【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg
県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/ >>620
これだよねぇ。
奉詔書印綬詣倭國,【拜假】倭王
倭王は文脈的には卑弥呼になるがこれもこれで疑ってる。 >>646
それはあんたの創作じゃんかよwwww
交流があったから伝説を作る?アホらしいwwwwwww
交流なら西日本どころか、中国とも朝鮮とも交流があったのだから
中国や朝鮮との神話創作をつくってくれよwww
権威というのはそうじゃないんだよ。
例えば、聖書でもイエスの母マリアは神様からイエスを身ごもったとされる。
それは創作だろう。だけど、イエスやマリアの存在は史実だ。
つまり、100%の創作ではなく、創作に史実を入れ込んでる。
古事記や日本書記はそれと一緒sだわ
他人の嘘だって100%嘘ではない、本当のことと嘘を混ぜてる。
古事記も日本書記も高千穂を天孫降臨の地にしなければいけない理由があるんだよ。
高千穂や日向が大和朝廷のルーツであるということは創作でもなんでもない >>655
天孫降臨の伝承は奈良県御所市にもあるね。 >>657
だったら古事記や日本書記に奈良の天孫降臨の神話がないといけない。
でも、書かれていない。
大和朝廷は日向がルーツだからこそ、古事記や日本書記に高千穂の天孫降臨神話を書いたんだよ。
そうしないといけなかったんだよ。 東征はかつての倭王の末裔を自称する為に作られた
神話なんじゃないかと怪しんでる
戦国武将が家は源氏だ平家だ言うのと同じで >>625
会稽東冶が東治の誤りであることは魏略から分かる
朱崖・ダン耳が海南島であるというソースはない
白を黒と言い張るのはやめなさい 邪馬台国や倭の五王のことが判明するのてもう絶望的なの? 事実
238年 倭の女王、使者難升米、都市牛利を派遣。魏王と会う。
240年 帯方太守、使者梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣。
243年 倭の女王、使者伊聲耆、掖邪狗を派遣。
245年 帯方郡を通じて難升米に黄幢を下賜するよう詔。が果たせず。
247年 帯方太守、使者張政らを難升米に黄幢を持って倭国に派遣。
(卑弥呼死す、壹與立つ、張政帰す) >>661
五王は事績がほとんど書かれてないから厳しい
邪馬台国は親魏倭王の金印か、配下が貰った銀印、もしくはそれらの印が押された封泥が出れば決着するかもしれない >>652
葛城の何所?
ないな
古墳中期以降なら少しだけ肯いてやってもいいが >>658
だいたい記紀の高千穂の場所が特定されてる描写も無いんだよね >>658
ニギハヤヒという神武より先に奈良に降臨した者がいたと記されているだろう 日本書記には卑弥呼=神功皇后みたいな書き方をしてるが独身、旦那もいるし子もいるとか無理がありすぎる >>642
Q なぜ東遷しなければいけない話をつくった?
A 東遷してないからw
列島の歴史的権威、西の邪馬台(やまと)からその権威を奪ったので、
権威の断絶が起きないよう、滅ぼした邪馬台の記憶を神々に仕立て、
その神が東にやってきて奈良で子孫を作った、という話にした。
奈良 「俺たちは、西からこの国を作った神々の子孫だぞ!」 (どや顔)
ってな具合。 吉備との繋がりは箸墓の頃だけと見た方が良さそうだけどな
その後畿内は独自発展する
対して吉備は四道将軍の派遣後文化的に衰退する
これは半島征伐の頃に国力を使ったからと見ていて、北九州も出雲も似たような変遷を辿っているな
畿内ヤマト政権は倭国弱体化のために三韓征伐を利用した節が見てとれるんだよな
半島で得た利益は畿内が独占
騎馬文化や鉄が潤沢に流入する
その後巨大古墳の時代になるのもそういうことじゃないかな >>657
それは葛城氏が高御産巣日神の後裔という面があるから >>667
奈良が滅ぼした邪馬台の記憶、卑弥呼を天照に昇華させてる。 お前らの知識は深い深すぎるんじゃ
もうずっと前からついていけん 高天原(大和)→天孫降臨→高千穂(日向)→東征→橿原(大和)って感じでしょ >>668
最近は綿ツミ海人族が東進したことを文献史学の人間が考古学の業績をもとに語る時代だからな
