【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg
県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/ >>62
つっかそれも説の一つだろ
おれは違うと思うけどね
そもそもその言葉自体が朝鮮では最近しか見られないという >>47
日本におけるすべての遺跡と出土物の情報がエクセル形式でダウンロードできるWebとかある? 雄略天皇の痕跡発掘もちゃんとしてほしいな
あの辺の天皇も分からないこと多いんだろ 日本の考古学会まとめ
日本各地で「〜原人」ブームを巻き起こした日本の旧石器時代の遺物や遺跡とされていたものが、考古学研究家の藤村新一によって事前に埋設された石器を自ら発見した捏造だったとことが発覚した。
藤村は1970年代半ばから各地の遺跡で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日の毎日新聞朝刊にスクープされ、不正が発覚。
これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の醜聞となり、海外でも報じられた。
彼のかかわった全ての遺跡について再点検が行われ、上高森遺跡をはじめ多くの遺跡が旧石器時代の史跡としての認定を取り消された。
また、中国、韓国、北朝鮮といった歴史教科書問題で日本と対立している国々では「日本人が歴史を歪曲しているのが証明された」
「一研究家だけの問題ではなく、日本人の歴史認識そのものに原因がある」と大々的に報道された。
藤村の一連の発見に考古愛好家の一部から疑問の声も出ていたが、一介のアマチュアが疑義を唱えることすら憚られる状況となっており反証・反論を行うにはリスクの大きい規模になっていた。
また政府も関連遺跡を史跡に指定するなど事件を助長させ、地域住民も観光資源の観点に偏り商業的な効果を優先させてきた実態が浮き彫りとなった。
考古学界は捏造発覚以前の25年間、捏造を批判した学者や研究者を排斥したり圧力を加える事によって、事実上の学会八分(村八分)にして、捏造批判の声が噴出する気運を押さえつけた。 >>66
ワカタケルって本当に大王だったか怪しいよな
一言主のやり取りといいさ >>62
ヤマト朝廷に朝鮮語は無いから違うと認めるんだな >>66
科学的に鉄剣の年代推定ができれば大きな進歩になるけどな。 >>67
>考古学界は捏造発覚以前の25年間、捏造を批判した
>学者や研究者を排斥したり圧力を加える事によって、
>事実上の学会八分(村八分)にして、捏造批判の声が
>噴出する気運を押さえつけた。
日本て、全ての分野でこれだよね。
質を担保しようとする理念とか情熱みたいのは、皆無だよね。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」ってのがあったけど、
正に、それだよな。 HLA遺伝子頻度%
*******A2**A24**A26***B7**B44**B46**B52**B54**DR9*DR14
伊勢*23.5*37.0**9.9**5.9*11.2**5.5*11.1**8.0*13.8**6.6
大和*24.5*38.8**9.7**6.1**8.8**4.4*12.6**8.0*14.9**5.8
吉備*24.0*37.6*11.6**6.9**5.4**4.3*11.6**7.8*15.3**7.2
出雲*21.4*37.3*12.3**8.1**6.6**5.2*13.3**6.6*14.9**7.0
日向*22.6*38.3*11.4**5.6**5.2**5.2*11.9**8.8*17.2**5.7 >>69
は?? 意味不明。
ナラが百済語だって情報入れただけだが、何言ってんの??
頭大丈夫か??
高輪ゲートウェイのゲートウェイが英語だって指摘するのと同じ。
別に東京人が英語しゃべってるわけでもない。
そもそも、なんで「朝鮮語」って話になるのか、頭大丈夫か??
当時、朝鮮語なんて地球上に存在してないよwww 二世紀に出雲王朝が勢力があった事が発掘などからわかっている
このころ、畿内は出雲に服属していたと考えてよいだろう
それが逆転したのは三世紀以降の事だったと考えられる
しかし出雲が畿内に服属した後も、畿内にとって無視できない勢力ではあったのだろう
しばしば対立があったのではないかとも考えて良い 神話を真に受けて一つの勢力が日本を統一したはずと考えるからおかしなことになる
日本はその誕生から江戸に至るまでずっと連合王国制だったと考えるべき
天皇も最初は諸侯による持ち回りだったはず >>74
出雲は高い技術を持ってたのだろうが、平野の少なさから見て
大和を服従させるほどの大国になりえたとは思わないけどな。
交流において、多少イニシアティブを持ってた程度だと思うけど。 >>79
同意
しかし邪馬台国は九州に在った ただそれだけのこと
下卑た皇国史観が戦前まで一部の人間だけでヒソヒソ
論じ合う体たらくだった
戦後は全国民の知るところとなり、学者在野総出で
論を戦わせるようになった 健全な状態だと思う 邪馬台国は畿内だよなぁ…
もし、畿内で無いなら九州の女酋長説が妥当 やっとヤマタイ→ヤマトの関連を普通に議論できるようになってきたのか? 邪馬台国以外の話もしてくれ
同じことの繰り返しで飽きた そもそも魏志倭人伝にわざわざ「共立」って書いてあるのに、どうして征服だの支配下だの妄想できるんだ?
諸国の王が大体そのまま後の国造やら県主になってるんだぜ *******A2**A24**A26***B7**B44**B46**B52**B54**DR9*DR14
蝦夷*25.3*33.8*15.4**3.3**7.3**4.2**7.2**6.7*14.3**8.2 青森
大和*24.5*38.8**9.7**6.1**8.8**4.4*12.6**8.0*14.9**5.8 奈良
筑紫*23.3*37.3*11.8**6.3**7.3**4.2*12.8**8.3*14.5**6.0 福岡
豊***24.4*37.6*12.1**6.6**4.9**4.5*12.1**8.4*16.5**6.4 大分
日向*22.6*38.3*11.4**5.6**5.2**5.2*11.9**8.8*17.2**5.7 宮崎
熊襲*23.4*36.7*11.8**6.6**7.5**3.3*14.1**8.5*16.0**6.4 熊本
隼人*26.1*37.2*12.6**4.6**5.7**4.2*10.4**9.2*14.9**7.5 鹿児島 それぞれ30数国にもその国の巫女はいたはず
その中でも卑弥呼が最も優れた巫女と認められたんやろな
それでセンターを勤めたってとこやろ
台与(イヨなのかトヨなのか知らん)は卑弥呼の宋女と言われてるが
卑弥呼は独身のまま死んだってことだから
妹なのか親戚なのかわからんな、しかし2代目センターにはなった >>51
宇佐って八幡神やろ
新羅系に乗っ取られたんじゃないか?
黒田に滅ぼされた城井も新羅系だろ? >>89
熊野と日向の相似性は知らんかったな。
吉野まで熊野の勢力圏だったことが、なんとなく伺えるな。 >>85
少しは内容読めよw
女の王を「共立」が共和制か何かに見えるのか?w
邪馬台が大乱に負けて、男の王を諦めることで「和議」が成った、
ということだよ。もう列島内で覇権を求めません、許してくださいと。
卑弥呼の死後、約束破って、男が王になったので、また戦争。
結果ぼろ負け。再度、女(臺與)を王にして、和議。 古墳時代が四世紀から始まるって言う前提で成立する邪馬台国の九州説だが、古墳時代が三世紀にまで遡り、魏志倭人伝の頃にはすでに東北から近畿にかけて交流がある大都市が近畿に存在した、って言う時点で、もう邪馬台国九州説はオワコン(笑) >>91
熊野ってのは異なる勢力との境界も意味するらしい >>93
アホかよw
三世紀頭の倭国大乱で、邪馬台が負けて権力喪失。
権力を失った邪馬台がパシリで魏に朝貢させられてるじゃん。
倭国大乱、何処が勝ったと思ってるの? 3世紀頭だよ。 >>93
>>82を見てみろ
畿内大和は孤立していて東北と交流していたのは畿内大和を包囲していた北部九州勢力だw >>78
うむむこれは不思議な資料だね
安曇とは縄文海進系の拠点で弥生米文化と交易することで生計を立てていたってことかな
それとも半島交易を担っていたのか
伊勢、尾張、越前、吉備などの土器出土の有力地とは微妙に勢力の中心地から外れているように感じるのだが
あと畿内は王権の交代はあったにせよ征服はされてないだろ
唐古鍵遺跡は主に開発と生産を担い、巻向遺跡はその後祭祀と市場を担っていたと考えられ、これはその後七世紀まで一貫している
三輪山祭祀が九州型鏡祭祀の影響を受けていることは否定しないけどね >>98
ここまで支配下に置いておきながら、何故に日向国の一族に負けたんだろう?
阿曇氏が日本各地を行き来していたのは間違いないけど
陸地の全国制覇を目論む集団ではなかったんだよ。
彼らは土着の海運業 >>89
面白かった。6枚目の写真で思い出したんだが、
浅間山なら名古屋の熱田神宮の方が断然関係してるよ。
熱田神宮から右上45度の鬼門方向に方位線を延ばすと、
諏訪大社下社、浅間山山頂、会津磐梯山山頂を経て、古代東北征服の拠点だった多賀城に到達する。
熱田神宮や諏訪大社下社って他の有名神社とちがって、めぼしいラインが他に見当たらないから、
おそらくこのために設置されたんだと思ってる。 >>86
邪馬台国東遷説と神武東征を一緒くたにするのは無理があるかもしれないな。
信用できるかどうかわからないが、大和と日向は弥生後期後半には
交流してたようなことを読んだことがあるような気がする。
それが本当なら、わざわざ熊野経由で大和に行く理由がわからない。 当時、戦の前にまず巫女同士が敵国を呪い合って、それから実際に戦った、
この巫女同士の呪い合いが実際の戦いと同じぐらい大事だった、って聞いたけど、
奈良にあった邪馬台国はこの呪いの部分が優れていて、それで武器が未発達だったと勝手に思ってるわ。 呪いは形だけで、実際には熊野辺りの連中が暗躍してただけかもな。 初代神武天皇 皇祖皇宗の威霊 日本国を2678年形成してきたのであろう 1941/12/08 真珠湾攻撃(リメンバー パールハーバー)「帝国海軍ハ 米国ニ対シ 戦闘状態二入レリ」
→ 原爆 により 1945 大日本帝国は崩壊 壊滅した >>104
実際に「呪い」の力で勝てるんならいいんだけどね
古代の人々もそうじゃないと分かってたから、青銅の武器を作ったり鉄器を中国から輸入してたんだと思うけど >>103
熊野の手前の和歌山で神武軍は殺戮しているのだが
そこは新羅人の居住地だったようだ
竹中平蔵の縁故地
ttps://ugaya.jimdo.com/2015/05/24/ナガスネヒコ一族が逆襲して-大和王朝となった可能性/ >>109
その時代にそのあたりで半島の人が定着してた可能性があるんだね。
2世紀には大陸や半島の人が大和地方や葛城の方にいたとしたら、
巻向の規模の大きさを祖国に伝えてる可能性がある。
日本のどこの国よりも大きいと。
そうなるとそれを記録したりするはずだから、やっぱり邪馬台国は巻向だろうと思ってる。 邪馬台国→ヤマト政権
神武東征はどうなるんだよおいw 日本の古代史は本当にダメダメだな
イギリスやドイツやフランスなんかちゃんと国の成り立ちがわかっているのにこの有様
国外からみた古代史像(邪馬台国)と国内の神話等からみた古代史(大和朝廷)がこれだけ乖離しているのって本当に珍しいぞ >>102
それが本当に計画的に配置されたという話なら、
確か西洋では15、6世紀辺りに可能になった経度の測定が、
東洋ではとっくの昔にできてたことになりそう。
経度の測定方法に関わる東洋の文献とか残ってないのかな。 >>99
半島の南東部から沖縄近海の貝製品が出ているので、彼らが縄文時代から既に半島と接触していたのはほぼ確実と見られる
そうなると狗邪韓国が魏志の韓伝ではなく倭人伝に書かれ、倭国の北界と記されているのはそこにいたのが倭人だったからと見るのが妥当だろう
古墳時代前期あたりは確実にまだ鉄が国産化されていないと考えられるので、彼らが海を渡り
朝鮮半島から手に入れるしかなかったと思われる
九州北岸から半島までは壱岐・対馬経由ならば各陸地が目視できるので迷うことはないが、九州から半島に向かう際には
対馬海流の激流に逆らって船を漕がなくてはならない
このため海を渡っていたと思われる人の骨は農耕民に比べて上半身が異常に発達していたらしい
“マッチョ”な弥生人 その正体は!?
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html
> 弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で
> 古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。
> “マッチョ”な理由を探ってみると、古代人たちの知られざる営みが見えてきました。
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_eyecatch.jpg >>102
こういう「〜を真っ直ぐ延ばすと〜にぶち当たるからゴニョゴニョ」って人は、そのころまともな地図があったって思って言ってるの??? 畿内は魏志にある東の別国。
いつになれば理解できるんだ。
記紀にある古代史は天智が改竄したもの。
漢の時代から外交で半島、大陸とコミュニケーションが取れた人材は九州にしかいないよ。 >>99
彼ら海の民の中でも高い身分の者は、南海産のゴホウラ貝で作った貝輪を腕につけるのが縄文時代からの伝統だったが、
弥生時代中期以降、青銅でこれを模した有鉤銅釧がこれに取って代わる
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm
>南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
>古墳時代前期前半で終焉に向かいます。
この有鉤銅釧の分布を見ると、>>78に似た分布を示し、尾張や越前、吉備、そして畿内の玄関先である大阪湾岸からも多く出ている
この地域に海人の高位者が地盤を持っていた証だろう
そして有鉤銅釧の鋳型は現在のところ北部九州、それも福岡平野から筑紫平野にかけての地域からしか出土がない
そこが本国で、各地に出張った有力者に有鉤銅釧を授けて送り出したのだと思われる
銅釧出土地
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png どうせ古すぎて解らないんだろwww
堂々巡りになるのが解っていて研究してるんだろうwww
税金が勿体ない 纏向遺跡からは北九州産の土器がほとんど出ない
北九州との交流がほとんどなかった事を示してるんじゃないの
伊都国などは北九州に比定されてるじゃん
帯方郡の使者を迎える大事な玄関口
北九州との交流がない時点で邪馬台国の可能性は低いと思う >>118
グローバル企業の本社と現地法人みたいなもんじゃないの? >>99
なお関東には九州とは別系統の海人がいたようで、帯状円環型銅釧(>>118の銅釧分布図の白丸印)は関東系の
オオツタノハ貝輪を用いた海人の縄張りと思われる
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
ここに九州系の有鉤銅釧が相当数重なって分布しているので、九州の海人が関東の海人の縄張りに攻め込んだことが考えられるが、
実はこの東方の有鉤銅釧出土地をよく見ると、ヤマトタケルの東征伝承の地と多く重なっている
草薙剣で火難を逃れた焼津、海上で波浪に遭って后が入水した横須賀、その后を思って過ごしたという木更津、
白い鹿を討ったという足柄峠など、これらがいずれも九州系の有鉤銅釧の出土地になっている
つまり九州海人にとって畿内征服は最終目標ではなく、そのさらに東の地域を征服するための通過点だったのだろう
縄文時代に既に関東とも貝の交流があった彼らにとってはその視野は自然なものだと言える
東海以東への進出をも視野に入れていた彼らにとって、本拠地が九州のままでは遠すぎて指令を出すのに不都合だったため
本州西部では最後まで抵抗した畿内を陥落させたのを機に、そこに前線司令基地を作ったのがヤマト政権の起こりだと考える
しかし東西に広い日本を広範囲に支配するにはむしろ畿内のほうが地理的に好都合だったため、やがてそちらが中心となっていったのだろう
いっぽう旧都の九州北部は徐々に衰退していき、恐らく白村江の敗戦で決定的に放棄されたものと思われる >>120
纒向はどうみても邪馬台国じゃないよね。
だからといってヤマト王権か?というとそれもどうかなと思う。 >>79
九州にはもっとあるよ。よく勉強しような? >>121
その可能性は否定しない
陥落とかいう表現をしたけど、必ずしも武力によったとは限らないしね
縄文時代から海上交易で様々な遠方の物資を持ってきた彼らは尊敬もされていただろうし、混血もあったと思うので
案外あっさりと連合を組めた可能性もある
ただ、相手が従わない場合は武力による制圧もオプションの一つとしてはあったように思う
その場合彼らには下記の3つの利点があり、戦いを優位に進めることが出来ただろう
特に3は重要であったと思う
1.体型が変わるほど過酷な船漕ぎで鍛えられた腕力
2.半島から手に入れた鉄で作った優れた武器
3.長年の交易で手に入れた地理の知識
縄文時代からの交易で彼らは日本沿岸の何処にどんな勢力がいてどの程度の力を持っているかをおおよそ知っていただろう
それどころか、物々交換のために集落内部まで入れたとすれば、城柵や堀の配置、指導者の住む館の場所まで把握していたかもしれない
つまり、彼らがその気になれば船で前触れも無く現れ、防御の薄い場所から一気に大将の首を狙いに行けた、ということである
これは当時の争いにおいて決定的な優位性であったと思われる
おとなしく従うものとは手を組み、まつろわぬ者には恐怖の電撃戦を仕掛ける
これが海人が広範囲に勢力を伸ばすことが出来た原動力だったのではないか >>82
大体から滋賀県は志賀県だからな?九州北部の方が宗家なのは言うまでもない。 238年公孫淵の反乱をおさめたその年に朝貢
266年西晋建国の同年に朝貢
ヤマトの中央にお伺いを立ててから使者を派遣してたら時間がかかるのに
対応が早い
纏向と伊都国の信頼関係みたいなものがあったんじゃないか
あと桜井市三輪山ふもとの大神神社は
福岡県旧三輪町の大己貴神社を模して作られて
周辺の地名も一致してるところが多い
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/fa/8bb155e98cf905ea32b65ac219bdcbb9.jpg >>98
三輪は筑前の朝倉(朝闇あさくら)に元宮がありますよ。おんがさまですね。おおみわは新しい読み方。古代はおんがと読んでいた。遠賀川も古代は大神川と書かれていた。 >>120
ブラジリアのような政略的な新造首都とみなしても良いと思う。
首都建設負担は周辺国、特に開発地である東側が多いので、
伊勢、東海の負担が多かったとすれば、隣国の狗奴国にあっさり負けるのも納得できる。
北九州が外交の中枢、支配機構の先進である事は文献的に認めるが、考古学的には文化性と開発性(統治性)で劣ってなかった。 >>130
地名が似てるって、
古事記の国譲りのように、都市移転があったのでは
国津神→天津神 九州説ってロマンあるよね でもロマンはロマンだから
それがあたかも史実だと主張しちゃダメです 海人が縄文時代から既に全国と交易する力を持っていたということは、後漢の光武帝に朝貢して
漢委奴国王の金印を貰ったのも恐らくこの海人たちの国であったと思われる
>>114の通り、対馬海流に逆らって半島そして大陸まで行くのは容易ではないので、航海に長けた彼らでなければ難しかっただろう
海人の最大勢力・安曇氏の本拠地は福岡県志賀島であり、ここから金印が出土したのも当然といえる
たまに「何故金印が志賀島なんかに?」と言う人がいるが、それは弥生時代=稲作農耕というイメージが出来上がってしまっているせいだろう
確かに稲作の観点からのみ言えばあんな島には何の価値もないと言っていい
だが実際には当時日本の広範囲に力を持っていたのは海上交通を制していた海の民であり、その本拠地が志賀島であるという認識に立てば
金印が志賀島にあるのは至極当たり前であり、そう認識を改めるのが当時を理解するのに重要だと言えるだろう >>122
ヤマトタケル伝承とも関連するのか、面白いな >>111 記紀のファンタジーによると西暦紀元前だから卑弥呼と関係ないw 記紀によると纏向の辺りに都を築いたのは第十代祟神天皇第十ー代垂仁天皇第十二代景行天皇
この垂仁天皇の時代には都怒我阿羅斯人や天日矛といった渡来人の伝承がある。
このうち都怒我阿羅斯人の行程は道に迷って遠回りをしており、魏志倭人伝の行程にも似ている。 >>115
高い山に登って望遠鏡の脚の一本を北極星の方に向けて
夜、刻限を決めて双方から花火を打ち上げて方向を確認したんだよ。
花火の見えた方向が3地点で一直線になるまで繰り返せば
中間の地点を決定できる。 >>138
それは日本書紀な。
古事記は在位期間が日本書紀より長めだけど記載のないのも多いんだ。
記紀の年数表記はあてにならないというのは同意。
また雄略天皇以降は暦が正されたらしく誤差がなくなっている。 クロネコヤマトって何でクロネコヤマトって名前なのだろう >>111
記紀の最初のほうは神話で、それは天皇(大王)やそれ以外の豪族の伝承を組み合わせて、
編纂当時の持統(元正)天皇から孫への継承を正当化する意図も含めて創作されたと思われる。
そのため神武東征も、邪馬台国系の豪族の伝承を元に作られたのかもしれない。 >>13
すでに書いてるけど
モロッコじゃなくてシエラレオネなら南東じゃん
重要なのはモロッコの位置じゃなくてワシントンD.Cから南東を指すという事
そういうの理解できないのかな?
どうせ揚げ足取りしかできない畿内説だし、しょうがないか >>139
辺鄙なド田舎から「漢委奴國王」印wwwww
その頃から村おこし、町起こしして観光で儲けようとした黒田藩 >>130
一部だけじゃなくて全体に位置関係や配列まで似てるっていうのが面白いな
一族や身分ごとに住む位置が決まっていた感じかな >>144
神話も、元々は何かしらの史実があっただろうから
東遷も国譲りも、
そのままではないかもしれないが似たような事があったんだろう >>137
ヤマトタケルが女装してクマソタケルを討ったのは有名だし時代もすごく近い可能性があるね >>53
東や南にしか進まないのに北上したことにするのは
自分ルールだよね
畿内説は自分ルールなのか >>147
ど田舎と馬鹿にするけど今の基準じゃなく弥生時代の基準で考えないと
志賀島からは弥生時代の遺跡が多数発見されていて弥生時代中期の銅剣の鋳型も見つかってる >>141
なんかよくわからん
もうちょっと詳しく そもそも記紀なんて天武天皇の時作り始めた(らしい)のに、天智天皇の逝去が曖昧なくらいなんだから、
神代の記述なんてあんまり信用できないよね。 雄略天皇は鉄剣からほぼ確定、
宋書等から履中まで推定可能だが、
記紀にはその代での朝鮮半島進出が書いてないな。
朝貢も安東大将軍とかも全く書いてない。 >>60
じゃあ君の解釈で末廬国、伊都国、奴国、の位置関係はどうなるの?
説明が付かないから魏志倭人伝の記述はデタラメだとしか言えないじゃないかw
魏志倭人伝の記述を信用するなら魏使の上陸地点は呼子か名護屋浦だし
伊都国は糸島市の東南部、奴国は福岡市周辺、不弥国は那珂川町、春日市付近となるだろ。 >>92
よくわからん
>邪馬台が大乱に負けて、男の王を諦めることで「和議」が成った、
これは邪馬台国VS他の倭人国という構図なのか?
だとしたら男王をあきらめるとかそんなまどろっこしいことじゃなくて
邪馬台国を引きずりおろして別のどこかの国が代表になればいいんじゃないか?
もしかして、他国が邪馬台国の王を男から女に変えろと言ってる設定なのか?
>卑弥呼の死後、約束破って、男が王になったので、また戦争。
そういう話は成り立つかな? >>73
うむ
朝鮮人のデタラメな話を返されても、誰も支持してないんでな
反論不可とみなし朝鮮人の敗北だろう
ナラは朝鮮語ではない
ヤマト朝廷には朝鮮語は無いって事だ 邪馬台国の場所はハッキリしないが、魏で皇帝に会った使者は九州の人。そして邪馬台国の本当の名前は「やまと」。
皇帝に謁見の時にあまりに緊張しすぎたか長く待たされてイラついていたのかわからないが、「何処から来た」の問いに、つい方言が出てしまって「やまとタイ!」と。
しかも早口だったので「やまっタイ!」にしか聞こえなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています