0001次郎丸 ★
2019/01/20(日) 08:23:12.01ID:fAv5H16b9https://i.imgur.com/VBpuqS0.png
「工作部家」と書かれた鉄砲鍛冶屋敷の絵図の一部。銃の組み立てなどの作業が行われていたとみられる=2018年12月、矢追健介撮影
江戸時代前期に建てられた鉄砲の生産現場として全国で唯一残る堺市堺区の鉄砲鍛冶屋敷について、絵図(平面図)が発見された。屋敷に残る約2万点の古文書の中から、市と関西大が見つけた。屋敷の変遷や具体的な製造場所も判明。
研究者は「近世の鉄砲製造の実態は知られておらず、一級の史料だ」と評価している。市は2023年の屋敷の一般公開に向けた整備に反映させる。
屋敷は約960平方メートルの敷地に主屋、座敷棟、道具蔵、俵倉などが建つ。1660年代には鉄砲鍛冶をしていたとされる井上関右衛門家が所有し、現在は市に寄贈されている。
井上家は伊予(現在の愛媛県)の大洲藩から報酬を得て鉄砲を作り、高い技術力を背景に全国の旗本や大名からも注文を受けて発展。
創業は業界では遅い方で、当初は小規模だったが、江戸後期には五鍛冶と呼ばれた堺の先発業者を超え、年間200〜300丁を手掛けるトップメーカーとなった。西洋式銃も作り、明治以降も猟銃などを作っていた。
今回見つかった屋敷の平面図は江戸〜明治に描かれた5枚。屋敷の間口は、1689年以前は6間(約11メートル)だったが、1825年には現在と同じ17間半(約32メートル)になっていた。
古文書を調べている藪田貫・関西大名誉教授(日本近世史)は「メーカーの発展に伴って屋敷を広げていった様子がよく分かる」と解説する。
また、現存しないが、屋敷裏手に「ふいご部屋」という建物も記されていた。表通りに面した部屋は「工作部家」と書かれ、商談する近くで銃の組み立てをしていた様子がうかがえる。
藪田名誉教授は「注文記録などの資料と、製造実態が分かるこれらの図面を突き合わせれば、まだよく分かっていない江戸時代の鉄砲鍛冶の実態に迫れる可能性が出てきた」と話す。
鉄砲は鍛冶や台木、金属部品などが分業化された工業製品で、屋敷がある堺環濠都市北部地区には刃物工業などの分業体制が今も残る。屋敷の一般公開に向け、市文化財課は「現代につながる江戸時代のものづくりの歴史にも触れられるようにしたい」としている。
堺の鉄砲、繁栄の歩み 鍛冶屋敷の絵図発見
毎日新聞 2019年1月20日 07時00分(最終更新 1月20日 07時01分)
https://mainichi.jp/articles/20190119/k00/00m/040/255000c