東遷や東進は何度もあったんだろね >>664
それは俺も聞いた。
確かに5世紀とかになると確実なんだけど、じゃあ2世紀はどうなのかと。
その時にはっきりとは覚えてないけど、何かの伝承があるらしいことは聞いた。
また今度聞いてみる。
それとは別に神武天皇の討伐でどこだったか、その周辺で新羅から来た人が定着してた所を討ったとかいうのは誰か前スレか何かで言ったよね。
俺自身はそこまで詳しくないので、人から聞いた程度しか書けないけど。 >>674
ちがう。
日向狗奴国、南九州征服→狗奴国 北九州侵攻・邪馬台国討伐→狗奴国東遷→畿内大和政権誕生 >>665
六人惨殺のあった熊本大分県境に近い高千穂町の高千穂なのか
鹿児島県との県境のあたりにある高千穂峰なのか
争っているみたいだし
高千穂が何処か記されていないからな
日本書紀には日向国、古事記には日向と記される箇所があって
古事記肯定の立場からは日向が日向国ではないとすら主張されたり
まあグダグダだねえ 考古学なんて
たった一つの文献と
今までたまたま彫り合ってた範囲の資料をうきあわせてるだけで
まったく科学的じゃないんだよなぁw >>678
ズレているなw
特定されていないのは日向。
古代日向がどこからどこまでの範囲かはわかっていない。
だけど、東遷の舞台の美々津は特定されてる。
高千穂だって、観光地の高千穂じゃなくて、高千穂一帯はわかる。 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 古代日向と今の日向は違う。
今の日向市と、古代日向と混同しちゃいけない。
まあ、邪馬台国の話しに戻るけど、畿内を根拠にする証拠がまったくわからない。
例えば纒向遺跡。
まず、邪馬台国は朝鮮と頻繁に交流し、中国とも交流してるのだから、少なくても朝鮮製の遺物が発見されないといけない。
それに竪穴式住居がないのも気になる。
どうみても卑弥呼の時代は竪穴式住居だろう。
纒向遺跡を邪馬台国に結び付けるのはかなり無理がある。 >>674
違う。
高天原(奴国) → 八重雲(八女諸国) → 背肉(阿蘇)高千穗峯
→ 八代(球磨・熊本) 基盤作り(山彦) → 大隅・日向南部 ・・・ >>683
>どうみても卑弥呼の時代は竪穴式住居だろう。
2世紀中頃には、こんなの河内にありますよ
www.city.osaka-izumi.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/65/sone-pic.gif
それから50年〜70年、巻向施設は健全な発展です。 >>581
寝ぼけてるのはオマエだ
【突出部の内側に物見櫓を設けたのは】
という条件付きだ。出土したとは書いてないw
唐古鍵からは絵を描いた土器が多数出土。
そのうちの二つの土器の破片に「楼閣」が描かれている。
楼閣とは、2階建て以上の高い建物のこと。巻き込んだ屋根飾りを付けた建物が6棟あり、
格式の高い建物である。その中でも「楼閣」は巻き込んだ屋根飾りがたくさん付いているので
一番格式の高い建物であることが推測できる。
「唐古鍵遺跡出土」の楼閣を描いた土器の破片2個
ttp://inoues.net/ruins/karako_99.jpg
を借りたと吉野ケ里のHPで自白しているぞ
>Copyright 2018 YOSHINOGARI HISTORICAL PARK・・・
>2.復元建物等の基本設計、実施設計の検討
//www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=31
>2-1建物等調査
>個々の建物を復元するために、「全国の」縄文〜古墳時代の遺跡で見つかった「建物遺構や
>当時の人々が残した絵などの資料の調査、当時の建築技術に関する調査や建築のための道具の調査、
>さらに建築以外の関連する施設など」の調査を行いました。
と吉野ケ里のHPで自白しているwwwww
吉野ケ里出土の物見櫓、楼閣を描いた土器の画像を探してこいよ >>685
それに埋葬の遺構もない。
埋葬様式がわかれば、かなりわかってくる。
要するに、なんにも根拠がないのに、古墳が発見されればすぐさま邪馬台国に結び付ける。
これは願望がいつも先行しており、しっかりした根拠や理論がない で、邪馬台国の東に海があるわけで、
畿内だと東に海なんてない。
これも矛盾している。
メチャクチャなんだよね。邪馬台国畿内説は。 >>658
河内奈良の天孫降臨なら
日本書紀にニギハヤヒのことが書かれているじゃん。
天の磐船に乗って降臨したと。
実際はカヌーに乗って黒潮の流れを利用して日本に来たんだけど。 纏向遺跡、唐古・鍵遺跡は出土物から見ても邪馬台国に関連があるとは思えない
九州北部産の土器などほとんどないし、女王がいた場所にしては武器が出てこない
纏向遺跡は吉備との関連があるように思う
箸墓古墳で見つかった埴輪(の原型)が吉備の埴輪と同タイプだから >>42
そんな征服事業と国家建設があったら中華史に記録されないのはありえないから
お互いまだ土人同士だったのに思い上がるな 1神武 ハツクニシラススメラミコト(天下) 橿原 磐余 弥生初期 日本国建国神話
10崇神 ハツクニシラススメラミコト(クニ 国) 磐余 巻向 箸墓 3世紀・4世紀 北九州ヒミコ 邪馬台国 魏志倭人伝
11垂仁 磐余 巻向 五十鈴川の畔に伊勢神宮を立てさせられる
12景行 磐余 巻向
21雄略 5世紀後半 大和朝倉 伊勢神宮外宮設営 唐古・鍵遺跡出土の鏃は大小あって
小は狩猟用、大はは戦争用と分析してる 1神武 ハツクニシラススメラミコト(天下) 橿原 磐余 弥生初期 日本国建国神話
10崇神 ハツクニシラススメラミコト(クニ 国) 磐余 巻向 箸墓 3世紀・4世紀 北九州ヒミコ 邪馬台国 魏志倭人伝
11垂仁 磐余 巻向 五十鈴川の畔に伊勢神宮を立てさせられる 大和の東の日昇東海側に
12景行 磐余 巻向
21雄略 5世紀後半 大和朝倉 伊勢神宮外宮設営 獲加多支歯大王
ワカタケルオオキミ
第21代 雄略天皇
子毛予 美子餅 福下予 みぶくしもち
この岡に菜摘ます児 家聞かな 名のらさめ
空満 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
敷なべて 我こそ居ませ
我こそ告さめ 家をも名をも 青銅の剣、屈葬なら俺も畿内説賛成するけどね。
それすら出てこない。。 俺なら恐山行ってイタコに卑弥呼の口寄せしてもらうけどなw 部落小説で有名な「橋のない川」の作者が交流のあった中国部落のことを言っていた。
集団で渡来して千何百年も子孫だけで固まって住み
自分たちは中国人だ(もちろん今の中国のことではない)という強い自覚を持っているという。
作者は子供のころ石舞台古墳の上で遊んだ話もしてるからその周辺だろう。
なお石舞台古墳は作者の子供の頃は
土に埋まっていて天井の石しか露出していなく子供の遊び場になっていたそうだ。
ある時急に周囲の土砂を掘り下げられあの形になり見世物として整備されたという。 >>690
唐古・鍵遺跡は環濠に大量の土器が投棄されてる。
土器にも流行(はやり)廃りがあって時代遅れの土器を廃棄したのか。 >>696
埋葬のこと持ち出したら九州説なんか吹っ飛んじゃうじゃん 気になってぐぐってみたら橋のない川の部落のモデルって葛城郡の村だったわ。
中国人部落とか独自の伝承や文書隠し持ってておかしくないわ。
だれか調べてる人いないのかな。 ヤマトは、奈良であってる
倭の勢力圏は奈良まで
その東が日本
倭は自分たちの神を、美称し、ミをつけて、ミワとした
これを祀るのが、大神神社
信仰してたのは、ヘビ
だから、巻向
ちなみに、ヘビ信仰は、世界各地にある
で、太陽信仰してたのが日本
伊勢湾北部、木曽三川の河口域が本拠
いわゆる狗奴国は、桑名(く(は)な)国、
その東の名古屋の氷上姉子神社が信仰上の本拠地
ここにいたアマテラスが、
「あそこ(中津国)は、我々の支配下においた方がよくね?」
(西側と交易しやすくするため)
と言って、支配下においた
これが、ヤマト
ここにいた一部の人は残ったが、多くの人が土地を追われ、
出雲、朝鮮へと逃れた
これが、倭国大乱
ちなみに、ヘビ信仰は、しめ縄として残っている >>699
嘘ばっかり
石舞台古墳の封土ははるか以前から剥ぎ取られていたよ
その近くの部落なら蘇我氏の郎党だろう
蘇我馬子の自宅も石舞台の近くにあったから
蝦夷入鹿が殺された後に懲罰として石室を剥き出しにされたというのが定説
旧蘇我氏郎党は被差別に落とされたのだろう >>698
大川隆法氏に頼んだら?
卑弥呼ですって何を話すのか
場合によっては畿内説九州説の論争に終止符が打たれる
卑弥呼が畿内or九州って言うんならしゃーないわなで終わり アメノタリシ アマテラス
ヤマト 邪馬台国
本当、紛らしい名前つけよるな >>703
ヘビ信仰は出雲や関東の縄文
ミシャグジ様という神はヘビでしょう
邪馬台国の習俗として有罪無罪が判然としないとき、蛇を入れた壺に手を突っ込ませて咬まれなければ無罪というのがある
太陽信仰でなく蛇信仰であり出雲や出雲影響下の時代の畿内であったか
北部九州にも巨大なしめ縄の神社があり蛇信仰だったのかもしれない
天孫神社ではしめ縄が無いのは封じる対象ではないから >>688
畿内説だと方角がずれてるって話で、当然この東というのは北になるわけで、
日本海やひょっとしたら琵琶湖が示されているのかもしれない。 皆既日食=天の岩戸伝説。年代的には合ってるんだっけ? >>699
石舞台の周辺は蘇我氏や葛城氏の使っていた奴婢部落だらけ
後漢霊帝の後裔の東漢は朝鮮半島難民とは違う全く上の立場 記紀は焚書されてるからまったく信用できないが
中国の記録も唐書に倭国と日本国が別に書かれてたりと又聞きだからあまり当てにならない >>707
>邪馬台国の習俗として有罪無罪が判然としないとき、蛇を入れた壺に手を突っ込ませて咬まれなければ無罪というのがある
んな記述は魏志倭人伝には無いけど?
近しい記述に、何かあったらすぐに骨を焼いて卜をするとはあるけど
なにか別の文献と勘違いしてない? 古事記って太古の歴史物語、たかまがはら=縄文の各地の村村社会 地上が志那大陸からの技術が拡がり定着した弥生地域 使いを出しても暮らしが善くて戻らない 結局 縄文村村も善い暮らしを目指し交流推進することに統一国家代表を縄文村から推挙し日本国と名乗り今に続き 九州から関東にかけて諸国乱立の中、大陸諸国のうち魏と交流のあった割と大きな国
というイメージで良いのだろうか >>709
肝心のアマテラスの岩戸隠れが何年の出来事なのかがわからんのだけどね。
247年3月24日に大きな日食があったと言う中国の記録はあるが、それに関しても、日本では皆既日食ではなかったと
わざわざ国立天文台が計算してくれてる。
日食の見え方というのは、当然目撃地点の緯度経度で変わるからね。
NASAのサイトの何処かに、緯度経度を与えて日食のシミュレーションができるのがあった気がする。 >>560
邪馬台国は3世紀、神武東征とかいう神話が史実として紀元前600年
時代が全然違うからなあ、どうだろ ニギハヤヒ系→ナガスネヒコ
ニニギ系→神武天皇
↑大元を辿れば同じ系統
…という大きな戦いが畿内であって、
ニギハヤヒ系→ニニギ系に変わったことを
示唆してるのが神武東征の話。 >>717
いやだからその紀元前600年がおかしいと思わないのか >>712
熱湯に手を入れるくがたちとごっちゃになってるんではあるまいか 記紀による超ざっくり(笑)時系列
@出雲の国譲り
Aニニギが九州に天下り
Bニニギの子孫である神武が東征
C畿内でニギハヤヒ系のナガスネヒコと決戦
D神武天皇即位 夜中にすごく伸びてたので読んでみたけど
なんか途中でループしてないか? >>710
石舞台のあたりの明日香村って宮跡とか蘇我蝦夷・入鹿の邸宅などがあって一時は天皇を凌ぐ権勢で
蘇我氏は東漢氏に命じて使役する立場だったのにね。
逆賊のようなものだしね。
平安初期には完全に没落した。
韓国の大統領は任期が終わったら猛烈な誹謗罵倒を受けて刑務所の囚人になるけど、
日本の飛鳥時代奈良時代はもっと凄まじいものだったのだろうね。 >>720
クガタチと蛇甕裁判のことは隋書倭国伝にある。
魏志倭人伝にはどっちも書いてなかったかと、わ、 >>719
おかしいと思うが、そもそもカムヤマトイワレビコさんの先祖が天から高千穂に降りてきたとかもおかしいし…
紀元前600年の他にもおかしいとこだらけで突っ込みだしたらキリが無い 紀氏で周帝国の武帝の兄たちが南下し呉の国を興し三国志の後に呉王の紀氏が縄文期に来て生活水準改善向上を技術をもって拡め定着させ、あくまで縄文人の延長と想われ ヤマト朝廷を築き 記紀に書いてあるんだけども、
なんか生きてた年数がおかしくね?本当に有難うございました。
…って思う天皇は、60か120か180かマイナスすれば、その年数のどれかが正解だな。
独自の元号も大事だけど、西暦みたいな共通のものって大事だよねって思う。
記紀を書くときに中国の元号も使えたんだろうけど、消したんかな。
てか、もうすでに訳わかめ状態だったんかな。 東遷は九州民に向けた九州は近畿ヤマトの本元宣言
九州独立させないための
フェイク神話だろ >>726
ただ、皇紀元年は、神々の神話と人々の歴史との接続点だからなあ。
神話の世界は荒唐無稽でも良いけど。 >>557
やれやれ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) .
神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 >>729
あー、干支は正しいって説なのか。で、神武の時の庚申に合わせて干支の一回り(60年)の倍数分を増やしたと。
じゃあ、それで歴代の天皇を整理し直したものってどっかにある? >>561
あそこは本当は阿蘇文化圏だから社伝でも神武天皇とは無関係な昔話が読み替えられ
太郎とかおかしなことになっている >>434
いや、紀によると仲哀天皇崩御が仲哀9年2月6日で、応神天皇の誕生日は同年の12月14日なんだよね。
一応、突っ込まれたときに言い訳できる設定にはmなっているw >>729
天皇の寿命を現実的なものにして色んな学者が神武天皇即位年を推定した表があったんだけど、
3世紀後半に比定しているものばかりだった記憶がある。 ★★★チベットの独立は、日本の核心的利益である★★★
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3●729/1226114724/78
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記紀に美々津は出てこないよ
だいたい地形を見れば唐突に船出を考える場所じゃないだろう
後の世に外から船がやってきて港に使えるとされた場所だよ >>740
たしかになあ。
記の書きっぷりだと、どう考えても武内宿禰×神功の共謀だw >>715
その時に日食で太陽がかけて巫女として失格と卑弥呼が殺されたって説もあるけど、
日食は長くても数分で終わり実害ないよね。
天の岩戸の話は実は噴火による火山の冬とする説も有力だよね。
NZのタウポ山がAD181年に大噴火で中国文献にも中国で異常気象と倭国で飢饉とある。
この後に倭国大乱を収めた卑弥呼が女王になったとか。
卑弥呼がアマテラスは本当かもね。 ヤマト王権樹立が日本国建国と同義よな
日本の歴史は1800年近くあるのか、凄いな >>735
整理しなおしたものの存在はわからんけど、
この人は正確だろなって人から代を遡って怪しい人を訂正してけば、全体が正確になるんじゃないかな。
成り立ちのざっくりした流れは神話という形で後世のために記しつつ、
でも、権威のために歴史を中国より長くみせたいから年数は水増ししてって感じなんじゃないかな。 >>738
欠史八代は一般的には実在せず、崇神天皇が確認できる初代と言われてるけど実在してるとする説はそうなるよね。
とはいえ欠史八代の頃の天皇家は大和葛城地方の地方領主でしかなかったそうだし。 >>741
陸路で北に向けて行軍して陸行が困難になる地点が美々津だね
以北は山が海に迫って船で異動するのが理に適う >>740
三韓征伐に反対したんだろうねえ
武内宿禰とされる有力豪族らが仕切っていたんだろう
これが四世紀の度重なる海外遠征だとすると
この頃の畿内勢力には半島系倭人やツングースまでいたのだろうなあ
天皇排除しても遠征するのは半島を故地とするからだろね >>744
天皇家ヤマト政権の前から奴国や邪馬台国などの国はあったんだから
日本の歴史はヤマト政権以降って説にはどうかな?と疑問をもつ。
なお個人的に「建国記念の日」はヤマト政権が有力豪族による連合政権から
天皇中心の帝国として法律が整備され日本という国号を使いだした天武天皇の時代がふさわしいと思ってる。 >>729
魏志倭人伝の邪馬台国の記述でも、人々は100歳や、80歳あるいは90歳まで生きるとあったり
倭国には、まだ暦の概念もないとも書かれてたり。
記紀の年齢の記述もそうだけど、年に2歳齢をとる風習があったのではないかな?
春になると苗を植えて1歳
秋に稲を刈って1歳
太陰暦が公式に採用されるのは大宝律令からの話だしね。
弥生人の平均寿命がーと言う人もいるけど、平均寿命と言うのは0歳で亡くなった子供も含んでるため
乳児生存率の低い時代は平均寿命は極端に落ちる。
弥生時代の乳児生存率は50〜60%程度で、平均寿命は30歳と言われている。
つまり生まれた子供の半分強は1歳になるまでに亡くなっていたが、生き延びた人達は50〜60歳程度までは生き残ったという意味。
勿論食糧不足から栄養失調で亡くなったり、ちょっとした病気で亡くなったり今のようにご長寿ではなかったろうけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています