>>116
俺も全部が架空とは言ってないわ
ただ推古天皇とか、明らかに架空の存在はいるわな


西暦607年、倭国は「日出る処の天子 、書を日没する処の天子に致す」
という親書を持たせて小野妹子を隋に派遣した。

翌608年、隋はこの使節に対し、帰国する妹子と一緒に、
文林郎・裴世清を日本に派遣。
裴は日本で「倭」の国王に謁見する。

この時の事を『倭国伝』はこう記載している。

『開皇二十年、倭王あり。
 姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)
 阿輩鶏弥(おほきみ)と号す。…
 王の妻は鷄弥(きみ)と号し、後宮には女六、七百人有り。
 太子を名づけて利歌弥多弗利(リカミフタリ)と為す』

(倭王はアメノタリシヒコという名で、オオキミ [王] と呼ばれている。
 オオキミの妻はキミという称号である。
 倭王の後宮には6〜700人の女が仕えている。
 また、皇太子の名前はリカミタフリと言う)