【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
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県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/ 魏志倭人伝の情報は邪馬台国経由。
魏志倭人伝には「土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である」と書かれている。
畿内なわけねーじゃんw
九州だろwwwwwwwwwwwwww >>602
どう考えても畿内じゃ無理がありすぎだろwwwwwwwwwwww >>600
物や人や文化が西から来て縄文から変わって行ったのは間違いない
しかし土蜘蛛とか言うのはここらの人や体制は皇統や朝廷と関係無いと確信があるからだな
シナ側は邪馬台国を日本国が乗っ取ったと見ていたが
案外正しいのかもしれない 2世紀に巻向を作ったのは吉備と日向かもしれんね
九州の争いに嫌気がさした日向の王族と九州から侵略受けてた吉備が畿内の勢力と手を組んで巻向に理想郷を作ったんだろう
そう言えば日向と巻向って似てるよな >>597
根拠もなし証拠もなしに記紀が正しい言うなら、天皇が神様の子孫だということも認めないといかんな
神武天皇が紀元前660年に即位したことも認めないといかんな
古代史ストーリー作って、そのストーリーに合う部分だけ、記紀は正しいと言い張るのは通らない 記紀が書かれた時代は男系王社会だからな
女王の支配は認められなかったんだろう >>601
その記述に合うのは沖縄だけ
九州は南国の気候とはかけ離れてる 武内宿禰という傭兵団の一族が同族に近い土蜘蛛一族を殺してた >>607
自分達のルーツに権威を付け加えることわ当たり前のことだわ。
古代の権威づけに神を使うのは自然なことだわ。
むしろ、なにもないところから、高千穂や日向が突然でてくることのほうが不自然。
大和朝廷が高千穂や日向になんらかの関係があるのは間違いない。
それに日向には古墳があるんだよ。西都原古墳を調べろよ。
これだけの規模の、しかも独自性のある古墳は、日向に大きな勢力がいたことを証明するものになっている。 >>609
そんなことないよw
俺は宮崎の馴染みがあるけど1年中暖かい。
だから、巨人のキャンプ地になっている。 >>595
中華思想と一緒だよ。歴史を改ざんしなければ整合性を保てないため滅ぼしたのに王権を譲りうけただの自分の歴史の一部にしちゃってる >>612
自分の説の根拠が自分の妄想では話にならんよ
客観的な根拠、証拠を集めてからにしてくれ 女王を共立して争いが収まるのはどこの地方か
ちょっと考えたらわかるだろ?
近畿でそんな習慣があるなんて微塵も痕跡がないが
九州ならそういう痕跡がある 金印はまだ見つかってないんだっけ?
絶対に天皇家がトップシークレットで隠してると思う。 >>615
だから、古事記や日本書記が客観的な資料だろうが。
畿内に邪馬台国なんて、そっちのほうが妄想だろうが。
古事記や日本書記を全部否定するのか?
それのほうがよっぽど科学的じゃないよ。
古事記や日本書記には史実と創作が混ざっている。
創作は権威をつけるためのもの。
だから、神とかは権威つけだけど、
高千穂・日向、東遷は史実だろう。
それとも古事記や日本書記は全部嘘だといいたいのか? アーサー王のモデルと言われてるアルトリウス
彼はローマ軍人で地元のケルト人と協力してサクソン人の侵略から守ったされる
ところが
アーサー王となると、まるで逆
サクソン人の王朝アーサーが妖精などいったケルト民話的な力を借りて
侵略者ローマ帝国と戦うのだ
こういった立場のすり替えは世界中あるんだね >>614
歴史は勝者によって記される
外から見えるマクロなところは世間に誤魔化しが出来ないとしても
外からは分からないミクロなところはどうとでも書くからな
勝者が正義で敗者は民を苦しめるとか不安がらせる悪などと書く >>621
ところどころ曲げちゃってるからな
わけの分かんない話も多いし >>613
黒を白と言い張るのはやめなさい
倭国は会稽東冶の東に位置してると書かれているし
気候や風土などの有無するところが海南島と同じともある
九州島では箸にも棒にもかからないんだよ 中華を擁護するわけじゃないが
中国はわりと正直に出自とか勝者も敗者も書いてる方だ
ただ数字は盛るね 古墳時代の、あの前方後円墳の形、王権の象徴のリングとリボンのようです。
天から古墳を見ると、その王権の形になっております。
リングは円、リボンは方、です。
王権の形が、リングとリボンであることは世界的に広く分布しております。 >>621
記紀から材料を拾ってきて、オレ様ストーリーを作ってるだけだろが
記紀に記述があるから根拠があると言い張るのは詭弁
どこが正しくて、どこが間違ってるか不明
記紀から引用するなら、その記述が正しいことを証明してからにしてくれ 『後漢書』倭人伝 卑彌呼
女人は淫ではなく嫉妬もしない。また、風俗は盜みをせず、争訟は少ない。
一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。
ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。
『梁書』倭国伝 邪馬臺国
「邪馬臺国」に至る。すなわち倭王が居する所である。
『梁書』倭国伝 征東大将軍
土地は温暖、風俗は淫ではない。
魏の景初三年(239年)、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。
正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあった
ので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。倭王讃がいた。讃が死に、弟の彌が立った。彌が死に、
子の済が立った。済が死に、子の興が立った。興が死に、弟の武が立った。
斉の建元中(315−316年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。
高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。
『北史』倭国伝 「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」
人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。
大業三年(607年)、その王の多利思比孤が(使者を)遣わして朝貢。
使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
国書に曰く「日出ずる所の天子、書を日沒する所の天子に致す。つつがなきや」云々。
帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ。」
『隋書』倭国伝
そこの俗では殺人、強盜および姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計り、財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して
奴隷となす。人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。。婦人は淫行や嫉妬をしない。
新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
『唐会要』倭国・日本国伝
咸享元年(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。以後は続いて朝貢に来る。
則天武后の時、自ら言うには、「その国は日の出る所に近い。故に日本国と号する。」
思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。 >>624
そんなこと言ったら、魏士倭人伝だってそうじゃんかよ。
大和朝廷の権威書だから、創作は多い。
でもその創作でも史実をくっつける創作。
魏士倭人伝だって、創作が入っていないだけで、メチャクチャな記述多い。 >>626
皇帝の不徳も敗死した人間の正義も割と客観的に書き残しているよな
今でなく大昔の中国で日本人によるものより良いなと感心するところ
数字は最大10倍くらいに盛るのがダメなところ 九州説ってこんなやつばっかり
記紀をつまみ食いして、オレ様ストーリーを作り、オレ様の説は根拠があるとドヤ顔する
記紀の記述で、自分のストーリーに合う部分を正しいと決めつけて、
自分のストーリーに合わない部分は間違いか不明扱い
だが、その判断基準に根拠もなく証拠もない >>628
それだったら、魏志倭人伝をどうやって証明するの?
教えてよ。
あんたの言い分だと魏志倭人伝ですら全て創作だと結論できちゃうよ。
魏志倭人伝の記述なんて一つも客観的な正しい証明はできていない。 >>630俺は蘇我氏の出自。その後の身のふりかたが怪しいと思ってるんだよ >>613
そのキャンプ地で雪が降って超寒くてこんなに寒いのかと驚いてたよ 邪馬台国畿内説はを主張する奴は何が根拠なの?
それこそ妄想だろ。よくわかんない古墳群をもちだしたり、一番客観性がない。
古事記や日本書記を否定しちゃうと、教科書の日本史の前半を否定することになるんだけど。 そもそも偽誌倭人伝自体がでたらめななんじゃなかったっけ >>636
アホwww
それができないから、みんなああでもないこうでもない言っている。 >>630
魏志倭人伝と記紀を同列に扱われてもな
記紀は後世の思惑もあって書かれてるし
邪馬台国の頃とは社会情勢も全然違う
全部創作とは思わないけど神武東遷とかは神話だね 記紀を信用しないなら
全部否定しろよ
神武だけ否定するとかならおかしいだろ >>640
じゃあ、東遷を神話にする必要性は何?
なぜ東遷しなければいけない話しをつくった?
理由がないのに創作はない。
それに後世の思惑って何?
それこそあんたの妄想でしょwww >>639
基本的なことを全くわかってないな
検証できた記述は、正しいとみなす
検証できなかった記述は、一旦保留する
物証と矛盾してる記述は、間違ってるとみなす >>642
日向に畿内地方との交流はあったのでは
知識人や技術者の畿内への流入はあっただろうし、そういう情勢が東遷伝説へと繋がっているように考えられるな 応神朝が東遷したから
その祖先筋にあたる武内宿禰を神武にしたんだろw >>629
中華関西マンセーのお前らに言っても届くことは無いだろうけど
蝦夷の種族のひとつの呼称だよ
唐子・日ノ本・渡党といって蝦夷には三種のグループがあった
日本という言葉は北日本にある呼称 >>642
後世の思惑は男系社会への変遷が大きいと思う
ニニギノミコトとコノハナサクヤビメの話なんか典型だろ
女系社会で姉とは結婚できずに妹しか嫁に貰えなかったから
姉はブスで実家に帰されたことになってる 邪馬台国がどこにあろうと日本の基層である縄文東国には関係ない 大和近畿と日向は遺伝子的にそんなに離れたものじゃないし
JCウイルス系統はそっくりそのままほぼ同じ
弥生の邪馬台国が出てくるより前から吉備と繋がりがあったようだし
神武が全くの作り話とは思わない
思わないがどう記されても証拠が無いなら基本的に信用しないんで
全ては信用しないが証拠になる状況もあるにはあるのである程度信用する 状況証拠がメインだけど、当時の大和国、葛城国周辺に半島の人がすでに来てたあるいは定着してた痕跡がある。
その人たちが当時日本最大だった纏向の集落を知ってるはずだから、祖国に伝えていただろうということは想像できると思う。
定着しすぎて全然祖国に戻らなかったら別だけど。
ちなみにこれは実際かつての葛城国のあった場所に住んで、趣味で色々調べてる人からの話で、俺自身証拠はと言われると知らんとしか言いようがないが。 >>620
これだよねぇ。
奉詔書印綬詣倭國,【拜假】倭王
倭王は文脈的には卑弥呼になるがこれもこれで疑ってる。 >>646
それはあんたの創作じゃんかよwwww
交流があったから伝説を作る?アホらしいwwwwwww
交流なら西日本どころか、中国とも朝鮮とも交流があったのだから
中国や朝鮮との神話創作をつくってくれよwww
権威というのはそうじゃないんだよ。
例えば、聖書でもイエスの母マリアは神様からイエスを身ごもったとされる。
それは創作だろう。だけど、イエスやマリアの存在は史実だ。
つまり、100%の創作ではなく、創作に史実を入れ込んでる。
古事記や日本書記はそれと一緒sだわ
他人の嘘だって100%嘘ではない、本当のことと嘘を混ぜてる。
古事記も日本書記も高千穂を天孫降臨の地にしなければいけない理由があるんだよ。
高千穂や日向が大和朝廷のルーツであるということは創作でもなんでもない >>655
天孫降臨の伝承は奈良県御所市にもあるね。 >>657
だったら古事記や日本書記に奈良の天孫降臨の神話がないといけない。
でも、書かれていない。
大和朝廷は日向がルーツだからこそ、古事記や日本書記に高千穂の天孫降臨神話を書いたんだよ。
そうしないといけなかったんだよ。 東征はかつての倭王の末裔を自称する為に作られた
神話なんじゃないかと怪しんでる
戦国武将が家は源氏だ平家だ言うのと同じで >>625
会稽東冶が東治の誤りであることは魏略から分かる
朱崖・ダン耳が海南島であるというソースはない
白を黒と言い張るのはやめなさい 邪馬台国や倭の五王のことが判明するのてもう絶望的なの? 事実
238年 倭の女王、使者難升米、都市牛利を派遣。魏王と会う。
240年 帯方太守、使者梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣。
243年 倭の女王、使者伊聲耆、掖邪狗を派遣。
245年 帯方郡を通じて難升米に黄幢を下賜するよう詔。が果たせず。
247年 帯方太守、使者張政らを難升米に黄幢を持って倭国に派遣。
(卑弥呼死す、壹與立つ、張政帰す) >>661
五王は事績がほとんど書かれてないから厳しい
邪馬台国は親魏倭王の金印か、配下が貰った銀印、もしくはそれらの印が押された封泥が出れば決着するかもしれない >>652
葛城の何所?
ないな
古墳中期以降なら少しだけ肯いてやってもいいが >>658
だいたい記紀の高千穂の場所が特定されてる描写も無いんだよね >>658
ニギハヤヒという神武より先に奈良に降臨した者がいたと記されているだろう 日本書記には卑弥呼=神功皇后みたいな書き方をしてるが独身、旦那もいるし子もいるとか無理がありすぎる >>642
Q なぜ東遷しなければいけない話をつくった?
A 東遷してないからw
列島の歴史的権威、西の邪馬台(やまと)からその権威を奪ったので、
権威の断絶が起きないよう、滅ぼした邪馬台の記憶を神々に仕立て、
その神が東にやってきて奈良で子孫を作った、という話にした。
奈良 「俺たちは、西からこの国を作った神々の子孫だぞ!」 (どや顔)
ってな具合。 吉備との繋がりは箸墓の頃だけと見た方が良さそうだけどな
その後畿内は独自発展する
対して吉備は四道将軍の派遣後文化的に衰退する
これは半島征伐の頃に国力を使ったからと見ていて、北九州も出雲も似たような変遷を辿っているな
畿内ヤマト政権は倭国弱体化のために三韓征伐を利用した節が見てとれるんだよな
半島で得た利益は畿内が独占
騎馬文化や鉄が潤沢に流入する
その後巨大古墳の時代になるのもそういうことじゃないかな >>657
それは葛城氏が高御産巣日神の後裔という面があるから >>667
奈良が滅ぼした邪馬台の記憶、卑弥呼を天照に昇華させてる。 お前らの知識は深い深すぎるんじゃ
もうずっと前からついていけん 高天原(大和)→天孫降臨→高千穂(日向)→東征→橿原(大和)って感じでしょ >>668
最近は綿ツミ海人族が東進したことを文献史学の人間が考古学の業績をもとに語る時代だからな
東遷や東進は何度もあったんだろね >>664
それは俺も聞いた。
確かに5世紀とかになると確実なんだけど、じゃあ2世紀はどうなのかと。
その時にはっきりとは覚えてないけど、何かの伝承があるらしいことは聞いた。
また今度聞いてみる。
それとは別に神武天皇の討伐でどこだったか、その周辺で新羅から来た人が定着してた所を討ったとかいうのは誰か前スレか何かで言ったよね。
俺自身はそこまで詳しくないので、人から聞いた程度しか書けないけど。 >>674
ちがう。
日向狗奴国、南九州征服→狗奴国 北九州侵攻・邪馬台国討伐→狗奴国東遷→畿内大和政権誕生 >>665
六人惨殺のあった熊本大分県境に近い高千穂町の高千穂なのか
鹿児島県との県境のあたりにある高千穂峰なのか
争っているみたいだし
高千穂が何処か記されていないからな
日本書紀には日向国、古事記には日向と記される箇所があって
古事記肯定の立場からは日向が日向国ではないとすら主張されたり
まあグダグダだねえ 考古学なんて
たった一つの文献と
今までたまたま彫り合ってた範囲の資料をうきあわせてるだけで
まったく科学的じゃないんだよなぁw >>678
ズレているなw
特定されていないのは日向。
古代日向がどこからどこまでの範囲かはわかっていない。
だけど、東遷の舞台の美々津は特定されてる。
高千穂だって、観光地の高千穂じゃなくて、高千穂一帯はわかる。 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 古代日向と今の日向は違う。
今の日向市と、古代日向と混同しちゃいけない。
まあ、邪馬台国の話しに戻るけど、畿内を根拠にする証拠がまったくわからない。
例えば纒向遺跡。
まず、邪馬台国は朝鮮と頻繁に交流し、中国とも交流してるのだから、少なくても朝鮮製の遺物が発見されないといけない。
それに竪穴式住居がないのも気になる。
どうみても卑弥呼の時代は竪穴式住居だろう。
纒向遺跡を邪馬台国に結び付けるのはかなり無理がある。 >>674
違う。
高天原(奴国) → 八重雲(八女諸国) → 背肉(阿蘇)高千穗峯
→ 八代(球磨・熊本) 基盤作り(山彦) → 大隅・日向南部 ・・・ >>683
>どうみても卑弥呼の時代は竪穴式住居だろう。
2世紀中頃には、こんなの河内にありますよ
www.city.osaka-izumi.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/65/sone-pic.gif
それから50年〜70年、巻向施設は健全な発展です。 >>581
寝ぼけてるのはオマエだ
【突出部の内側に物見櫓を設けたのは】
という条件付きだ。出土したとは書いてないw
唐古鍵からは絵を描いた土器が多数出土。
そのうちの二つの土器の破片に「楼閣」が描かれている。
楼閣とは、2階建て以上の高い建物のこと。巻き込んだ屋根飾りを付けた建物が6棟あり、
格式の高い建物である。その中でも「楼閣」は巻き込んだ屋根飾りがたくさん付いているので
一番格式の高い建物であることが推測できる。
「唐古鍵遺跡出土」の楼閣を描いた土器の破片2個
ttp://inoues.net/ruins/karako_99.jpg
を借りたと吉野ケ里のHPで自白しているぞ
>Copyright 2018 YOSHINOGARI HISTORICAL PARK・・・
>2.復元建物等の基本設計、実施設計の検討
//www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=31
>2-1建物等調査
>個々の建物を復元するために、「全国の」縄文〜古墳時代の遺跡で見つかった「建物遺構や
>当時の人々が残した絵などの資料の調査、当時の建築技術に関する調査や建築のための道具の調査、
>さらに建築以外の関連する施設など」の調査を行いました。
と吉野ケ里のHPで自白しているwwwww
吉野ケ里出土の物見櫓、楼閣を描いた土器の画像を探してこいよ >>685
それに埋葬の遺構もない。
埋葬様式がわかれば、かなりわかってくる。
要するに、なんにも根拠がないのに、古墳が発見されればすぐさま邪馬台国に結び付ける。
これは願望がいつも先行しており、しっかりした根拠や理論がない で、邪馬台国の東に海があるわけで、
畿内だと東に海なんてない。
これも矛盾している。
メチャクチャなんだよね。邪馬台国畿内説は。 >>658
河内奈良の天孫降臨なら
日本書紀にニギハヤヒのことが書かれているじゃん。
天の磐船に乗って降臨したと。
実際はカヌーに乗って黒潮の流れを利用して日本に来たんだけど。 纏向遺跡、唐古・鍵遺跡は出土物から見ても邪馬台国に関連があるとは思えない
九州北部産の土器などほとんどないし、女王がいた場所にしては武器が出てこない
纏向遺跡は吉備との関連があるように思う
箸墓古墳で見つかった埴輪(の原型)が吉備の埴輪と同タイプだから >>42
そんな征服事業と国家建設があったら中華史に記録されないのはありえないから
お互いまだ土人同士だったのに思い上がるな 1神武 ハツクニシラススメラミコト(天下) 橿原 磐余 弥生初期 日本国建国神話
10崇神 ハツクニシラススメラミコト(クニ 国) 磐余 巻向 箸墓 3世紀・4世紀 北九州ヒミコ 邪馬台国 魏志倭人伝
11垂仁 磐余 巻向 五十鈴川の畔に伊勢神宮を立てさせられる
12景行 磐余 巻向
21雄略 5世紀後半 大和朝倉 伊勢神宮外宮設営 唐古・鍵遺跡出土の鏃は大小あって
小は狩猟用、大はは戦争用と分析してる 1神武 ハツクニシラススメラミコト(天下) 橿原 磐余 弥生初期 日本国建国神話
10崇神 ハツクニシラススメラミコト(クニ 国) 磐余 巻向 箸墓 3世紀・4世紀 北九州ヒミコ 邪馬台国 魏志倭人伝
11垂仁 磐余 巻向 五十鈴川の畔に伊勢神宮を立てさせられる 大和の東の日昇東海側に
12景行 磐余 巻向
21雄略 5世紀後半 大和朝倉 伊勢神宮外宮設営 獲加多支歯大王
ワカタケルオオキミ
第21代 雄略天皇
子毛予 美子餅 福下予 みぶくしもち
この岡に菜摘ます児 家聞かな 名のらさめ
空満 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
敷なべて 我こそ居ませ
我こそ告さめ 家をも名をも 青銅の剣、屈葬なら俺も畿内説賛成するけどね。
それすら出てこない。。 俺なら恐山行ってイタコに卑弥呼の口寄せしてもらうけどなw 部落小説で有名な「橋のない川」の作者が交流のあった中国部落のことを言っていた。
集団で渡来して千何百年も子孫だけで固まって住み
自分たちは中国人だ(もちろん今の中国のことではない)という強い自覚を持っているという。
作者は子供のころ石舞台古墳の上で遊んだ話もしてるからその周辺だろう。
なお石舞台古墳は作者の子供の頃は
土に埋まっていて天井の石しか露出していなく子供の遊び場になっていたそうだ。
ある時急に周囲の土砂を掘り下げられあの形になり見世物として整備されたという。 >>690
唐古・鍵遺跡は環濠に大量の土器が投棄されてる。
土器にも流行(はやり)廃りがあって時代遅れの土器を廃棄したのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています