勢力が邪馬台国。
九州は中国大陸と貿易等地理関係で有利でありあなたが倭の女王ですよと金印なんかを貰ったりして認めさせていた。
しかし倭の30ほどの国をまとめあげたのが大和王権で歴史を都合よく時系列を合わせてあらたに歴史書を作った。
それが日本の天皇の始まり。
以上想像でした(笑) >>582
『旧唐書』には、日本列島について、特異な記載をしている。「倭国伝」と「日本伝」だ。ここでは、
倭国は古の倭奴国なり。<旧唐書、倭国伝>
日本国は倭国の別種なり。<旧唐書、日本伝>
この『旧唐書』の前に当たる、『隋書』においては、「[イ妥]国伝(隋書にはこう記す)」のみであって、「日本伝」はない。
また、「日本」という名も出てこない。『隋書』以前の各書についても同じだ。『旧唐書』において、初めて「日本」は中国史上にデビューすることとなったのである。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/WAandNIPPON1.htm >>580
奈良 「おい邪馬台w」
邪馬台 「わ、わらわに、何という口の利き方を!(怒」
奈良 「ああん? このアマ、てめー自分の立場分かってんのか?」
邪馬台 「・・・」
奈良 「先の大乱で、女を王にする条件で皆殺しは勘弁してやったんだぞ!」
邪馬台 「・・・」
奈良 「おい邪馬台w、お前ら漢の時代にパシリの奴国に朝貢させてよな?
今度は、お前らが、『魏』とか言う国に朝貢してこいやwww」
邪馬台 「 ・・・ 」 (グギギギギギギギギ) >>587
だからそういうの全部さ
石器人だろ
女系では石器時代から日本チョンと非漢人の土着満州人と同じような人種 >>563
そもそも争いがおこったって書いてあるからなぁ
結構なもんだったんじゃねーの
まあ卑弥呼は大和政権の誰かであってもおかしくないと思うよ なるほど
奈良が邪馬台卑弥呼を利用していたと
朝貢によるシナからの下賜品は魅力的で
それを得るに際して邪馬台のツテは欲しかったので存置しておいた
シナ皇帝に無礼な書を送る頃にはもう用済みと田油津姫や八十女として討伐した
かもしれない
可能性の一つとして浮かんだのは収穫 城柵楼閣跡の無い纏向遺跡を卑弥呼の宮殿と言い、後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60m)よりも遥かに巨大な箸墓古墳(全長270m)を卑弥呼の墓と言ってしまう畿内説は学問とは無縁のカルト集団だと聞きました。 なんで、反論がないのかねw
畿内の大和朝廷が自分達のルーツとして高千穂を信仰し日向から船できたよと、古事記にも日本書記にも書いてある。
なんで素直に受け止めない?
邪馬台国が大和朝廷のルーツなら、必ず古事記や日本書記に邪馬台国時代も描かれるし、当然、卑弥呼もでてくる。
絶対に邪馬台国と大和朝廷は関係ない。 北部九州には皇軍によって征伐された女酋長や女集団がたくさんいる
死後もなお土蜘蛛と侮蔑しているが
邪馬台国の残骸だったんじゃないかとは思う 九州北部の埋葬法がどんどん廃れてったからなあ
かつての奴国も力がなくなって機内に新たな政権が誕生して
九州からも技術持った人や知識人たちが多く畿内に移ったんだろ
それが東遷伝説を生んだと
金印が出てきたこともそれで説明がつく >>591
これ見るとやっぱ邪馬台国は大和朝廷に成敗されたと思うね
日本の歴史って結構九州や東北の扱いに酷いし 魏志倭人伝の情報は邪馬台国経由。
魏志倭人伝には「土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である」と書かれている。
畿内なわけねーじゃんw
九州だろwwwwwwwwwwwwww >>602
どう考えても畿内じゃ無理がありすぎだろwwwwwwwwwwww >>600
物や人や文化が西から来て縄文から変わって行ったのは間違いない
しかし土蜘蛛とか言うのはここらの人や体制は皇統や朝廷と関係無いと確信があるからだな
シナ側は邪馬台国を日本国が乗っ取ったと見ていたが
案外正しいのかもしれない 2世紀に巻向を作ったのは吉備と日向かもしれんね
九州の争いに嫌気がさした日向の王族と九州から侵略受けてた吉備が畿内の勢力と手を組んで巻向に理想郷を作ったんだろう
そう言えば日向と巻向って似てるよな >>597
根拠もなし証拠もなしに記紀が正しい言うなら、天皇が神様の子孫だということも認めないといかんな
神武天皇が紀元前660年に即位したことも認めないといかんな
古代史ストーリー作って、そのストーリーに合う部分だけ、記紀は正しいと言い張るのは通らない 記紀が書かれた時代は男系王社会だからな
女王の支配は認められなかったんだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています