平成時代を最も端的に象徴するモノは「ケータイ(携帯電話)」ではなかろうか。昭和の終わりに登場した携帯電話は、あれよあれよという間に社会の隅々に浸透した。その普及過程は、そのまま平成の30年余とぴったりと重なる。【高橋努】

 その初期、ケータイは電話という単なる意思疎通の道具に過ぎなかったが、1990年代末にメール送受信やインターネット接続を可能にすると、社会は大きく変化した。いまや「ケータイがないと生活できない」という人がいても大げさではあるまい。

 自動車やテレビ、冷蔵庫など、これまでにも社会や生活の在りようを変えてきた文明の利器はあった。しかし、ケータイが従来の利器と決定的に異なる点は、普及がほぼ全世代の個々人に及ぶことだ。自動車は大人が運転するモノであり、テレビはあくまでも各家庭に備えられることを前提としたモノであった。

 だが、ケータイは違う。出現当初こそ、時間を惜しむビジネスマンら一部の人々の持つ道具であったが、低価格化と多機能化で一気に拡散して1人1台社会を実現した。青少年どころか、いまでは未就学児までがケータイを手にしている。それが平成という時代だ。

   ◇  ◇

 「小学校4年生の教室でケータイを持つ子どもを見た時の驚きは忘れられません」。長く小学校の社会科教諭を務めた川口正昭・群馬県教職員組合書記長(58)は言う。県教組勤めから小学校に戻った平成23(2011)年のことだった。ケータイが児童の間でも急速に広がっていることは聞いていたが、実際に目にしてたじろいだ。

 家庭訪問で聞いて回るとこの時点ではまだ「片手で余るくらい」ではあったが、子どもがケータイを所持している現実が分かった。どの保護者も「仕事で家に誰もいないので連絡用に持たせている」とのことだった。翌年担当した2年生にもケータイを持つ児童はいた。子どもに持たせることの善悪を論議する声は教育界ですでに上がっていたが、川口さんは「保護者との連絡手段ならばとがめるものでもない」と思っていた。

 その後、ケータイを持つ児童はどんどん増えていく。「あれれ」と感じ始めたのは、子どもたちの持つケータイが「ガラケー」から「スマホ(スマートフォン)」に切り替わり始めた平成26(14)年ごろからだ。「友達や先生に、自分の気持ちをきちんと話せない子が出てきたんです」

 通話を主機能とするガラケーと違い、スマホはライン(無料通信アプリ「LINE」)などさまざまな機能を持つ。児童もラインで友達と情報交換し、意思疎通を図る。「確かに便利ですが、これが子どもたちのコミュニケーション能力を低下させていると思う」と川口さんは言う。

 人々はラインの応答に素早く反応する。子どもたちも同じだ。即時性、速報性がラインの利点だからだ。その応答に「考えてものをいう」という作業が抜けているのではないか。会話とは、言語だけで成り立つものではない。相手の表情や様子をも観察しながら、互いの意思を確かめ合うものだ。「こう言えば相手がどう思うか、どう感じるかと考えながら進めるのがコミュニケーション。ラインなどのやりとりにはそれが欠けている。発信にすぐに反応するため、相手に対する配慮に欠けるコメントを平気で送ったりする」

 スマホを通じた意思疎通が多くなり、実際に相対して話すことができない、もしくは相手に配慮できず、感情のままに話す子どもが増えているというのが川口さんの実感だ。「人間としての機能低下ですよね」

 昨年2月に発表された内閣府の調査によると、全国の小学生のケータイ所有率は平成26(14)年度は46.1%で、そのうち約65%がガラケーだった。3年後の平成29(17)年度になると、所有率は55.5%に跳ね上がり、内訳もガラケーとスマホがほぼ半分ずつへと変わっている。調査は小学生全体の数字だが、高学年に限れば所有率はさらに上がり、スマホの割合も高いであろうことは間違いない。今後さらに数字は上昇していくであろう。

 かつては、伊勢崎市などのように、子どもにケータイを持たせまいとする動きもあった。「でも今ではもう無理でしょう」と川口さんは言う。持っていることを前提に、人としての機能が低下しないように努めるしかない。「難しいことじゃない。相手の気持ちを考えて尊重する。人としての基本を社会全体で考えることです」

 平成の次の時代、私たちはどんな「会話」を

※残念だけど続きはソース元で見てちょうだい!

https://news.infoseek.co.jp/article/mainichi_20190120k0000m040048000c/